第19話 法医学 ※残酷描写あり

 加賀かが大学呉羽くれはキャンパス講義棟の片隅にある中講義室、ここはもっぱら私たち3年生が講義を受けるのに使われていた。

 

 3年生になってからすでに1年近くここでの座学が続いており、飽き飽きしてくる学生も少なくなかった。しかし今日は、皆どこか緊張、というよりむしろ興奮しているように感じられた。

 

 これから始まる法医学の講義、その内容は上級生からの情報である程度は知れ渡っていた。それは誰しも耳を疑うもので、果たして本当にそんな授業が行われるのか、未だに半信半疑であった。


 シラバスにおける法医学のページの第1回目の欄には単に「法医学総論 田村康治教授」とのみ書かれており、内容をうかがわせるものではない。


 これまでの科目も最初の授業では教授が総論を講義し、2回目以降の講義はその講座の准教授や助教、そのほかの医局員などが各論を講義する形式であった。


 定刻となり、田村教授が壇上に立った。内科や外科といった臨床系の講義では、先生が白衣やスクラブなど診療からそのまま講義に来たような格好で登場することもしばしばあったが、田村教授については当てはまらない。ネクタイから靴まで整然と着こなされたスーツ姿だった。四角いレンズのメガネ、少しだけ白が混じった口ひげも相まって威厳が感じられる。


「この授業では、私が実際に剖検してきたご遺体を供覧する。詳しい知識については後日の授業で学ぶとして、今日は我々がどんなことをやっているか、感じ取ってもらいたい」


 外見に違わず、低い重厚な声だった。教授は早速スライドを映し始めた。その瞬間、教室がざわめき立った。



 ――それは、首から上が撮られた壮年の女性だった。眼だけがプライバシー配慮ということで黒く塗りつぶされていたが、歪んだ口からは苦悶くもんの表情が見て取れた。首にロープのようなものの痕があり、そこから上が赤黒く変色している。


 解剖実習のご遺体とは全く違った印象を受けた。彼らは生前の自らの意思によって献体となった、通常の病死の経過をたどった方々だ。しかしこれは明らかに首が締まったことによる窒息死だ。自分の死を受け容れる間もなく命を失った、その無念、未練が表情に現れているように思える。


 法医学において最も重要な仕事は、このような「異状死いじょうし」、つまり病死ではない症例について、検死や解剖を通じてその原因を明らかにすることにあるという。このようなご遺体を、田村教授は何例見てきたのだろう。


「発見されたときは天井から吊るされたロープに首をつられた状態だった。足は完全に宙を浮いていて、40cm程度離れたところに踏み台が置かれていた。そして部屋の中には遺書らしきものが残されていた」


 自殺か……


「――だが、私はこれを自殺ではない可能性が高いと判断した」


 不意を突かれた私は思わず隣の席の紗良と顔を見合わせた。今度は講義室のざわつきもいっそう大きくなる。教授はスライドを替え、同じ死体の背側を映し出した。


「彼女の首のロープの痕は後ろ側にもはっきりと残っていた。本来足が浮いている状態で首を吊る、これを定型縊頚ていけいいけいと言うが、その場合は首の前面にのみ力がかかるため後ろには痕が残りにくい」


 教授はあくまで淡々と説明を続けた。このような死体を見るのが日常であるというかのように。


「さらに、定型縊頚ではすべての体重が首にかかることになる。そうなると椎骨ついこつ動脈が閉塞、つまり心臓から脳への血流が途絶えるため、顔面は蒼白となる。しかし彼女の場合、それよりも弱い力で絞められているため、椎骨静脈のみが閉塞し、動脈は閉塞することは無い。そのため首から上に血液が滞留し、うっ血してこのように顔面が赤黒く変色することになる。結論を言うとこの女性は絞殺され、そのあとロープに括り付けられ自殺に見せかけられたのだ」


 説明がいったん途切れたところであたりを見渡した。大きく分けると興味深くスライドや教授に注目している人と、惨たらしい様子を直視できない人に分かれていた。


 教授はその後も様々な異状死体を示し、1例1例を淡々と解説していった。


 海で発見された溺死の例(腐敗ガスによりパンパンに膨らんでいた。いわゆる土左衛門だ)、落雷に打たれた例、刺殺や撲殺などの例を参考に、凶器の違いを傷痕から見分ける方法(何人かが私の傷痕をちらりと覗いた)など。


 20例ほど続いただろうか。最後の症例は車内で血まみれになっていた若い男性だという。

 

「この症例は失血性ショックだ。右の大腿だいたい動脈を正確に一突きにされて殺害されたと見られる。他に外傷は無かった。争えば当然できる防御傷などもほぼなく、20年近い経験の中でこんな例は他に見たことが無い。その道のプロの犯行ではないかと思っている」


 その道のプロ……明言を避けているが、殺し屋による犯行と言うことだろう。……本当に現実の話だろうか。スライドそのものの刺激の強さもあり頭がくらくらしてきた。


 最後に質問タイムに入ったので一息ついて周りを見渡した。当然寝ている人などいない。俯いている人はいるが、それは凄惨な光景を見ていられない人だけだ。挙手して質問する学生は後を絶たなかった。


「1年に何例くらい解剖するんですか?」

「およそ150から200例程度、医師3人と技師さん数人でやっている」


「どうやったら法医になれるんですか?」

「医師免許を得て初期研修を2年やるところまでは臨床医と同じで、あとは——」


 こんな調子で質問が続いた後、最後に田村教授はこう締めくくった。


「君たちの中には今日の症例を見て目を背けたくなった人もいるだろう。法医学の道に進む医師は数え方にもよるが、医師全体の1000人に1人いるかどうかだ。君たちおよそ100人のうち、1人もこの道には進まない可能性が高い。大半の医師は臨床の道、つまり生きた患者さんを相手にすることになる。その時、君たちには目を背けることは許されない」

 

 教授はスライドを終了し、PCを閉じながら続けていた。今度は教室の全員が彼に注視している。


「私は研修医の頃、あるがん患者の担当医になった。患者さんは治癒こそしたが、治療の副作用で下半身が不随ふずいとなり、その苛立ちから家族や医療スタッフに辛く当たるようになってしまった。その患者さんが向ける批難の視線に私は耐えられなかった。今思えば、それで私は亡くなった人を相手にする道を選んだのかもしれない。臨床で生きた患者さんと相対するのは、時に今日のようなご遺体に向き合うより残酷なこともある。君たちは実習や研修医の過程で、それを嫌でも学ぶことになるだろう」


 教授の声に、今日初めて感情がこもっているように感じられた。

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