虫取り名人の夏

飯田ちゃん

第1話


 時は令和が五年が夏。


 陽はまもなく正午を迎えよう高さに昇り、その日差しときたら、陽炎が立ちのぼり、蝉や蛙が狂ったように鳴き喚く。たまに吹く風なんてジットリ生暖かく過ぎるだけで、草木が鬱陶しそうに揺れている。ただただ暴力的な暑さだけが支配している草むらにて。


 ここに少年とお姉さんが対峙する。


 夏休み真っ只中の猛暑日。にも関わらず、この二人を取り巻く空気は剣呑、背筋が凍るほどの闘気を互いに放っていた。


 事ここに至るまで三日の前に遡る。

 少年は少年として、少年らしく虫取りに精をだしていた。「たぁッ!」勇ましい掛け声と共に真横に薙いだ虫取り網に、大きな蜻蛉が入っていた。これは嬉しい!

 年相応の喜びを顔中に浮かべ、少年は網から蜻蛉を取り出して太陽に掲げる。その時、視界の隅に見えた。誰だろう、麦わら帽子に白いロングのワンピースを来たお姉さんが、ニヤニヤしながら此方を見ていた。ああ、目が合ったかお姉さんが話し掛ける。

「やあ、立派なギンヤンマじゃあないか少年」

「……あげないよ?」

 少年は警戒していた。第一に知らない女性であるし、第二に彼女の笑顔が、少年を下に見ているようで気に食わなかった。

「そう、自分が採取した昆虫に独占欲は付き物ね。なるほどどうして虫取り名人の素質があるじゃないかい」

 この言葉にカチンときた。彼の通う小学校において、虫取り名人の座は少年が欲しいままにしているのだ。その輝かしい捕獲歴には、オオクワガタやオオミズアオやオオスズメバチ女王などなど枚挙に暇ない。


「素質がある、じゃない。僕が、僕こそが虫取り名人だ。そういうお姉さんときたら、一体どこの何者なんだい?」

「おや、怒らせてしまったかな? ただね、でもね、お姉さんの前で"名人"を名乗るのであれば、それ相応の実力を示してくれ給へよ」

 どうやって? と少年が問うより前に、蝉の鳴き声が辺りに響く。その鳴き声はお姉さんの口からどんどん溢れ出てくるではないか。これは、蝉の鳴き真似!

「ミーンミンミンミ!! ミーンミンミンミ!! この鳴き声で蝉を呼び寄せる。ツクツクホーォッウ!! 君は襲い来るあらゆる蝉の群れから真っことアブラゼミだけを三十匹捕獲してごらんよ。少年が本当に名人ならば雑作もなかろうて! カーナカナカナカナ! カーナカナカナカナ!!」


 ブワワワワ!

 近くの雑木林から真っ黒な煙が立ち込める。否、煙ではない。それは蝉の大群であった。それらはまるで意思を持つように、さながら磁力で引き寄せられように、真っ直ぐに少年に向かって突撃してきた。

 並の童なら泣き叫ぼうところであろう。しかし少年の瞳に恐怖はない。あるのは値踏みされ試されるという屈辱、怒り、ならば己が実力を知らしめさんとする高揚。やれ虫取り網を握る手にも力が入る。

「ぜい! はァー! とりゃ! やぁァァア!!」

 黒い大軍にまるで半狂乱に網を振るう少年を見て、「ほう」とお姉さんは感嘆する。半狂乱? とんでもない。見る者が見れば理解る洗練された動き。あのギンヤンマはビギナーズラックなどではない。歴然とした技が光って捕獲せしめたんだろう。伊達に名人を名乗るだけあるな、と。少年は闇雲にふるうようでいて、きちんと狙いを定め、アブラゼミだけがみるみると吸い込まれるように網に収まっていった。


「これっでっ! さんっじゅう!! どうだ!」


 蝉を呼び寄せてからの僅か五十二秒後が今だ。虫取り三段への昇段条件が二分半以内であるに、これは、どうやら本当になかなかの神童である。が、お姉さんは内面に湧く賞賛を微塵もみせず、「まあ及第点ってところね」と取り繕う。こうなるとムキになるのが少年の性だ。次だ、次だと更なる試練を要求し、お姉さんもニヤニヤとそれに応える。仕舞いには日が暮れ、日を改め、日が昇り、また日が沈むまで少年はお姉さんが繰り出す虫取り試験に没頭していた。


 かくして運命が三日目が来たる。


 黒い大群の蝉煙の中、一昨日とは打って変わってまるで舞うように虫取り網を操る少年がいた。それでいて網は正確にして刹那の速さときたものだから、たった数日で見違えるほどの成長を果たしている。これが若さの持つ可能性であろう。


「ふぅ」と、目隠しを外した少年が、お姉さんに蝉が入った網を向ける。

「セミヤドリガに寄生された蝉だけを捕獲したよ。次は? 目隠しだけじゃなくて耳栓もしようか?」

 それでもイケる気がする。なんなくそう付け加える少年を前に、お姉さんはニコニコ笑ってはいるが、もはや冷や汗の一筋は隠しようがなかった。


 よもや、よもやここまで……!


