ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤCollapse and the darkness
あの大地震到来から一夜が明けた。
あれから俺もシェルターに移動して、暫くそこでひっそりと暮らすことにしている。
俺は今、かつての町だった場所を歩いている。波は引き、再び地表が姿を現したが、波とともに多くのものが引きずり込まれ、目の前からは記憶の中にあるものと同じ景色は消えていた。
水浸しになった土地は寒々として、液状化の起こった道はまるで昨日の面影を残さず、周囲に散らばる故郷の破片が、家の前の花壇に植えてあったであろうダリアの残骸が、かつての世界が終焉を迎えたことを告げていた。
昨日まであったものの殆どが失われた、この故郷でありもはや故郷でない場所を眺めやっていると、昨日まで普通に考えられた「明日」にさえ徐々に霧がかかってゆく。
道行く人の顔には生気はなく、操り人形のように彷徨っている。
…が、それはこの場にいる者すべてに普遍的なものというわけでもなかった。
「あらあら、隆誠くん無事だったのねぇ」
歩いている途中、前方から声をかけてきたのは近所の老婆。しわがれて重く形の鈍いはずのその声は何故かすっと頭の中を通り抜けた。その姿は前の世界にあったものと変わらず、何一つ失ったように思えなくて俺は多少の狼狽を覚えた。
「こんにちは、何されてるんですか?」
「見たら分かるだろう?掃除だよ、掃除。」
そう言ってせっせと瓦礫を処理しているその手先は若々しく、その顔には「明日」へ歩き出す気概に溢れており、その目には「未来」が映っていた。
俺はその姿に尊敬の念さえも抱いた。
するとそこに見知った男が駆けてきた。
「隆誠!見つけたぁ!」
高田だ。
彼が血相を変えて走ってくる。何かから逃げているようにも、何かを追っているようにも見えた。
俺のもとまでやってきた時、既に彼の息は上がっていた。その様子から何かあったことは明白である。
「どうした!?高田!」
蒼白ではち切れんほど引き攣った彼の表情と、何人もの人間に一斉に睨みつけられるようなただならぬ圧迫感から俺は意識したよりもずっと大きな声で問うた。
「な…亡くなった。」
小刻みに震えながらぽつりと彼は確かにそう言った。しかしその声には陰惨な吐息が混じり合い、それが言葉の意味をかき消してしまう。
「え?何だって?どういうことだ?」
俺はもう一度聞き返した。だが返ってきた言葉は実にむごたらしい現実だった。
「お前の母さんが亡くなったらしい…。」
「は?」
見事に素っ頓狂な声をあげてしまった。
「倒れてきた棚に頭が下敷きになったそうだ…。」
彼は続けざまに淡々とそのときの状況を喋るが俺にはもう到底聞く力なんて残っていなかった。
ただ腐った人形のように棒立ちしているだけ。でも心の中では崩れさっていた。
「今夜、遺体を1か所に集めて葬儀の代わりって感じのものをやるそうだ。夜になったら避難所の近くに来いよ、じゃな、俺はまだやることがあるから。」
そう言って高田はすたこらさっさと目の前の重苦しいモノから逃げてゆく。
こんな時までお調子者であるように感じてしまった。
…夜までどう過ごそうか。こんな心境ではたまったものではない。
その後、結局俺は避難所で夜まで寝て過ごした。別にやりたいこともなかったし、やる必要があるとも思わなかった。
何も考えずに時計を眺めると、もう集合時間が近くなっていた。といってもまだ多少人が残っているが。俺は他の住民の持つ星のような文旦を眺めていた。
さて、流石にそろそろ行くか、と重い身体を起こす。頭は鉄球と入れ替わったのかと思うほどずっしりと重かった。
外までずるずると体を運ぶ。
既に日は眠りについていた。辺りには無を象徴する暗闇と静寂だけがあり、こちらの存在に気づくと自分たちの元に招き入れようと生暖かくまとわりついてくる。
俺はそんなことは無視して指定された場所へのろのろと歩き始めた。
周辺にところどころ散らばる瓦礫の山は、昼に見たときは打って変わってむさ苦しいだけのものになっていた。
街灯はもう消えていて、頼りにできる明かりはない。いつもより遥かに黒い夜道を俺は無心で進んでいた。
