神様、仏様、たぬき様!
朝比奈夕菜
第1話 エンカウント
「新刊一冊ください!」
「ありがとうございます!」
普段ではありえないほど張りのある声で、そして満面の笑みで自分の頒布物を渡す。
同人誌即売会。
オタクならば一度は行ったことがあるのではなかろうか。行ったことがなくても行ってみたいと夢見ている少年少女のオタクもいることだろう。
かくいう私は中学二年生の時に即売会デビューを果たした。
今でこそオタクも市民権を得つつあるが、私が通っていた中学ではオタクであるとバレたらそれすなわち人権を失うことを意味していた。
そのため、日常はひたすらオタクであるという事をひた隠しにしてきた。
奇跡的に見つかった数少ない同士で息を潜めて漫画の貸し借りをしたり、作品の感想を言い合ったりしていた。
オタクがオタクに目覚めたら、まず本屋で買える自分好みの本や漫画をお小遣いの範囲で買い漁ることをする。お小遣いには限度があるので、オタク仲間で漫画の貸し借りをしながら布教していくのである。
そのあとは、仲間内の誰かが同じような趣味を持った兄姉や年上の親戚のお兄さんお姉さんから「同人誌即売会」の存在を教えてもらい、それに行きたいと夢見るようになるのだ。
そこでは作品の「もしも」がある。
もしもキャラクターがあの場面で違う選択肢を選んだら。
もしも殺伐とした世界の中に束の間の休息があったら。
もしもあの時、キャラクター同士がこんな会話をしていたら。
もしも舞台が現代だったら。
もしも死んでしまったあのキャラクターが生きていたら。
自分の思う「もしも」を形にして、感情を共有できる同士を探す。それが同人即売会の一面だと私は思う。
他にもアクセサリーを作ったり、コスプレをしたりと、いろんな表現方法で自分の好きな気持ちを表現する。
周りの目に怯えてばかりいた私にとって、あの空間は夢のようだった。
自分の「好き」を自由に表現してもいい場所。
好きなものを馬鹿にされたり、笑われたりしない。というかそんな事をしている暇などない。自分の好きなものを余す事なく全て摂取することに皆必死だからだ。
もちろんグレーな世界ではあるので、そこら辺のルールを学んで守りながらではあるが、それでも日常の不自由に比べれば充分に自由の範疇だ。
それに、ルールを守ることはその場にいる同志やそもそもの作品を生み出した作家さんに敬意を払うことにもなるので、全く苦ではない。
そして同人即売会や同人誌がなんたるかをよく学んだ頃には、次は自分でその「好き」を表現したくなってくるのだ。
個人差はあるだろうが、私が同人誌即売会でサークルデビューを果たしたのは大学生になってから。
アルバイト代は推しアニメの円盤やグッズ、そして同人誌を作る為、買う為に儚く消えて行った。
社会人になってからもやることは変わっていない。
十年以上もやっていることが変わっていないとか我ながらどうなんだと思うが、これが楽しいのだから仕方ない。
唯一変わったといえば、社会人になったことで推しに使うお金が多くなったくらいだろうか。
とにもかくにも、忙しない社会人をしながら休みの日はオタク活動に勤しんでいた。
しかし、何事にも晴天の霹靂というものは存在する。
「けいちゃん他のサークルさんに挨拶行ってきたら?」
「じゃあお言葉に甘えてお先に行くわ」
私が提案すると、オタク友達のけいちゃんが軽く荷物をまとめて挨拶回りの準備を始める。