「虫域、と呼ばれる現象がある」

「むしいき……?」

「そう、虫を捕る瞬間、まるで時間が止まったように感じるの。スポーツ選手なんかが言うゾーンってやつに近いかな。視界はどんどんシンプルになっていって、真っ白な無限の空間に、私とターゲットの虫しかいない。そんな世界。少年ならもう、理解るんじゃないかしら?」

「……!? そうか、アレは虫域って言うんだね。僕なんて不思議なこともあるものだなあと思っていたんだよ」

「ふふ、流石ね。さすが自称虫取り名人」

「やれやれ、もうそろそろ、その自称ってやつを外して欲しいのだけれども」

「いいえ。それはいけないわ。なぜなら私こそが名人。"三十六代目永世虫取り名人"それが、私の肩書きよ!」


 キィン……!


 世界が、色を失い、時を止めた。

 無限の空間に少年とお姉さんがただ二人だけ。


「これ……は……虫域!?」

「……虫域展開! 待っていた。あなたみたいな虫取り人が現れるのをずっと待っていた」

 そこで遂にお姉さんは事の中核を語りだす。

 自分は虫取りの名家に生まれ、両親の期待を一身に受け、幼い頃から虫取りの腕を磨き続けた。才能もあったろう、努力も惜しみなかろう、何より虫を捕るのが好きだった。そんな彼女であったから、破竹の勢いで虫取りバトルを制していったのだ。

 お姉さんが高校に上がる頃合いには、竜虫、名人、虫将、虫座の四タイトルを彼女が保持するに至っていた。

 そんなお姉さんを、元虫将、元竜虫であった両親が彼女に向けた感情は、嫉妬であった。

 親子間の関係は悪化する一方で、大好きだった祖父も今はもういない。そのまま数年が過ぎ、まるでそれが自然の流れであるように一家は離散とし、家族の思い出の品は、もはやこの祖父の麦わら帽子だけとなった。

 そのような現実から目を背けるように、お姉さんは更に更に病的なまでに虫取りの世界を求め、永世虫取り名人まで上り詰めたのだ。


「虫域を極めるとね。捕る瞬間に、虫の記憶が流れ込んでくるようになるの。濁流のように! 君が最初に捕ったギンヤンマだって! ああ、友人はヤゴ時代にブラックバスに食われた。先輩は脱皮に失敗した。恋人は烏に咥えられて姿を消した! ああっ、ああっ! 虫の苦しみが、悲しみが、私に流れ込んでくる! でも止められない。虫取りをやめたら、私が、私でなくなっちゃうもの!」

 はじめて笑顔以外の激情を曝け出したお姉さんに、少年はかける言葉を見つけらなかった。お姉さんは続ける。

「もう、とっくの昔に制御なんて出来なくて。虫を見ただけで彼らの人生、いいえ、虫生が頭に頭にどんどんどんどん流れこんでくる!! 虫だけに無視なんて出来やしない。その間にも際限なく流れこんでくる虫、虫、虫!

 こうなるとね。もうね。わかんなくなっちゃうの。自分が人間なのか、虫なのか。あべこべだわ。

 ずっと私は人間だって人間のはずだって言い聞かせてきたんだけどね。なんだか、もう、疲れちゃった。

 いっそ虫になっちゃえって思うんだけど、だのに! 私の人間としてのプライドが! 永世虫取り名人としての矜持がそれを許してくれない! ならばどうする? そう!

 私を上回る虫取り人が、そうだ君だ少年! 私を虫としてその網に収めてくれれば、あらゆる尊厳は見事打ち砕かれ私は虫になれる! 成れるんだよ!!」

 はぁ、はぁ、と一気に捲し立てたお姉さんが肩で息をしている。それを横目に少年は考えた。考えた、が、正直よくわからない。

 元々虫取り人という人種は、己が楽しみのために虫を捕まえている。自己満足に無理やり環境を巻き込んでいる。善悪の彼岸ここにありだ。

 お姉さんが虫になりたいと言うのなら、それでいいんじゃないかしらん。僕だって虫になれるなら、なってもいいかなって気がおこらないでもない気がするなあ。少年はそんなふうに考えて、いいや、それは言い訳だ。人間同士で人生の記憶とまではいかないが、虫域において互いの感情はなんとなしに伝わる。伝わってしまう。つまり、お姉さんが受信した少年の本音ときたら、

「お姉さんが虫だとしたら、こんな大きな虫なんて見たことないよ。ワクワクする。捕まえたくて仕方ない!!」

 ああ僥倖か、互いの益が一致をし、言葉は既に無益なるのみ。


 かくして遂に、ここに少年とお姉さんは対峙する!


 スッっと、お姉さんが右腕を前に、左手を頭上に構える。カブトムシ拳である。

 スチャっと、少年は重心を低めに腰に虫取り網を構える。こちらは抜刀術。


 互いに睨み合う永遠にも似た静寂を経て、

「カーブカブトォァァアー!」「破ッッ!!」


 どちらがどちらか分からぬ程の同時に上げた雄叫びに、音より速く交差するカブトと網よ、キィン! お姉さんカブトムシが網を弾く! なにをぅと少年は返しの刃をお見舞いするが、だがしかし! ガシィ! 虫取り網の柄をがっしりと掴まれた! 「しまっ……!?」少年の誤算だ。相手は人間大のお姉さんカブトムシなどではなかった。相手は、虫にして永世虫取り名人の知識と技能と情熱を併せ持った怪物!

 お姉さんは瞬時にカブトムシ拳からミヤマクワガタ拳に移行し、真剣ミヤマ取と相なった!「ミヤっマァァー!!」そのまま少年の虫取り網を圧し折る! ベキバキョン!!

 絶体絶命、虫取り網のない虫取り人なぞ、釣り竿のない釣り人と同義! 「残念だよ少年」少年こそが自分を人間から虫へ解放してくれる逸材に違いない。あのギンヤンマを捕る虫取り網捌きを見た瞬間から、期待と興奮で笑顔が抑えられなかった。どうせならと、あの時のニコニコ笑顔でトドメを刺してあげるべきか。だがそれは涙で上手くいかなかった。かわりにここまで直向きに付き合ってくれた少年に、せめてもの手向けとして、お姉さんが最強フォーム、両手を大きく広げたヨナグニサン拳の構えをとる! ああ、そのままミヤマクワガタで少年の胴を挟み切っていれば勝敗は決していたというに、それが、お姉さんの敗因であった。


「お姉さん、捕まえた!」

「ヨナグっ……え……っ?」

 見れば少年、お姉さんの麦わら帽子を摘んでそう言い放つ。相手の構えの移行による一瞬の隙を突いた見事な技だ。

 お姉さんは侮っていたのだ。虫取り少年という生態を。奴らはいつだって虫取り網がなければ何か他の物で代用する。その最右力が何を隠そう、帽子である!

 お姉さんは頭にすっぽりと麦わら帽子という名の網を被っている。それに少年が触れたのだから、少年のルールにおいて捕獲成功に他ならない。この少年の身勝手なルールに反発する精神力が、彼女に残っていなかった。なぜなら、お姉さんだって帽子で虫を捕まえたことなんて何度もあったに違いないのだから。

「あ、ああ……」

 お姉さんの瞳からこぼれ落ちる涙の色が辺りに滲み、虫域は薄れ、世界は普段の風景を取り戻した。


「ははは、私、捕まっちゃった。どうしよ……? なんの虫になればいいんだろ……?」

 永世虫取り名人であるお姉さんにとって、その選択は星の数ほどに多いのだ。推して知るべし。ねえ、少年が決めてよ。と懇願してみるが、なにやら彼は納得のいかない顔付きをしている。

「よく考えたら、本当によくよく考えて考えているのだけどさ。お姉さんは最初っから麦わら帽子被っていたのだから、お姉さんが虫だとしたら最初っから網に掛かってたって事になってしまうよ。それは、なんだか、他人の獲物を横取りしたみたいで嫌だなあ。すごく嫌だなあ」

 本心である。

「はぁぁ!? なんで今更そんなことを言うの!?」

「だって、その麦わら帽子、お姉さんによく似合っているのだもの。あっ、そうか。つまり分かったぞ! 僕にとって、その帽子は虫取り網の代用なんかじゃなくて、お姉さんの一部みたいなものだったんだ。だからさっきの勝負は引き分けみたいなものさ」

 少年の言葉を引き金に、お姉さんの幼い頃の記憶が蘇った。祖父の被った麦わら帽子が欲しくて駄々をこねて、借りて被ってはブカブカなのに父はよく似合ってるよ、母はピッタリじゃないの、と。最後には祖父も仕方ねえなと笑ってこの帽子をくれたのだった。今はもう届かない、幸福だった頃の記憶。それなのに、虫と成って思い出が消えてしまうのは、どうにも我慢ならない。未練が生まれてしまった。涙がさっきからずっと止まらないでいる。落ちる涙の間を縫うようにギンヤンマが飛び抜けていった。なぜか、虫の記憶は流れ込んでこなかった。自身に人間だと言い聞かすのではなく、確固たる人間としての芯を思い出せたからだろう。

「少年。お姉さん、まだ、人間でいてもいいのかなぁ……?」

 縋るように弱々しく吐き出した言葉に「えっ、さあ? わっ! そんなことよりギンヤンマだ! この前よりデカいぞ! ああ、そういえば網が壊れているじゃないか。お姉さん、その麦わら帽子貸してよ!」


「おっ前! ほんっと! ぜっっったいに嫌!!」

 なんとまあ、生き生きとした笑顔でキレ散らかしたお姉さんなのである。





 蝉が鳴く。入道雲を突っ切るようにギンヤンマが飛んでゆく。少年とお姉さんの夏は続いていく。





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虫取り名人の夏 飯田ちゃん @yuyuyun_yu

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