第3話

 家へと続く大通りを少し脇道わきみちれて、芽依めいは市場へと向かう。この国で一番にぎわっている市場で、様々な品物が立ち並んでいた。

 そこで芽依はいくつかの食材を見繕みつくろう。


「これだけあれば、四人で食べても二日はもつよね」


 実際は三人暮らしなのだが、護衛として門番が一人、城から交代制で来てくれているのだ。夜中もいてくれるわけだから、当然ご飯も食べていってもらっている。もう一人の門番は芽依の家専属の門番で、芽依が六歳の時に配属されてきた。当時その門番は十四、五歳程度の見た目をした青年で、年が一番近く、よく遊び相手になってくれていた。

 ……まぁ、今は口を開けば喧嘩の毎日だけれども。

 今日もそうだった。いつもなら市に行く時は一度家に帰って門番に頼んで一緒に来てもらうのだが、昨日喧嘩した為に頼めなかったのだ。

 市に一人で行く事は造作ぞうさもないことだが、そうすると道に迷って家に帰れなくなってしまう。

 自分が方向音痴なのではない。市からの道が複雑なせいだ。

 今日は必ず一人で帰ってみせるぞ、と、絶対不可能な決意をした芽依だったが、店の人から紙袋いっぱいの食材を受け取ると、思わず顔をほころばせる。

 今日の夕飯は何が良いかな。

 そんなことを頭の中で思い浮かべながら、芽依は市場への道を後にした。




「………………あ、れ?」


 芽依は今さっき目が覚めたような感覚で意識がハッキリすると、ゆっくりと辺りを見渡した。

 …………ここ、どこだろう。

 額に手を当て、しばし記憶を手繰たぐる。

 自分はあの後すぐに市を出て、家へと向かったはずだ。道のりも順調で、景色も門番と一緒に歩いた道に似ていたし、迷っているようには感じなかったのに。

 芽依は足を止めると、諦めたようなめ息をつく。そして本当に小さな声でぼそっと呟いた。


「……何でこうなるかなー……」


 肩をかくりと落としながら、自分の無力さにほとほと呆れていると、不意に後ろに視線を感じて思わず振り返る。

 そこにいたのは、多少青みがかってはいるものの、黒曜石のような黒髪を持つ少年だった。綺麗な瑠璃るり色の瞳がこちらを感情のない瞳で見つめている。

 その黒髪は、夕日も沈んだ闇夜の中では更に黒みを帯び、街に溶け込んでしまいそうなほど深い色合いになっている。

 芽依は目の前に立つ少年の姿を見て、明らかにホッとしたような表情になった。


「トキくん」


 彼は幼少期からの知り合いで、街で唯一の同い年の男の子だ。

 女の子はもう一人、かなめという子がいて、彼女とは聖宮で一緒に働いている。

 トキは芽依の呼び掛けには答えなかった。


「ーーーー……」


 急に、普段とは違う、真剣な表情に変わって自分を見てくるそ瞳に、一瞬不安がよぎる。

 ふと、背筋に暗いものが落ちたような感覚におちいった。無意識に握っていた拳に、更に力がこもる。どくどくと心臓の音がいやに大きく響いた。

 ……暫くして、トキがゆっくりと口を開く。


「ーーーーしばらくは、一人で出歩くのはやめな」

「…………どう、して……?」


 どくん、と再び心臓が大きく鳴った。


「それは……ーーーー」


 トキはすっと目を細めた。

 その視線を急に横に向けたかと思うと、トキは芽依を抱えて後ろに跳躍ちょうやくする。それも一瞬の事で、今まで芽依が居た場所を今度は破壊音が支配した。土煙で見えなくなったその場所からどす黒い獣のような姿をした化け物が現れ、低いうなりを発する。

 その化け物の下の地盤には大きなくぼみが出来ていた。


「…………な、なに……?」


 芽依は突然の事で頭がついていかない。

 対するトキは冷静なものだ。

 辺りを見渡し、正面の獣だけでなく左右にも警戒心を貼る。グルル、という唸りが聞こえて、芽依ははっとした。

 ーーーー1匹じゃ、ない……!!

 初めて目にする生き物に反応できない芽依をトキは自分の後ろに立たせる。


「………………下がってて」


 彼はそのまま三匹の獣の中心に立つと、一度瞑目めいもくする。

 ーーーー刹那。

 ふわっとトキが宙に浮かんだ。

 驚く芽依がトキに目をやると、先程までとは服装ががらりと変わっていた。

 ……ローブだ。真っ黒なローブ。下方は何故なぜかぼろぼろで、ローブと繋がっているフードを頭にかぶっている。その手には身のたけよりも大きなかまを持ち、獣達を切り刻む。

 これは、この姿はまるで……ーーーー。


「死、神……」


 地獄の番人とも呼ばれ、地獄に落ちた人間の管理をする者達の総称。死神の最も重要な任務は『魂の選定』と呼ばれるもので、もうすぐ死ぬ人間のそばに現れ、その人間が天国に行くか地獄に行くかを裁定する。それが、死神だ。

 その死神が、どうしてここに……ーーーー。

 トキがちらりと芽依に視線をくれた。芽依もその視線を受けると、彼の姿が消える。同時に、全ての風がいだ。

 それは、一瞬だった。


「ーーーーみぃつけた」

「え」


 声が聞こえてから反応するよりも先に、芽依の体は数十メートルほど後方へ吹き飛んでいた。コンクリートの壁に体がめり込み、そのまま地面に転げ落ちる。肋骨ろっこつがひび割れる音が妙に響いた。


