白い部屋

困難人形

本編

 午前1時過ぎ。終電が終わった後の駅というのは冷酷なもので、すぐに暗闇が辺りを支配した。月も出ぬ今宵、足元を照らすのは小さな駅前のロータリーに設置されている3色の信号機と、頼りなく光る水銀の街灯だけであった。

 季節は夏だというのに肌寒いのは、夜風のためばかりではないだろう。致し方ない、少々痛い出費ではあるがタクシーを使って自分の家へと帰ることにしよう。

 しかし、不幸とは重なることが世の常である。タクシーを呼ぼうと携帯電話を見るが、電池が切れてしまっているようだ。どうしたものか。

 ふと、辺りを見渡すと公衆電話ボックスを見つける。あそこなら電話帳が置いてあるだろうからタクシー会社に電話をかけることが出来るかもしれない。藁にも縋る思いで電話ボックスへと向かった。

 中に入るといたって普通の電話ボックスなのだが、電話帳がどこにも見当たらなかった。深くため息をつき外に出ようと扉を押すと、上から1枚の紙切れが落ちてきた。

 紙には1文だけ、「ようこそ、お待ちしておりました」と書かれている。

 何かの悪戯か?と首を傾げ前を向くと、先ほどまでの街並みが幻だったかのように白い空間だけが広がっていた。


 白い、唯々白いだけの空間にどこか懐かしさを感じた。勿論、このような場所に来たことなどない。あるいは覚えていないだけかもしれないが。どちらにしろ、記憶にないことだけは確かだ。

 不思議と恐怖心はない。まるで此処が安全な場所であることを元から知っていたかのようだ。

 電話ボックスから一歩出る。トンネルの中のような足音が部屋に響き渡るが、どうやら此処に他の人間はいないので気にする必要はないだろう。

 数歩歩き、ふと電話ボックスが気になり後ろを振り返るが、そこにはただ白い空間があるだけだった。

 部屋の広さは10mほどの正方形のように見え、高さは4~5mはあるだろうか。

 唯一の人工物であった電話ボックスが消えてしまったにも関わらず、やっと異物がなくなったという安心感を抱いてしまっていることはきっと正気ではないのだろう。

 だが、1か所だけ壁に扉があるのが見えた。あの扉を開けなくては。無意識にそう思ってしまう。

 扉に向かって歩き出した。一歩、また一歩。しかし、どれだけ歩みを進めても扉に近づくことが出来ない。まるで扉を開ける資格がないと言われてるような気分だ。

 それでも歩みを止めない。一歩、また一歩と踏み出した足はいつの間にか全力で走り出す。だが、どれだけ走ろうとも決して近づくことは出来なかった。

 落胆しつつも、どうしたものかと思考を巡らせていると後ろから声がかかる。

 「嗚呼、こちらにいらっしゃいましたか」

 声の主は優しく微笑んだ。


 「少々手続きに時間がかかってしまい、あのような方法でしかお連れすることが出来ず、誠に申し訳ございません」

 中性的な顔に中性的な声、華奢な体形に手には白い革の手袋をしており、性別や年齢が分からない。

 「とりあえず、立ち話もあれですから、こちらにどうぞ」

 そう言うと、その人は目の前から消える。比喩でもなんでもなく消えたのだ。

 「さあ、こちらに」

 急いで振り向くと、そこにはバーカウンターに座っているその人がいた。

 「タネも仕掛けもある手品ですよ」

 クスクスと可憐な笑みを見せている。

 「ええ、聞きたいことは分かっていますよ。でもとりあえず何かお飲みになっては?」

 少し悩み、アイスコーヒーのブラックを思い浮かべる。するとすぐに目の前にそれは出てきた。

 「驚かれましたか?でもご安心ください、これ自体は何の変哲もないコーヒーですから」

 そう言われ、一口飲んでみる。が、味はしない。香りは確かに飲み慣れたそれのはずなのだが。

 「さて、まずはここへご案内できなかったこと、改めてお詫び申し上げます。私の事はハクとお呼びください。そして此処は貴方の為に作られた部屋です」

 ハクと名乗るその人は更に言葉を続ける。

 「先ほど扉に向かわれていましたが、近づけなかったのは少しだけ時間が早かったのが理由なんです」

 決められた時間があるのか?

 「あります。その時間までゆっくりとしてもらう為にこの部屋はあるんです。恐らく、もうすぐ時間になるはずなのですが」

 意外とすぐに開くんだな。そんなに待った感覚はないんだが。

 「ええ、今は不足しているので早いんです」

 不足?いや、それよりなぜ考えてることが分かるんだ?

 「それはですね…失礼、どうやら時間のようです」

 待ってくれ、まだ聞きたいことが

 「残念ですが、もう分娩室に着いたようなので。貴方の幸せをお祈りしております」

 そうして扉は開く、と同時に途轍もない力で吸い込まれる。抗おうにも全く歯向かうことが出来ない。

 最後の記憶は、優しい笑みを浮かべたハクの姿だった。


 「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」

 「嗚呼、本当によかった…」

 とある病室で新しく母親となる人は愛し気に自分の赤子を抱く。傍には父親となる男が人目を恥じず泣いている。なんと幸せそうな光景か。

 女の枕元に置かれていたラジオはニュースを流していた。

 『昨日未明、○○駅で起きた車両の脱線事故についての新たな情報です。脱線した車両を調べた結果、30~40代の男性の遺体が発見されたようです。男性の遺体は舌が強く嚙まれたことにより千切れてしまっており、事故の凄惨さを物語っています。警察では当時運転していた乗務員の過失も視野に入れ…』

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