藩公上洛(6)
――それから一旬余りが過ぎ、源太左衛門の子息である大内蔵が富津から戻ってきた。大内蔵によると、八月二十六日に江戸警衛組及び八番組が江戸藩邸に到着し、翌々日の二十八日、公は江戸城に登営して大樹公に拝謁し、国事などについて話し合い脇差を賜ったという。だが、ひとまず尊攘派勢力が京から一掃されたということで、予定通り二本松藩一行は京へ向かうことになった。同日八番組も富津に向けて出立し、翌日、富津の陣屋に到着した。晦日に富津で丹羽右近らに引き継ぎを行った後、大内蔵は江戸藩邸に立ち寄り、丹波らに富津の様子を報告した後、江戸を発ってきたのだった。
「鳴海殿。ご無沙汰しております」
「その節は、我が家にお立ち寄り頂きまして、かたじけのうございました」
鳴海も、穏やかに応じた。小書院で一年ぶりに会った大内蔵は、海辺で暮らしたためか、よく日に焼けて健康そうだった。
この一年で、鳴海の立場も大きく変わった。あのとき、大内蔵が面会を求めにきた縫殿助は既に彼岸の人であり、今は鳴海が彦十郎家の当主、そして間もなく番頭になろうとしている。一年前は遥か上の地位の人物のように思えていた大内蔵も、間もなく同僚となろうとしているのだから、人の定めは分からないものだ。
それを述べると、大内蔵は顔を曇らせた。
「縫殿助殿及び御尊父につきましては、改めてお悔やみ申し上げる。御両人とも、藩には欠かせない御方でした」
「いえ、間もなく一年になりますから」
これはこれで、鳴海の実感でもあった。鳴海の運命が変わったのは確かだが、今はそれを嘆くことが許される立場ではないし、嘆いている暇もない。
「挨拶はそれくらいで良かろう。して、その後江戸には何か報告が入っておらぬのか?」
源太左衛門が、息子に尋ねた。大内蔵が肯く。
「私めが江戸を発ってくる直前、帝からの詔が江戸にも届きました。ここに、その写しを預かっております」
そう言うと、懐から書状を二通取り出し、まずは一通を源太左衛門に手渡した。源太左衛門がそれを開く。ざっと目を通すと、鳴海ら下々の者にも回した。鳴海の番になり目を通すと、そこには「是迄彼是真偽不分明之義有之候へ共去る十八日以後申出候義は朕が真実の存意に候此辺諸藩一同心得違無之様之事」と書かれていた。「これまで何かと真偽が不明なこともあったが、八月十八日以降の詔勅は帝の真意であるから、諸藩はその旨を心得違い致すことのないように」という内容である。
一同が書状を回覧したのを見届けると、源太左衛門は、ほっと息を吐き出した。
「ひとまず、我が藩の京都警衛の御仁等が着京する頃には、京の情勢は落ち着いておろう。尊攘派は帝の御威光を汚したくないからこそ、帝のお言葉には逆らえぬ。このまま会津肥後守様や長門守様らが、京の要石となって下さればよいのだが」
「左様でございますな」
江口三郎右衛門が、相槌を打った。兵の大半を派遣している二本松藩としては、京で藩士等が政争に巻き込まれる事態は避けたいところである。二本松から京へは一ヶ月近くかかる。江戸警衛のときと異なり、万が一こちらで変事があったときには間に合わない公算が高いからだ。
「丹波様も、できるだけ淀藩と御昵懇に致し、各種知らせを受け取るおつもりのようです」
大内蔵が補足した。二本松藩の京都藩邸は南北が中立売通と上長者通町、東西は松屋町通と日暮通に囲まれたごく狭い地域である。藩士全員は収容できないため、洛中のいずれかの寺を借り受け、そこに多くの藩士を宿営させるというのは、先に京都警衛が決まったときにも出た話だった。もっとも二本松藩邸の隣は淀藩邸であり、何と言っても淀藩主である稲葉長門守は、長国公の弟君である。そのため京都において、二本松藩は何かと淀藩の世話になることも多かった。
「京の件、承知致した。して、今ひとつの書状も見せよ」
源太左衛門は、大内蔵の胸元に目をやった。大内蔵の手には、別の知らせがある。
大内蔵が、ちらりとこちらを見た。
「丹波様より、人事についての書を御預かりしております」
そう告げると、大内蔵はもう一通の書状を差し出した。源太左衛門はそれを広げ一瞥すると、軽く肯いた。
「各方に、申し伝える」
やや厳しい雰囲気の源太左衛門の言葉に、鳴海も背筋を伸ばす。
「十月朔日を以て、大谷鳴海殿を五番組の番頭に任ずる。これは、かねがねより我等の間で話し合われていたことでもあり、江戸家老らの同意も得られた。御一同、異存はござらぬな?」
源太左衛門の言葉に、鳴海の身が震えた。先に与兵衛から内意を受けていたことではあるが、改めて告げられると、その重みを感じる。早く謝辞を述べねばと思うが、うまく舌が回らない。
鳴海の脇腹を、志摩が肘でつついた。
「……それがしに未だ至らぬ点は多かれど、謹んでお役目を承りまする」
低い声で、ようやくそれだけを絞り出すと、鳴海は源太左衛門を始めとする家老等に向かって深々と頭を下げた。
「鳴海殿。御目出度うございまする」
真っ先に祝辞を述べてくれたのは、気心の知れた志摩だった。自分の方が余程早くから詰番の地位にあったにも関わらず、その声に妬心の色はなかった。
「縫殿助殿が身罷られたと伺ったときには、心細く感じられましたが……。これで、我々も安心できるというものでございますな」
大内蔵も、にこやかに笑っている。あちこちから寿ぎの言葉を掛けられ、その都度頭を下げているうちに、鳴海の首筋が痛み出してきた。だが、それも今日明日だけのことだろう。
「既にお聞き及びかもしれませぬが、次の学館試験の採点や検分も、鳴海殿に加わってもらいまする。御覚悟召されよ」
冗談めかした一学の言葉に、鳴海は不安を覚えた。縫殿助の急逝のため、臨時で番頭を引き受けてくれていた和田の補佐は度々務めてきたが、学館の仕事はまだ任されたことがなかった。そう言えば、右門の成績が今ひとつだと先日志摩が述べていたではないか。それも鳴海の目で確認しなければならないのかと思うと、若干憂鬱になる。
「そう固くなられますな。学館では、若い者を見出す楽しみもございますれば」
「左様でございますか」
同年の種橋の言葉に、鳴海はようやく笑みを浮かべた。ともあれ、番頭就任は目出度いことには違いない。下城したら、一刻も早く身内の者らに伝えようと鳴海は思った。
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