魔女の嫁入り
遠野例
01.結婚しました。お相手は幼なじみの男の子です。
わたしことフリス・ホーエンペルタの結婚は、二十二の春でした。
お相手――旦那さまは、幼なじみの男の子です。
本当のところ、十歳からのつきあいを――それ以来、ずっと一緒だったとはいえ――『幼なじみ』と呼んでいいのかと問われるとちょっと返答に困ってしまうのですが、とにかくわたしと彼の間では、そういうことになっています。
彼。
旦那さま。
シオンくん――シオン・ウィナザード。わたしの幼なじみで、旦那さまになるひと。わたしという『魔女』の運命。
式を挙げたのはトスカというちいさな町の、
天なる主神ライオスとその妻、地なる女神ウルリカの夫婦神を奉る、この国ではもっとも一般的な形式の聖堂。それは、この地において夫婦の婚姻を祝福するための聖堂でもありました。
まっしろな花嫁さんのドレスを着て、すてきな礼装のシオンくんとふたりで並んで。
祭壇の前で目を伏せ、頭を垂れて。
「――これを以て、新しきふたりの婚姻は天と創造の主神ライオスの定めし法のもと、大地と夜明けの女神ウルリカの祝福が与えられるでしょう」
祝詞が終わり、あとは婚礼の誓いのことば。
聖堂の神さまの前で、愛を誓うことばを捧げるのを残すのみです。どきどきと激しく跳ねる心臓の音を体の奥に聞きながら、わたしは息を呑む心地でそのいちばん大切な瞬間を待っていました。
「汝、新しき妻フリス――今日これより妻として夫を支え、夫を慈しみ、やがてその眠りに安らかなる
「ひゃ……いっ! 誓いまきゅ」
…………………………。
噛みました。
はい。噛みました。
噛みました! 舌を!
あまりの痛みといたたまれなさに、両手で口を押えてぷるぷる震えるしかできないわたしでした。
聖堂へ集まってくださった列席者のみなさまの間が戸惑いはじめたのが、背中越しにぴりぴり伝わってきます。
あと――どなたかわたしの状況を正しく察した方がいたようで、クスっと笑いを零すのが聞こえたりもしました。消えてしまいたくなりました。
いたまれない空気が、ざくざくと背中に刺さります。
司祭さまは辛抱強くわたしのことばを待ってくださっていましたが、それでも突然黙ってしまったわたしに困っているのは伝わってきます。ごほんごほんとわざとらしく咳払いして、しらけて緩みはじめた聖堂の空気を
(ば……かっ! ばか、ばか! 何してるの、わたし……!)
早くなんとかしなきゃいけない。わかってました。
けれど舌が痛くて、口の中はうっすら血の味がしていて、頭の中は嵐に巻き込まれた小舟みたいにぐるぐるごうごうしていて。
何をどうすればいいか考えがまとまりまらないまま、わたしの理性と思考は完全に目詰まりを起こしていました。
早く言わなきゃ、という焦りだけははっきりしているのに。
何を言えばいいか、その最初のことばが出てこないのです。
ぎゅっと閉じた瞼の隙間から、涙が出てきました。痛いのと、情けないのとで。
だって、だってわたし、よりもよってこんなたいせつな時に。こんな、みっともない失敗なんかして――
「フリス」
――と。短い呼びかけに続いて。
ほっぺたに触れた手が、ぐいと私の
思わず目を開けて、「わ」と零したわたしの口を。
彼の――シオンくんの唇が、塞いでいました。
あんまりびっくりして、最初の数秒くらい、自分の目に見えているのがなんなのかよくわからないくらいでしたが。
ほっぺたに触れた手と、重なった唇から伝わってくる体温、肌をくすぐるかすかな息遣いで、自分がどういうことになっているかが後から遅れてわかってきました。
痛かったのも忘れて、真っ白になってしまいました。
真っ白になった頭の中へ泡のようにぷかりと――真っ先に浮かんだのは、「神前の口づけって、ほんとは誓いのことばのあとだったよね……」という、つまらない段取りのことでした。
やがて。
唇が離れて。
シオンくんの顔が見えました。
わたしにとっては誰よりも素敵なかんばせ。
いつもは左目を隠している長い前髪を上げていて、目の下で横一文字に走る古い傷跡が見えました――むかし強盗に襲われたときについた傷なのだと、いつだったかに教えてもらったことがありました。
しっかり顔を上げて上を見ないと視線を合わせられないくらい背が高い彼は、聖堂を見渡して、通りのいい声で言いました。
「失礼しました。これが俺達の誓いです――なにぶん育ちが冒険者なせいで、言葉よりは行動を重んじてしまう性分でして。つい気持ちが先走ってしまいました」
冒険者。そう、彼は冒険者でした。
冒険者で、戦士。《雷光の騎士》、あるいは《王権守護者》シオン・ウィナザード――と聞けば、きっとご存知の方も多くいらっしゃることでしょう。
わたしも冒険者でした。
彼や他のみんなにくらべたらちっぽけなつまらない冒険者でしたけど、それでもシオンくんやたいせつで大好きなお友達と一緒に、この《
ええと、でも――その、さすがにそれウソですよね?
だいぶん苦しいウソですよね? ね、シオンくん。
わたしなんかはそんな風に思ってしまうのですけれど、でもシオンくんは自分に一切恥じるところなんかないと宣言するみたいに堂々と胸を張って言い、それから綺麗な所作で深く頭を下げました。
「ご列席の皆様には、若輩者の不調法をお詫びいたします。ですが俺は、いえ、このシオン・ウィナザードは今の誓いを
聖堂は静まり返っていました。
呆気にとられたような顔つきが半分、若いふたりのことと思ってか穏やかに苦笑する顔が残り半分の半分、さらに残った半分の半分が、痛快とばかりに笑う顔――くらい、だった気がします。
ごめんなさい。実はうろおぼえです。
だって、わたしもこの時はシオンくんの方ばっかり見ていて、ちゃんと聖堂の方を見るなんて心の余裕はなかったのです。
面を上げて、彼は微笑みました。
見れたのはその横顔だけだったけれど、聖堂の奇跡をいっぱいに散りばめたみたいに輝く、すてきな微笑みでした。
「大いなる十二
願わくば今日この日にあなたがたの祝福を以て結ばれる比翼の絆が、遥か時の果てまで我らの手と手を結びつづけますように」
深く
心当たりはいくつか思い当たるのですが、わたしは今もその答えを知りません。ちゃんと見て確かめられなかったのは、今でもちくりと胸を刺す後悔のひとつです。
そして、この時は――まるで最初のひとりが呼び水になってくれたみたいに、ひとつ、またひとつと拍手の音が増えていって。
やがて聖堂の高い天井まで埋め尽くすような万雷の拍手に変わった頃、彼はもう一度、深く一礼しました。
わたしはそれで、ようやく我に返って――隣に立つシオンくん、これからわたしの旦那さまになるひとへ倣って深く深く頭を下げ、聖堂に満ちるいっぱいの拍手、その祝福に心から感謝していました。
急に頭の中に広がったいっぱいの想い出とか、堰を切ったみたいに溢れ出したぐちゃぐちゃの気持ちとか、そんなものでいっぱいで。
それ以外のこと、それ以上のことなんて、わたしは何一つできなかったし、何をすればよかったかも考えられなくて。
そう――それが、はじまりの日。
みっともなくて恥ずかしくて、けれど振り返ればすべてがあまりに懐かしい。
《魔女》のわたしが幼なじみの、大好きな彼のもとへとお嫁入りした、その――何より誰より幸福な、はじまりの日のことでした。
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