準備をするけいちゃんを眺めていると、スペースの前に人が立つ気配がした。慌てて前を向き、笑顔を浮かべて挨拶をしようとしたが、
「あ、こんに……ち、わ……」
目の前に立っている人を見て私は言葉を失った。
今日は女性向けジャンルの同人誌即売会で、会場には圧倒的に女性が多い。男性といえば男装のコスプレイヤーさんがほとんどである。
だが、今私の目の前に立っているのは、まごうことなき男性である。
しかも長身で五月の爽やかな風が背中から吹き抜けそうな爽やかなイケメン。装いはシンプルだが、イケメンがゆえにシンプルな服装が元の素材の良さを引き立てている。
テレビでたまに耳に挟む「港区男子」というのはこういうことをいうのだろうか。
私以外も周囲のサークルさんや通りすがりのコスプレイヤーさんも港区男子(仮)の圧倒的な顔面力と場違い感に釘付けで、遠巻きに見つめてヒソヒソと囁き合っている。
しかし、私はそれ以外の理由で内心冷や汗をダラダラかきながら、彼に釘付けだった。
彼の名前は
なぜ港区男子の名前を私が知っているのかというと、彼は私の高校時代の同級生だからである。
入学当初から目立っていて、優れた容姿に加えて絵に描いたような善人で瞬く間にスクールカーストのトップに上り詰めた。
しかし本当に人が良いので、自分がスクールカーストトップに君臨していることなど全く気にしていなかった。
もしかしたらスクールカーストという言葉や概念を知っていたかどうかも怪しい。
爽やかな笑顔で誰にでも気さくに話しかけ、前向きな考えと底抜けに明るい性格で、不思議と周りの空気を明るく楽しくさせる人だった。だからこそ、老若男女に爆モテしていたのだろう。
今の吉鷹晶はあどけなさが消えて輪郭や体型がシャープになったからか、高校時代よりイケメンに磨きがかかっている。眩しさのあまりこちらの目が潰れそうだ。
そんな彼がこんな場所で一体何をしているというのか。
あれか、彼女がオタクでイベントに一緒について来ちゃった系か。だったら彼女について行けよ。ここに一人でいると勝手に受けと攻めに分類されて腐女子の妄想でめちゃめちゃにされるぞ。
ちなみに私は受けに一票……って、違う違う違う。
現実逃避をするな。今この危機をどう乗り越えるかに集中するのよ、
「あの、すみません」
「へい!?」
声をかけられてビビるあまり江戸っ子みたいな返事をしてしまった。
「この新刊? ってやつを一冊欲しいんですが」
「しょ、承知いたしやした……!」
動揺のあまり江戸っ子が抜けない。
やはり慣れていない様子を見ると彼女のお買い物説が濃厚か。
在学中に接点はほぼなかったので、向こうが私を知っている可能性はゼロに近い。
ここは何事もなかったかのように対応して、早々にお帰りいただくしかない。
「新刊、既刊合わせて1000円になりやす!」
もう江戸っ子口調が馴染みすぎて抜けない。今までそんなキャラクターのレパートリーはなかったくせに、慌てるあまり変な自分の引き出しを開けてしまったらしい。
平常心、平常心、と心の中で必死に唱えながら、震えそうになる手で新刊と既刊を用意して渡そうと差し出すと、吉鷹晶がじっとこちらを見つめてくる。
「……もしかして
突然のドンピシャ本名呼びに思わず固まった。
「
いや、覚えてます。きっちりバッチリ。
私たちの代で吉鷹晶を知らないなんて、日本人で織田信長を知らないみたいなものだ。
逆になんであなたは私の事を知っているんですか。吉鷹晶が織田信長なら、私は百姓がせいぜいだ。偉大な領主が百姓の事をご存知なはずがない。
