限界

「はよ部活いかな」「また新垣になんか言われるで」

 喧騒が足音とともに駆け出していく。帰りの回が終わり、生徒が減るにつれて朗らかな声が流れ出し、教室の中の静けさが戻っていく。いつもの放課後――そしてずっと一人のおれ。

 生徒に続くように、先生が名簿をもって教卓を横切っていく。おれに気づいて足を止める。

「あ――暇だったら、ゴミ出しといて、高羽」

「わかりました」

 おれが答える前に先生は職員室の方へ歩き出していく。おれは先生のようにすぐには歩き出せなかった。さりげない言葉で傷つくのももううんざりだった。

 おれは教室の隅のゴミ箱の蓋を開け、ごみ袋を引っ張り出す。燃えるゴミと、燃えないゴミ――ゴミ箱は時計の下に移されていた。もともとあった、おれが割った花瓶が飾られていた台を片付けたからだ。

 僅かに舞う埃。袋についていた紙ごみで手が汚れたが、気にせず、二つのゴミ袋をそれぞれの手で持ち上げ、教室を出る。

 両手にゴミ袋を持ちながら、階段を下りる。ゴミ袋をまとめて捨てる場所に一番近い階段は狭く、ゴミ袋を両手に抱えた状態では通るのがぎりぎりだった。階段を上がってくる人――他のクラスの男子と目が合った。

 おれは頭を下げ、二階の渡り廊下に移動する。男子生徒が階段を上がっていくのを見届け、またゴミ袋を持ち直し、つっかえながら階段を下りていく。屋外は既に冬の寒さに包まれていた。そのせいか、目視できる学生は数人程度しか見当たらなかった。日陰に沿っておれはゴミ袋を入れる場所まで歩いていく。

 なるべく気配を殺して歩く――いつの間にか癖になっていた。

 いつからこんなことをやるようになってしまったのかはわからない。花瓶を割った二か月前からなのかもしれないし、物心ついた時からずっとそうしてきたことを、今まで忘れていただけなのかもしれない。

 何もわからない――何も考えたくない。確かなのは、この胸に渦巻く気分の悪さと苦痛だけ。大きな鉄の箱。正式名称は知らない。気にしたこともなかった。ゴミ袋を一袋ずつ持ち上げ、投げ入れる。燃えるゴミを廃棄し、燃えないゴミを持ち上げた瞬間。

 不意に衝撃。背中を突かれた。バランスを失い、ゴミ袋に倒れこむ。ざらざらの地面に擦れ、ゴミ袋が破れた。霧散する埃と異臭。顔に粘度の高い液体がへばりつく。乾いた音を立てて転がるペットボトル。腐った飲みかけのジュース。気分が悪くなり、噎せた。

「なにぶつかってんだよ」

 冷たい声が背後から浴びせられた。おまえが押したんだろ――泣きたいほどの強い感情は全てを曖昧にした。クラスメイトの誰かだということはわかったが、不意に暴力をふるわれた悔しさのせいで、毒が回ったかのように思考がおぼつかず、声の主を思い出せなかった。

 背中をさすりながら振り返った。坊主頭――野球部の川口が手を払いながら真顔で立っていた。おれは目を細めた。

「なにその顔? お前さ、ほんま嫌われてるで」

 そんなこと知ってる――思いは何一つとして口に出せない。

「まじめにやってないから、壊してもなんとも思ってないんやろ」

 そうじゃない――誰もおれを受け入れてくれなかったじゃないか。仲間に入れてくれなかった。自分たちは平然と仲間を作り、一人ぼっちのおれなどいないものとして振る舞う。そして、おれをまじめに生きていないからとなじる。おれは耐えるだけで精一杯なんだ――

 目を閉じる。頭の芯が締め付けられる。ぎりぎりと痛みが広がっていく。

「マジで図星やから何も言わんのだろ? 最低野郎」

 金属音が脳天を貫く。頭の隅が弾けた。掌に力を込め、開く。気が付けば川口に掴みかかっていた。川口の顔面を握り、押しつぶす――全体重をかける。鈍い音に呻き声が重なった。生暖かい感触がじんわりと指先から広がり、掌を温める。眼窩からあふれる、黒い赤。

 はっとした。正気に戻った。視界が色あせる。右目を抑えて蹲る川口。凍てついた。掌を広げ、見つめる。赤が混じった、粘り気のある、白い物体。おれの指は川口の目玉を抉っていた。川口の右手はとめどなく流れる赤で濡れていた。

 おれはその場から駆け出した。自分の自転車――鍵は差しっぱなしだった。コンクリートの地面を足で蹴る。自転車のペダルを全力で漕ぎ、走らせた。背後で聞こえる、叫び声、悲鳴――すべて鼓膜から締め出した。


 

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