藩公上洛(5)

「去る五月二十日、京では国事参政の姉小路卿が殺害されたそうな」

 いわゆる、朔平門外の変と言われる事件である。姉小路公知は急進的尊攘派の公家の代表格だったが、幕府の役人である勝麟太郎と会談する機会があり、態度を軟化させた。だが、そのために尊攘派の失望を買い、暗殺されたのである。

「その暗殺の折、薩摩藩士が加わっていたという風聞があり、薩摩藩は九門警備の任を解かれただけでなく、九門内の藩士往来も禁じられたと聞く。それ故、薩摩は巻き返しを図ろうとしたのではござらぬか」

 普段は丹波ばかり目につくが、なかなかどうして、この源太左衛門も智謀の人である。鳴海は源太左衛門の情報収集の能力の高さに、内心舌を巻いた。

「ふむ……。左様であれば、薩摩が会津に近づこうとしたのも、筋が通りますな」

 一学が肯いた。元々、薩摩の島津久光は公武合体派の大名の一人である。藩主茂久の実父でありながら無位無官の身であり、一部の者らからは煙たがられているが、孝明帝からは信頼されているという評価も聞こえてきていた。

 源太左衛門の分析に心当たりがあったのか、長左衛門も言葉を続けた。

「元々、島津三郎君は越前の松平春嶽公とも肝胆照らし合う仲と伺っております。が、越前からも上洛する予定が、国元に諸事が難儀あり延びている由。また、薩摩も上洛の予定が先の英国との戦争のために延びていると聞いております。それ故、急な話ではございますが、孝明帝からの信も篤く、幕閣の要である会津肥後守様に接近されたやもしれませぬな」

 何とも目まぐるしい話である。長左衛門がどこから切り出すべきか迷うのも、無理はなかった。

「――して、会津と薩摩は如何様に動かれた?」

 源太左衛門が、続きを促した。

「十五日に、高崎殿と秋月殿は国事御用掛の中川宮邸を訪れ、大和行幸中止及び在京の薩会の兵を以て不忠の徒らの追放計画を持ちかけられたそうでございます。元より中川宮は公武一和を主張されていた御方。帝のご信頼も篤い」

 十六日未明に宮は参内し薩会の計画について奏上したが、外聞を憚る話でありその場では明白な返答を得られなかった。だが、同日夜になって宮の元に「兵力をもって国の災いを除くべし」と政変を決断する宸翰が届けられる。十七日には京都守護職松平容保から計画を打ち明けられた右大臣ニ条斉敬が計画に賛同した。内大臣徳大寺公純及び関白近衛忠煕も逡巡していたものの、最終的には協力を決意している。深夜、中川宮・二条・徳大寺・近衛父子と松平容保・稲葉正邦が参内し、計画が詰められた。

 十八日未明七ツ時、会津・淀・薩摩藩兵により禁裏の六門を封鎖したのを契機に、在京の諸藩にも参内が命じられた。攘夷派を含め二十七藩が兵を動員し、大和行幸の延期、三条実美を始めとする急進派公家十五人の禁足と他人面会の禁止、国事参政及び国事寄人の廃止を決議する。

 一方、政変を知った尊攘激派の公家や長州藩兵は、堺町門東隣の鷹司邸に集結。同門西隣の九条邸前に陣を構えた薩会両藩の兵らと睨み合いになる。その間、中川宮・松平容保・稲葉正邦・米沢藩主上杉斉憲・備前藩主池田茂政らで会議が行われ、長州の堺町門の警備担当を解き、京からの退去を勧告することが決議された。

 翌十九日、失脚した三条さんじょう実美さねとみ・三条西季知すえとも・四条隆謌たかうた・東久世通禧みちとし・壬生基修もとなが・錦小路頼徳よりのりさわ宣嘉のぶよしらは禁足を破り、長州へ落ち延びていった。これが、俗に言う「七卿落ち」である。

「それが全てでござるか?」

 江口が、再び尋ねた。

「いえ。十八日の政変の前日、大和国では一足早く大和行幸のさきがけたらんとして、尊攘派の徒が五条代官所を襲撃し、蜂起したそうでございます。こちらは、未だ終結しておらぬ様子。会津肥後守様が討伐をご決意され、現在派兵の準備を進めているとの由でございますが、詳細は不明でございます」

 京の八月十八日の政変とほぼ同じくして、近隣の大和国では尊攘派が反乱の狼煙を上げたというのである。こちらの主犯は土佐浪士の吉村虎太郎であるが、一味の中には様々な藩の尊攘派浪士が混ざっていた。

「――以上が、事のあらましでござる。事が事ゆえ、飛脚便では心許なく早馬を飛ばして参った次第でございます」

 ようやく落ち着いたのか、長左衛門は大きく息をついた。

「なるほどの……」

 落ち着き払ったまま、源太左衛門は大きく肯いた。

「報告、御苦労でござった。今晩はゆるりと休まれよ」

「有難きお言葉、かたじけのうござる」

 長左衛門は一礼すると、言われるままに姿を消した。だが、その後姿を見送った一同の顔は、強張りの色を隠せない。

 しばらくすると、一学が大きく息をついた。

「――戦寸前の有様というわけでございますな、現在の京は」

 一学の言葉に、鳴海の隣に座っていた志摩が顔を青ざめさせた。そのような状況において、二本松藩士の大半が京へ向かおうとしているわけである。それらを束ねる一人が、志摩の父の与兵衛だった。

 二本松藩の開闢以来、二本松藩は大規模な争乱に巻き込まれた経験がない。だが、尊攘派決起による争乱の可能性が、ここにきて現実味を帯びてきた。

 源太左衛門はじっと目を閉じて何かを考えていたが、やがて首を横に振った。

「今我等が出来るのは、諸事の報告を集め国元の警備を怠らぬことくらいであろう。我が愚息も間もなく富津から戻って参る。その折には新たな情報も江戸に届いておろうし、また、殿や丹波殿らの御一行は来月には入京される。その報告を以て、事後を判断する」

 源太左衛門の言葉は、至極妥当な判断だった。ただし、あまりにも事変が立て続けに起こりすぎ、鳴海の頭脳も情報に追いつかない。鳴海は密かに、これ以上変事が起こらぬことを祈った。

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