「お、覚えてます……!」
数秒後、ここで知らないフリをすれば良かったー! と思った。まさに後の祭りである。偉大な演歌歌手が頭の中で景気良く歌っていた。切羽詰まった時でもくだらない妄想をするのをやめたい。
「やっぱり! 一度委員会で一緒だったよな?」
確かに吉鷹晶とは三年生の時に風紀委員会で一緒になったことがあった。吉鷹晶が委員長で、私は書記をしていた。
委員会の仕事の関係で何度か話したことはあるが、そんなに印象に残るような出来事はなかったと思う。それでもこんな影の薄い人間をちゃんと覚えているあたりができる人間たる所以なのだろう。
「柴村さんって漫画家だったんだなぁ」
吉鷹晶の言葉に思わずその場でずっこけた。椅子に座って静かに動向を見守っていたけいちゃんも椅子からずり落ちそうになっていた。
私達の奇行を目にした吉鷹晶は目を丸くして私を見下ろしている。
「えっ、大丈夫? 体調悪いのか?」
「い、いえ、大丈夫です」
机にしがみついてなんとか起き上がる。
とても恐ろしい推測だが、もしかして彼は今日この場で催されているオタクの祭典についてあまりご存じでないかもしれない。
誰だ、こいつをオタクの祭典に放り込んだ奴は。彼女か。
「あの、私はプロの漫画家とかじゃなくて……ただの趣味で漫画を描いてて……」
「そうなのか? でもこれ、テレビアニメのキャラクターだよな?」
一般人の穢れなき質問に、オタク心がグサグサと滅多刺しにされる。
「アニメのキャラクターをその、お借りして、自分の解釈を書いたものでして……」
心に重傷を負いながらも、なんとか説明をする。
果たしてこんな説明で通ずるのかは分からないが、あまり詳しく話すのも辛い。
そもそも、彼は同人誌、今この場で言う二次創作のことはご存知なのだろうか。一体全体どこまで説明すればいいのか、全く検討がつかなかった。
彼女さん(仮)、ちゃんと説明してから現場に連れて来てよ。未知の一般人程怖いものはないんだからさ。
「へぇー! そうなんだ!」
理解したのかどうかは分からないが、吉鷹晶は目を丸くして机上に並べてある同人誌を眺めた。
彼が穢れなき瞳で私の書いた同人誌を見つめているのだが、そんな綺麗な瞳で見つめないでほしい。本来一般人の方から隠れなければならない代物だ。
「じゃあ仕事は別の事しながら描いてんの?」
「まぁ、そういうことになりますね……」
へぇー! とこれまた吉鷹晶がキラキラとした目でこちらを見つめてくる。
やめてくれ。そんな崇高なことは何一つとしてしていないんです。ただただ自分の欲望を具現化しているだけなんです。火の無いところに一生懸命煙を立たせてるだけなんです。本当に勘弁してくれ。
一般人に私のオタク趣味がバレたら、まずはドン引きされるだろう。まるで家で遭遇したGのつく台所昆虫を見るような目で見られるのがほとんどだ。
しかし、一般人にありがちな「オタクキモい」の表情の方がまだ慣れている。
いわゆる結婚適齢期だというのに、家庭を持たずに(持つことができるかどうかはまた別の話だが)自分の好きなことばかりしていることへの後ろめたさがあるので、面と向かって褒められるとに罪悪感がすごい。
「妹に頼まれておつかいに来たんだけど、よく分かってなくてさ。こんな世界があるんだなぁ」
妹おおおおー!! と見たこともない吉鷹晶の妹に向かって絶叫した。
なぜ一般人の兄に同人誌のおつかいなんて頼んだ!?