「ご、ほ……っ!!」


 口の中に血の味が広がった。それでも芽依は懸命に上体を起こす。


「ーーーーまぁ。まだ起きられるのね」


 上空から聞こえてくるのは、柔らかい声音こわねで話す、華奢きゃしゃな女性そのものの声。こんな力があるのを疑いたくなるくらいに。


「やめろ」


 次に聞こえてきたのは、トキの声。少し焦った様子で芽依の上空に立つ女性に向かっていく。それを一振りでぎ払うと、その声の主は、芽依を見て柔らかく微笑んだ。


「大丈夫よ。……貴女は私がすぐに殺してあげるから」

「ーーーーーーっ!!」


 今度は背中に衝撃が走り、地面に押し潰される。思わず声にならない悲鳴を上げ、そのまま動けなくなった。

 女性は芽依が完全に動かなくなったのを見ると、左手から鎌を取り出し、大きく振りかぶる。


「ーーーーさようなら。脆弱ぜいじゃくで非力な人間。……これで、全てが終わる」

「…………っ」


 トキが彼女を止めようと再び地を蹴った。

 芽依は彼女の持つ鎌から目を離せない。

 鎌の先端が芽依の首に触れようとした、その時……っ。


「……バっカっ!!避けろ!!」


 グサッ……と、にぶい音が闇夜に響く。芽依はそれから目を離せない。


「…………テ、ヌート……?」


 芽依をかばったのは、昨日喧嘩した門番の青年だった。綺麗な白髪は返り血で赤く染められ、金色の瞳が苦痛でゆがむ。

 彼の背全体に、鎌でられた一筋の大きな傷がきざまれていた。

 彼は地面に片膝をつく。だが自分の腕の中にしっかりと抱えられた芽依を見て、テヌートは柔らかく笑ってみせる。

 先程の女とは違い、自分を安心させてくれる笑みだった。


「…………………………」


 死神の女はテヌートを冷めた目で見つめると、再び鎌を構えた。

 芽依はびくりと体をすくませる。


「テーーーー」

「テヌートさん!」


 芽依がテヌートの名を口にするよりも早く、トキが二人の間に入り込んで女の鎌をおのれのそれで受ける。

 テヌートはするどい眼光で女を睨み付けた。


「消えろ、外道げどう


 今まで聞いたこともないくらい低い声で告げるテヌートの視線を、女は真っ向から受ける。

 芽依はもう、言葉を発することもままならない。

 それを見た女は、ゆっくりとそでで口元を隠し、妖艶ようえんに微笑んだ。


「そうね。今日のところは消えてあげる。…………お楽しみはこれからだし、ね」


 意味深な言葉を残して消える女の後を追いかけようとしたトキは、テヌートによって止められた。


「…………今は、追わなくていい」

「………………はい」


 トキは黙々と頷く。

 芽依は恐怖からか体に受けた痛みのせいか、すでに意識を手放していた。

 テヌートはそんな彼女の髪をふわりと撫でると、心の底から安堵あんどの溜め息をこぼす。

 そして、何とも言えない笑みで笑った。


「…………間に合って、良かった」





「ん……」

「気が付いたか?」

 芽依が目覚めたのは、死神の女と遭遇そうぐうした場所から遠くない建物の裏路地だった。

 トキは女を警戒してか、裏路地の入り口に立って外を眺めていた。テヌートは芽依の横に腰を降ろしている。片膝を立て、壁に寄りかかっていた。

 芽依は自分の体を一通り触れて確認すると、異変に気付く。


「…………折れて、ない……」


 地面に叩きつけられたからか、所々はまだ傷むものの、完全に肋骨が折れたと思っていたのに、その部分は何ともない。

 芽依の疑問を見越してか、テヌートがトキを軽く見る。


「治したのはトキだよ。ただ、部分的に治すのがやっとだったけどな」

「そうなんだ……」


 部分的にでも、重症な部分を治してくれて助かった。肺をつぶしていた肋骨が治って呼吸が随分ずいぶん楽になった。

 それに対し、テヌートの額にはあぶら汗がにじんでいた。

 はっとして、芽依はテヌートの背中の傷を思い出す。

 芽依が慌てて口を開こうとする前に、テヌートが彼女の頭を叩く。


「ったくお前は、…………心配かけさせんな。ばーか」


 言葉にはんしてテヌートの語調がずっと温かいので、芽依は申し訳なさげに俯く。


「ごめん、なさい」

「…………ほんとにな」


 ぐぅの音も出ない芽依を余所よそ目に見ながら立ち上がろうとすると、テヌートの顔が苦痛に歪んだ。

 芽依は咄嗟とっさに手を差し出す。しかしテヌートはそれを軽く払った。


「…………いい。一人で歩ける」

「いや、でも……」

「大丈夫だって。今すぐ死ぬような傷じゃないし」

「…………そういう問題じゃ……」


 少し躊躇ためらったが、意を決して芽依はテヌートの手首をつかむ。


「じゃあ、早く家に帰ろう。傷の手当てもしないと、さすがにこのままじゃ駄目だって」

「………………」


 テヌートは暫く無言を通したが、芽依はこれ以上ゆずらないと思ったのか、諦めたような顔をして両手を胸の高さで挙げる。


「分かったよ」

「うん」


 ホッとしたような顔をする芽依の頭に、挙げていた手をぽんと乗せると、テヌートはトキを肩越しに振り返る。


「お前も来いよ。今日からこいつの家に泊まれ」

「………………分かりました」


『今日から』という単語が少し気になったが、芽依は疲れもあってか無言で頷いた。

 何にせよ、あの場でトキがいなければ、自分とテヌートは十中八九あの女に殺されていた。助けてもらった恩人をもてなすのは自分の義務だ。

 それに、聞きたいことも山ほどある。

 ぼろぼろになった包み紙と無事だった少量の食材を見て、今日の夕飯は何が良いかと考えながら、芽依は数歩先を歩く二人をとぼとぼと追いかけた。

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