第7話 留年の危機

 冬休みが終わると各種基礎医学の試験が始まった。医師国家試験のある6年生を除けば、もっとも厳しい試験期間となる。

 

 各種の筆記試験を乗り越えた先、最後に待ち受けていた解剖実習の試験はこれまで見たことのない独特な形式だった。

 解答用紙を持ち解剖実習室に一人ずつ入場すると、この試験用に新たに解剖されたご遺体がある。そのご遺体の骨や筋肉、神経などの一部に番号が書かれた付箋が貼ってあり、解答用紙の対応する番号欄にその器官の名前を書く。全て書き終えたら最後に『夫人』による口頭試問が待っているというものだ。


 『夫人』は私の解答用紙を受け取りながらいつもの仏頂面で、「脳神経の名称とそれが通過する孔について知るところを述べよ」と出題した。

 人体の末梢神経はそのほとんどが脊髄から分枝するが、脳から直接枝分かれするものが12対ある。それを脳神経という。

 私は解剖実習の大詰め、脳を取り出す過程を思い出していた。大きなのこぎりで頸部を切断し、頭蓋骨を切り取り脳を取り出すというのは、ここまでの実習を乗り越えた私たちでもおののかざるをえなかった。脳を取り出すころには精神面だけでなく、体力的にも相当疲弊していた。

 脳神経の走行を頭に浮かべる。まずは第一番目にあたる嗅神経から順を追って説明しよう。私は意を決して答え始めた――



 ――1週間後。


「最後の舌下神経まで全部答え終わった後に『夫人』から褒められて、というかこの半年であの先生が褒めるのを初めて見たから、ついにデレたか!とか思ったんだけど……」

「はいはい、でもそれだけでしょ。後の科目はどうなったんだっけ?」

「……落ちました」


 紗良の残酷な言葉に私はうなだれた。やはり甘くは無かった。ローリエや運営との打ち合わせやコンプライアンス研修、初配信の原稿作成で十分な勉強時間がとれず、私は解剖学以外の全科目を再試に賭ける身となってしまった。1科目でも落とすと留年である。


 今は紗良の部屋にお邪魔し、彼女が試験対策として用意してくれていた過去問などの情報を受け取り、自分のパッドに取り込んで整理している。私は机にうずたかく積まれた教科書を横目にして一層げんなりした。


「今からこれ全部を見直す時間はないなあ」

「だからここに来たんでしょ。過去問と本試からヤマを張るつもりで」

「いやホント助かる。さすがに授業中のノートは取ってるんだけど大学の講義って受験までと違って問題の出し方が素直じゃないよね。だから過去問やってるかがいっそう決め手になっちゃう」


 私は生理学の過去問に目を通す。やはり筋収縮や尿細管は頻出か……そうやって確実に抑えるべき分野について優先順位をつけてまとめておく。後は自宅での宿題だ。


 窓に目をやると沈みかけた夕日が空を赤く染め、カラスの鳴き声が聞こえる。帰らなければ。やるべきことは分かっているのだが、しかしどうにも気合が入らないというか、嫌な考えが頭を占めてしまっている。紗良にそれを吐き出して帰りたい。


「紗良、このまま留年したら、いっそ退学してライバー1本でやっていこうかな、なんて思うことがあってさ」

「ふうん、留年したら退学してライバー1本でやりたいと」


 紗良は肯定も否定もせず、ただ繰り返した。カウンセリングにおける『繰り返し技法』だ。相談相手の言うことを繰り返すことで相手がより詳しい話をしやすいように持っていくというものだが、果たして私のようにタネが分かっている人には効くのだろうか。


「これ、まだ本当は言っちゃいけないんだけど、デビューしたら一緒にユニットを組む相方がいるんだ。その人、長い間配信やってたらしくて歌はうまいしゲームも万能、何よりプロ意識がすごい。それと比べて、今の私って中途半端だなって」


 これが運営にバレたらクビかも、と思った。辛うじて彼女に自分の話をする許可はもらったが、他のライバーの情報を社外に漏らすのは守秘義務違反でも最も重いものらしい。そんなことを話してしまうくらいにはこの技法、効果的なんだろうか。それとも……


「なるほどね。でも美菜にとって、ライバー1本でやるのが最善だとは思えないな。面接の時とか、契約書にサインする時とか専業を強制されてないわけで、でないとこの悩みそのものが成立しない。そもそも向こうも未経験を承知で採用してるんだから、経験者と比べて劣等感を持つのは違うと思う。多分、運営は医学生としてのあなたを買ってる」

「でも、私結局医者役はやらないことにしたし……」

「そこが分からないんだよねえ、あっさりと運営がその条件を呑んだのは。だからいったん置いといて、もう一つ。こっちが本命かも。仮に退学したとして、絶対病むと思う。ライバーは自分がそうだってことを簡単には漏らせない。だから仕事の悩みを抱え込んで病んでる子が多いって聞くよ。美菜は特に両親もいないし、私だってこうして直接記録に残らないから色々話せるわけで、それが難しくなっちゃう」


 紗良はパッドを両手に持っている私の手に自身の手を重ねた。


、助けてもらった。だから今度は私があなたを支える。だから、留年も退学もしないで、一緒にいよ?」


 私は紗良の真剣な眼差しにドキリとした。こんなに彼女は頼もしかっただろうか。だがよく考えれば最終面接の時も祖父との対話の時も、決断する時は彼女の顔が浮かんでいる。これまでにない秘密を共有しているうちに、私にとっても単なる親友という言葉では言い表せない存在になっていたのかもしれない。

 

 私はパッドを置いて、彼女の手を優しく握り返した――



 それから3カ月、初配信を終えた私はまず紗良に電話をかけた。配信は30分の自己紹介だったが、そこまでの1年を振り返り感慨に浸りながら、彼女の応答を待つ。


「もしもし?見てた?」

「もちろん。相方と間違えてうっかり私の名前を言いかける特大の失敗もね」

「誰かさんが慰霊祭の挨拶をやらせたから、役作りに時間が足りなかったんだよ」

「ふーん、誰のおかげで再試全部通ったと思ってんの?」

「……今から思えばちょっとクサすぎたよね、あの時。でも、おかげでここまで来れた。ありがとう」

「おっと、あんまり長く話してると、ローリエって相方さんが不審がるよ。普通は真っ先に彼女と話すもんでしょ」


 彼女の照れ隠しの一言に、私の口元は自然と緩んだ。














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