百歩譲って一般人におつかいを頼むならちゃんと同人即売会やオタクについてレクチャーしおいてくれ!! というか吉鷹晶の妹がオタクとか全く想像がつかないんだが!? ラノベか!? いやしかしラノベなら美人の妹にこき使われる冴えない俺、みたいな感じになるので吉鷹晶が主人公な時点でラノベではないか……と怒涛のごとく脳内でツッコミが炸裂する。
何も知らない一般人を同人誌即売会、しかも男性に女性向けのジャンルに行けというのはこれいかに。妹、無茶振りが過ぎるぞ。
「……あの、回り方とか分かりますか」
一般人には難解すぎるクエストだ。余計なお世話かもしれないが、聞かずにはいられなかった。
「いやーそれが全然! この記号が場所を示してるっていうのは分かるんだけど、どういう意味なのかさっぱりでさ! 妹にメッセージ送ってるんだけど、仕事中だから連絡返ってこなくってさ」
デスヨネー。
我々オタクにとっては宝の座標となるサークル配置を現す数字とアルファベットの羅列。知らない人からしたら謎の暗号にしか思えないだろう。
「適当に回ってたんだが、柴村さんのところは端っこだから辛うじて分かったんだよな」
申し訳ないがそこは永遠に謎の暗号のままでいて欲しかった……と思ってしまった。世の中には解き明かさなくて良い謎だってあるんだぞ。
「結子、店番代わるわ」
けいちゃんが用意していた荷物を下ろしながら申し出てくれた。拝み倒しながらけいちゃんと店番を代わってもらい、スペースの横に出て人通りの少ないところで再び吉鷹晶と向き合う。
「あの、妹さんのおつかいリストってありますか」
「あるある」
吉鷹晶は頷きながらスマホの画面を見せてくれた。
妹さんのメインジャンルは今日私が出している新刊のジャンルと一緒だった。
「とりのこ」という、鳥類を男の子のキャラクターに擬人化した作品である。
本人の趣味の傾向なのか兄に遠慮したのか(ここまでさせて遠慮するのかどうかは謎だが)どうなのかは分からないが、成人指定のものはなくて思わずほっとした。
自分のスマホでサークル配置図を呼び出し、現在地を青丸、該当するサークルに赤丸をつけていく。
「現在地がここで、妹さんのおつかいリストにあるサークルさんが赤丸で囲った所です」
「えっ!? ありがとう!! データ送ってもらってもいい!?」
「え、あ、ハイ」
オタクと連絡先を交換するなんて気持ち悪いだろうと思ったのだが、真の光属性はそんな些細なことは気にしないらしい。
連絡先を交換して、吉鷹晶にデータを送る。
「あと、できるだけ一万円札や五千円札は使わないようにした方がいいです。千円札持ってますか」
「えっと……あー……」
自分の財布を開いた吉鷹晶は遠い目をした。
「良ければ両替しますよ」
「マジで神……! ありがとう!!」
パン! と勢いよく両手を合わせて吉鷹晶が拝む。
「早く行かないと売り切れちゃいますよ」
「柴村さん本当にありがとう! お礼は今度必ずさせてくれ!」
「お気になさらず。お気持ちだけで大丈夫です」
こちらに手を振りながら早足でこの場を去って行く吉鷹晶の背を見送る。
「あそこだけ作画が違うじゃん。神作画」
スペースに戻るとけいちゃんが吉鷹晶の背中を見つめながら感心したように呟いた。
「本当に」
「知り合い、よね?」
私の感覚では知り合い、と言われたら違うのだが、あちらは私のことを覚えていたようなので知り合いと言ってもいいのかもしれない。
「高校の時の同級生。妹におつかい頼まれたんだって」
「……妹に頼まれて同人誌即売会にお使いとは、どこぞのラノベみたいな展開ね」
けいちゃんも思うことは一緒のようだ。
「ね。頼む妹も妹だけど、あんまり動じてない兄もすごいよね」
私にも兄がいるけれど、うちの兄は私と同じオタクなのでまだ頼みやすい。頼む同人誌のラインナップはだいぶん選ぶけれど。
だが、何も知らない一般人の異性の親族には絶対頼めない。お父さんとかには絶対無理。
「吉鷹くん、顔立ちが綺麗すぎてとっつきにくいのかと思うけど、朗らかで誰にでも親切でさ。運動会のフォークダンスはなんでか男子生徒も吉鷹くんと踊りたがって、男女関係なく「女の子」になってた」
「マジで二次元じゃん」
創作物を凌駕する男。二次元を愛するオタクから最も遠い彼だが、彼自身が限りなく二次元に近い存在といえる。
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