暫くすると突如目の前に眩い光が飛び込んできた。もう例の場所についたらしい。
暗がりの中唯一光を放つ小さな公民館は、どうしたことか照り映えていた。
「おお、隆誠、心配したぞ!」
別世界の入り口のような光の館に入るや否や、よく見知った男性から声がかかった。
俺の父親である。
「父さん、帰ってきてたのか。」
「ああ、流石にな。あんな地震があったんだ、すぐ飛んできたよ。」
彼は安堵の微笑をしながら答えた。
父は仕事の都合で東北にいる。今回の地震を受けて帰ってきたようだが、こんな辺境の地まで相当時間がかかるはずだ。
それをこんな短時間で帰ってきたのだとすると余程心配してくれたのかと思い、俺の頬も少しばかり緩む。
「それで…母さんの遺体なんだが…。」
突如父の纏う空気が重くなり、無言で俺を遺体安置中の部屋へと連れて行った。
そこには想定以上の数の遺体があった。
防腐処理がされているのだろうか、臭うことは決してなかった。
辺りには各遺体の前で呆然と立つ人や泣き崩れている人がいた。
「ここだ。」
父がそう言ってとある遺体の横に立ち、頭の布を取った。
…それは紛れもなく自分の母であった。
しかし不思議なことに、その顔を見ると心の中の不安や焦燥が消えていくようであった。
…母はもう仏となってしまったのであろうか。そう思われてしまうくらい、その現象は少々神妙なものであった。
俺はだんまりと立ち尽くし、母だった物体の頭部を眺めている。
父も同じく黙って立っていたが、母の顔にも俺の方にも視線を向けてはいなかった。
俺はすぐに父の方に向き直り尋ねた。
「葬儀の代わりのようなものって何すんの?」
「…仮埋葬さ。」
父は視線を変えず、重々しく言う。
なんでも遺体の数が多すぎて、こんな田舎の火葬場だけじゃ処理しきれないらしい。
そしてその説明をしている間も、父の表情は苦く、涙こそ浮かべていなかったがどこか悔しそうであった。
ただ声には一切の感情を込めず、周囲では昔を懐かしみ別れを嘆く大荒れの感情の海が広がっていたが、俺たちの間だけ何もない無感情の孤島がぽつんと立っていた。
少しばかり沈黙があった後、父がこちらを向き頬を緩めて口を開いた。
「そうだ。あれだけデカイ地震だ…。余震も相当なもんだろうな。いつ来るか分からないし、今のうち色々準備もしないとだな。」
しかしこの言葉を受けて、孤島の俺の立っていた場所に高波が押し寄せた。
「えっ」
無意識に声が溢れる。
様々なことに考えを巡らせてしまう。余震が来て、また多くの命が消えたら?その時俺は無事でいられるのか?…そういえば奈美は無事なのか?
そうだ、奈美だ。奈美を見ていない。彼女が無事かどうかの連絡も何も受けていない。俺は焦っていた。
明らかにあたふたしていると父が首を傾げて「どうした?」と聞いてくる。
不器用な父だ。話題を変えたのは父なりの配慮のつもりだろうが、俺にはそれがかえって脅威となった。
「わ、悪い…。なんでもない。
そうだ、なんか目も冴えてきたしちょっと夜風に当たって来るよ…。」
孤島は沈み、かと言って周り全体に広がる感情の海に俺が立てるはずもなく、その場を離れた。
「おう、すぐ戻ってこいよ」
背後から父の見送る声が聞こえた。
外に出たあと、俺は自分でも意識しないうちに昨日逃げた丘の方向に歩いていた。まるで何かに連れて行かれているように。
さっきも歩いた黒い道が、一層呑み込まれるような色になっていた。
何も見えない道の奥をぼけっと見やって進む。そうしていると
「やぁやぁ、こんな暗い中どこ行くんだい??」
慣れ親しんだ声が聞こえてきた。
母のものではない…そう、もっと若々しく元気な…。これは奈美の声だと判別できるまでそう時間はかからなかった。
「奈美、生きてたのか!」
しかし俺が振り向こうとすると、
「あっ、振り返っちゃだめ!」
と、いつもの彼女からでは想像もつかないほど強く止められた。
「え、どうして…。」
これにはどうしても困惑が隠せない。けれど彼女は「理由は言えないよ。」とはぐらかすばかりであった。
そうして俺たちは例の丘へと歩みを進める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます