脱藩者(4)

「鳴海殿。あれでよろしかったので?」

 新十郎にとっては、鳴海の決断は意外だったようだ。鳴海は苦々しさを滲ませながら、新十郎に答えた。

「守山藩の者を通じて水戸が出しゃばってくれば厄介なことになる。守山藩の領内で事を構えるわけにもゆくまい」

 日頃は好意を抱いているとは言い難いが、このときばかりは丹波の言い分が分かる気がした。水戸の過激派の思想を二本松領内に持ち込まれては、家中結束の乱れの元となる。あの三浦平八郎が芳之助を二本松に引き渡す気がないのは、最初から分かっていた。丹波はこの結果に怒り狂うだろうが、一つ重要な情報を引き出してきたのは、大きな成果と言えるのではないか。

 三浦が口を滑らせた、猿田愿蔵という名前。まだ年端が行かないが江戸の昌平黌に遊学してきたほどの人物。今後、水戸と事を構えることになった際には、再びその名前に接することになるかもしれない。その予感に、鳴海は顔を引き締めた。

「それにしても、意外でした」

 二本松領である本宮に差し掛かった頃、新十郎はようやく落ち着きを取り戻した様子で、笑顔を浮かべた。

「鳴海殿のことだから、てっきりあの場で藤田をお手打ちにされるのかと思っていました。何せ、鬼鳴海と呼ばれる御方ですからな」

 鳴海にしてみれば、面白くもない冗談である。

「手打ちにできるものならば、とっくにしていた」

 そう答えると、鳴海はふいっと顔を背けた。悔しいが、あの三浦平八郎が水戸藩に連なる者であれば、やはり手出しは出来ない。どのような言いがかりをつけて、二本松に喧嘩を売ってくるかわからないからだ。三浦は二本松藩の弱い立場を熟知した上で、あのような強気な策に出たに違いなかった。

 二本松城下に戻って事の次第を丹波に報告すると、案の定、丹波は怒り狂った。「わが父祖の厚恩を仇で返しおって」というのが、その言い分である。だが、他の家老や番頭らは、鳴海と新十郎がつけてきた始末に、胸を撫で下ろしたようだった。

「水戸と事を構えずに済んだのならば、まずは上々であろう」

 そう労ってくれたのは、日野源太左衛門である。

「脱藩とは穏やかではないが、藤田に二度とこの地を踏ませない。守山の三浦とやらに然とそう申されて来たのだな?」

「左様。できれば手打ちにしたいところでしたが」

 鳴海の言葉に、源太左衛門が苦笑した。藤田は二本松藩内でも指折りの剣豪である。鳴海も腕は立つが、本気で立ち会えば、勝負はどうなるか分からなかった。

「いや、鳴海殿のご判断は間違っておるまい。もし他領の駆入寺で無理を通して血を流せば、それこそ守山から因縁をつけられる元となったろう」

 源太左衛門のその言葉を聞いた鳴海は、胸を撫で下ろした。脱藩者への処分としては、まずまずの及第点ではあるまいか。 

「それにしても、その三浦平八郎という男。水戸本家の事情にも通じて顔が利く、というのは只者ではありますまい」

 そう述べたのは、一学だった。

「藤田のような小者の来歴まで調べ上げ、それを餌に我が藩にまで間者を送り込んでいたということであろう。その分では、我が藩内に渦巻いている不満も把握しておると見るべきだろうな」

 一学の言葉に、鳴海も気を引き締めた。

 二本松藩の藩政の内情は、あまり褒められたものではない。借金だらけなのもさることながら、家中の不満が丹波一派に向けられているというのも、あの男は把握しているのだろう。そして、藤田が吐き捨てた言葉は鳴海にも堪えた。旧弊に守られてきたお主らには、分かるまい。剣豪だ何だと持ち上げられても、他所からの流れ者はいつまで経っても余所者扱い。丹波親子によって取り立てられた者も多いが、後に離反する者も多かったのは、丹波らのそのような冷酷とも言える性格に辟易する者が、少なくなかったからだ。此度の騒動の大本は、多少なりとも丹波にも責任がある。

 続けて、藤田家に対する処分もその場で決められた。藤田芳之助に子供はいなかったが、その縁戚である藤田八郎兵衛家は、知行取り上げ。一族から脱藩者を出したのだから、それは仕方のないことだった。

「これで、藤田家の一族も、しばらくは日陰者となるな」

 同僚の種橋主馬介が、深々とため息をついた。

「三郎兵衛家はともかく、八郎兵衛家まで処分するのはやりすぎではないか」

 鳴海は返答しかねた。ある意味において、今回の藤田家への処分は、藩内に密かに広まりつつある勤皇派への見せしめとも捉えられた。だが、あまりにも厳しすぎる処断は却って反発心を増幅させる。

「まあ、我が藩が御三家に諂う軟弱者ではない、という意は示せたでしょう。それで良いではありませんか」

 報告も兼ねて小書院の下座に控えていた新十郎も、苦笑を浮かべた。鳴海の振る舞いは、傲岸不遜な三浦平八郎に対して、至極冷静なものだったと新十郎は言い添えてくれた。弁舌が巧みというだけあって、社交術は鳴海よりよほど上手である。

「後は、丹波殿らの動き次第だな」

 源太左衛門は、そう締め括った。この先の処理としては、水戸藩との調整がある。ただし水戸藩は現在真っ二つに割れているから、どの重役に話を通すかの見極めは難しい。丹波自身はいけ好かないものの、そうした外交調整の能力にかけては極めて優秀だった。

 それにしてもあの三浦平八郎は、随分と二本松を小馬鹿にしてくれたものである。罪人に転じた藤田も腹立たしいが、二本松に間者を送り込み、その根底にある不満を揺さぶって自分らの同志を増やそうなど、やり方が姑息だ。

 だがこの時の鳴海は、この脱藩者が後に国を揺るがす変事に関わるとは、露にも思わなかった――。

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