第7話 アンシニカの瞳4



「はい。これ、返すわ」


 別れぎわに、アンシニカはあのブローチをさしだした。


「それはあなたに贈ったんだ」

「そう?」

「さよなら。アンシニカ。お元気で」

「ありがとう……」


 ル・ヴェドール伯爵邸の近くで、馬車が走りだすのを、ワレスは見送った。

 物悲しい瞳のアンシニカ。

 できれば、彼女のこれからが少しは明るいといい。そう願いつつ。


 その直後、背後で風を切る気配を感じた。とっさによけると、さっきまで頭のあったあたりを剣がよこぎっていく。さけてなければ、今ごろは首が胴体から離れている。


 ワレスが剣をぬいて身がまえると、男は舌打ちをついて逃げていった。

 まちがいなく、先日、アンシニカといっしょにいた男だ。顔に大きな傷がある。だが、この前は遠目だった。目鼻立ちまではわからなかったものの、今日は間近だ。ハッキリと顔の判別ができた。

 ますます、わけがわからなくなる。


 ワレスが意を決してヴェドール家に急行したときには、伯爵はすでに屋敷に戻っていた。


「伯爵閣下にお会いしたい」


 ワレスが言うと、召使いはいったんしりぞき、やがて「こちらへ」と案内する。

 三階のテラスに面した明るい部屋だ。伯爵の居室らしい。


 伯爵はワレスを見つめたのち、自ら口をひらいた。


「妻の浮気相手が私に何用かね? 図々しいにもほどがある」


 明るい室内で、ワレスは伯爵の顔をじっくり、ながめる。


「やはり、そうだ。さっき、外でおれを襲ったのは、あなただ。伯爵」

「……」

「ボサボサのカツラをかぶり、化粧墨で傷を描いていたんだろう?」

「……」


 強い視線で見つめると、伯爵はため息をついた。


「だから?」

「だからはないだろう? おれを殺そうとした」

「ほんの戯言ざれごとだ。本気じゃなかった」

「おれがよけてなければ死んでたと思うが?」

「そのときは寸止めしてたとも」


 寸止めできる速度ではなかった。思いきりふりかぶっていたから、絶対にあてにきていた。だが、そこは指摘しても堂々めぐりだ。


「つまり、アンシニカが宝石店の裏で話していた男はあなただ。あなたたちは夫婦でおれをだまそうとした。なんのために? あのブローチを手に入れるため? いや、違う。おれが話していたとき、店員は一度、アンシニカを見た。だが、とくに注意することなく、おれとの話を続けた。そのわけは、おれは逃がすと二度と来ないかもしれない一見客だが、アンシニカはいつも来るなじみ客だからだ。しかも、ほっといたほうが喜ばれる客。ふつうの客は常連なのに放置されれば機嫌を悪くする。ということは、だ。店員はアンシニカの手癖を知っていた。知っていて、好きにさせている。あの店で彼女はいつも、ああやって男をハントしてるんだ。そうだろ?」


 伯爵は渋い顔で黙りこむ。

 ワレスは続けた。


「商品はあとで返しているか、あるいは、あなたが裏で支払いをしている。アンシニカはあなたが浮気していると言った。あなたの気を惹くために、自分も浮気をする。そうなんじゃないか?」

「私は浮気なんかしていない。あれは彼女の妄想だ」


 今度はワレスが沈黙していると、伯爵は一人で語りだす。


「アンシニカは奇妙な女だ。君にあれがなんと言ったか知らない。どうせ、自分はもと娼婦だとか、死にそうな母がいるなどと話したんだろう? それはみんな嘘だ。彼女の生家はル・タイユ伯爵家だ。正真正銘ふつうの伯爵家の令嬢だよ。両親もまだ健在だからな。なんなら君に会わせてもいい。だが、彼女は子どものころから妄想癖があった。自分が不幸な生まれで、お芝居のような悲しい過去を背負っていると思いこんでいる」


「修道院にいた母は?」

「あれはただのぼけた、そのへんのばあさんだ。修道院には寄付をしてるからな。彼女のお芝居につきあってくれている」


 この時点で、伯爵とアンシニカ、どちらが嘘をついているのか、ワレスにはわからなくなっていた。どちらも嘘っぽい。

 ということは、やはり、アレだろうか? それだけではあってほしくなかった。違っていてほしいと考えていた。三つめの可能性……。


「修道院の老婆がほんとの母ではないだろうとは思っていた。アンシニカの母親にしては年齢が高すぎる。貴族の屋敷で小間使いをしていたときに娘をみごもったなら、もっと若いときの話でなければ辻褄があわない。いくらなんでも、四十の小間使い相手に、貴公子が手を出さないだろう。愛人にするのに適した女は、まわりにいくらでもいるはずだ」

「たしかに」


「でも、それは、自分の生まれに夢を見たい、アンシニカの願望かもしれないと考えた」

「彼女は貴族の娘だよ」

「それは、あなたが言ってるにすぎない」


「アンシニカが嘘をついているかもしれないだろう? 彼女は生まれついての嘘つきなんだ。いや、嘘つきというのとも違うな。夢の世界で生きる人とでも言うのか。悲劇のヒロインとして生きて、若い男との恋を楽しむ。彼女にとっては、それが人生の楽しみなんだ。妻の退屈しのぎにつきあってくれて、礼を言う」


 ワレスだって、そうじゃないかとは考えていた。伯爵がワレスを殺そうとするまでは。


「ほんとはそうじゃないんだろう?」


 伯爵の目がキラリとするどい光をなげる。

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