痛み

 居残りもせず家に帰った。今日は早いねと母に言われた。寒かったからとだけ答えた。

「弁当おいしかった?」

 おれは母の顔を見ずに頷いた。晩御飯ができるまでのわずかな時間、自分の部屋に閉じこもった。本棚を引っかき回す。文庫本――真島と会った帰りに買ったもの。眺めてだけで一頁も読んでいなかった。

 文庫本を開き、片っ端から頁を引きちぎってゴミ箱に捨てた。


 次の日から度々ものがなくなった。シャーペン、体操服、消しゴム――様々だった。体操服や消しゴムがなくなって右往左往していると、後ろから笑い声が聞こえる。

 おれはあくまでも平然と振る舞う――そう装う。何かしたら、一層おれに対する風当たりは強くなる――頭ではわかっていても、手足が、指先が震える。小テストの日に消しゴムを隠されると、問題を書き直せなかった。どうすることもできず、そのまま提出した。わかっていた問題も間違える結果となり点数は半分以下だった。

 眠れない日が徐々に増えていく。生活リズムがおかしくなっているのがわかる。平日の深夜に唐突に目が覚める。もう学校に行きたくないという思いが爆発する――それを形にすることはできない。

 逆に土日は、午後一時まで眠り続け母に呆れられる。次の日に学校がないときに見るのは、真島の夢だった。どうしておれを死なせてくれなかった――瘡蓋を剥がし垂れ落ちる血のような、痛みに満ち溢れた声がおれに爪を立てる。そうなんだ、真島さん。おれのせいなんだ。全部おれのせいだ。わかってるんだ。責められるのはもうたくさんだ。限界だ。やめてくれ――叫びに懇願する。

 限界なのはおれも同じだったよ――真島は一転して、低い声で語りかけてくる。黒い何かがおれを押しつぶす。窒息する。苦しすぎておれは声を上げる。それでもかまわず、のどが絞まっていく。おれの悲鳴に濁音が絡みついてくる。息苦しさが限界に達する――目が覚める。毎日が続いていくことがたまらなく恨めしく思える。

 一回風呂で気を失って、溺れかけたことがあった。いっそのこと気を失って、そのまま死ねればよかったのに。この苦痛から逃げられたのに――肌を伝う水滴を眺めて、おぼろげにそう思った。日に日にそれこそが望ましいという思いが強まっていった。

 また真島の夢。起きるまで夢とはわからない。どうしてだ。どうしておれをほっといてくれなかった――叫びはもはや呪詛に変わっていた。どうしておれは死んでいないんだ――おれの叫びが真島に共鳴する。

 互いの叫びは宙に浮かぶ、水のような膜に吸い込まれ、遮られる。日に日におれの叫びも大きくなっていく。身体中がちぎれそうな痛みに焼かれ、死にそうなところで現実に引きずり戻される。

 誰にも打ち明けることはできない。おれにそんな強さはない。


 二か月がたった。おれに対する嫌がらせはより直接的な、露骨なものに変わってきていた。

 一番大事になったのは、おれの筆箱が何かの刃物で切り裂かれていた事件だった。おれは隠そうとしたが、筆記用具を取り出さないと授業が受けられなかったので、その時に先生にばれてしまったのだ。

 先生は自分の授業をつぶしこのことについて追及したが、だれも名乗り出なかったためうやむやになった。おれからも何も言うことはできなかった。

 真島の事件の裁判はまだ始まっていない。それでもコンビニで三人を殺した真島が世間に与えた影響は大きく、定期的にニュースになった。もし真島が死刑になったら――おれが殺したことになるのか。あの場でおれが自殺を止めなかった方が良かったことが証明されてしまうのか。知りたくなかった。結末を知るのが怖かった。無限の時を願い、そんなものは生き地獄でしかないと思った。

 真島の死刑判決が決まる――そんな日は来てほしくない。小突かれ、ものを取られ、無視され、馬鹿にされ、見下され、笑われる。今と同じ日常が絶え間なく続く――吐き気がした。そんな日はもういらなかった。二つの悪性、それを形作る無数の悪意で板挟みになる日々。限界だった。

 真島が味わった人を殺さなければならなかったほどの絶望に比べれば、おれのそれなど他愛ないものだ――毎日毎日、自分にそう言い聞かせてきた。わかってはいたが、本当に心が限界だった。どこかへ逃げ出してしまいたかった。

 つい数日前までははっきりとしていた感覚すら、麻痺したようにおぼつかないものへと変わっていく。脳みそが軋んだ。おれはもう、真島の顔を鮮明に描けなくなっていた。


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