流行り病(3)

 大内蔵の言う通りである。実際に、水戸藩は幕政に口を出しすぎた為に大奥からも嫌われ、斉昭は引退の憂き目を見た。その後継者である慶篤は、父親とは異なり暗愚の印象が拭えない。たとえ御三家と言えども、幕府の意向に逆らって生き延びることは出来ないのであった。まして外様の二本松藩は、言うまでもない。

 尊皇攘夷思想とは、たちの悪い流行病のようなものだ。鳴海はそのように感じていた。

「ところで、縫殿助殿は?」

 一通り談笑が終わると、大内蔵は本来の訪いの目的を再度尋ねた。

 鳴海は、衛守と顔を見合わせた。

「それが、どうも先日から熱があるようで……。今は臥せっております」

「熱が……」

 大内蔵は眉を顰めた。それは、大谷彦十郎家だけではない。二本松領内でこのところ、あちこちで同じような症状を聞くのだった。

「発疹は?」

「今のところはまだ。ですが、医者の言によると麻疹はしかの可能性が高いのではないかと」

 先程までののんびりとした表情とは一転し、衛守も厳しい顔つきになる。

 このところ、領内では麻疹が流行っている。子供がよくかかる病気の一つではあるが、大人が罹患すると重症化しやすい。高熱が出て、体中に発疹が出る。しかも伝染しやすい性質を持っていた。最悪の場合は、死に至ることもある病である。

 一度病むと、その後は罹ることがないのが特徴の病だが、三兄弟の中で、一番病弱なのが縫殿助なのだった。そんな縫殿助が麻疹に罹ったのならば、ひとたまりもないだろう。ちなみに、鳴海や衛守は子供の頃にこの病に罹ったことがあり、のんびりと構えていられるのはそのせいもある。自分たちは罹患する可能性が低いからだ。

一学いちがく殿のご子息の国尚殿も、先日麻疹で亡くなられたそうだ」

 そういい添えた大内蔵の声は、憂慮に満ちていた。丹羽一学は、やはり番頭の一人である。妻のマチとの間に子がないため、丹羽石見の孫を養子として取っていたが、その子を失ったというのだ。領内だけでなく、城下に住む士分の者でも、その多くが麻疹の犠牲になっている。番頭の立場としては、それで部下が失われていくのは、大きな痛手に違いなかった。

「病は、貴賎を問わないということでしょうか」

 鳴海は、心中複雑な思いで大内蔵の話に相槌を打っていた。麻疹に罹ると、食べ物も大いに制限される。かたくりや葛、温麺うーめんなど病人食の定番というべきものを始め、白瓜や冬瓜、秋大根などごく限られた食べ物しか口に出来ないのだった。房事や湯を使うのが禁忌というのは納得できるが、高熱が出ているにも関わらず、水すら口に出来ないのは、誠に気の毒であった。

 そして、縫殿助の身に万が一のことがあれば、縫殿助には未だ嫡子がいない。大谷彦十郎家の嫡子として番頭の業務に追われ、妻を娶る暇すらなかったとみえる。数えて九代になる大谷彦十郎家の名跡は、ここで途絶えることになりかねなかった。弟である衛守は既に大谷家の本来の姓である二階堂に復姓しているし、その父である信義も縫殿助に彦十郎の名跡を譲った後は、隠居して二階堂水山の号を名乗っているからである。

「お気の毒に……」

 大内蔵は首を振った。そして、話が縫殿助から直接聞けないとなると特に用はないのだろう。腰を上げると、軽く頭を下げて「邪魔したな」と述べて去っていった。


 その晩、鳴海と衛守は信義の隠居部屋に呼ばれた。そこには、鳴海の実父である信吉の姿もあった。信吉もまた、養泉の号を名乗る隠居の身である。

「縫殿助は、厳しいかもしれぬ」

 信義の言葉に、鳴海の脇の下に、じとりと嫌な汗が滲んだ。

「ついている医者の言によれば、今朝方より発疹が出てきたが、それ以上に熱が下がらぬ。もう意識も覚束ないとのことだ」

「兄上が……」

 心持ち、衛守が唇を震わせた。何と言っても実の兄弟である。その兄が死にかけているとなれば、穏やかであるはずがなかった。その様子をちらりと眺めながら、信義は言葉を続けた。

「そこで、公儀に養子の願いを出してきた。既に丹波殿らの承諾も得てある」

 いわゆる、末期養子である。江戸の始めは厳しく取り締まられた制度であるが、近年は比較的緩やかなのだった。

「江口家からですか?それとも丹羽家のどこかから?」

 鳴海は、あくまでも自分が兵卒として活躍すると信じて疑っていなかったのである。鳴海自身も一応侍大将としての教育は受けているが、この信義と同じように、彦十郎家と家格が釣り合う家老格の家柄から養子を貰い受けるのだろうと思った。だが、信義の言葉は鳴海の予想を大きく超えていた。

「鳴海殿を縫殿助の養子ということにして、彦十郎家の名跡を継いでもらう」

 束の間、沈黙が流れた。

「いやいや、おかしいでしょう!」

 真っ先に異を唱えたのは、当の鳴海だった。

「縫殿助殿は、私より年下。しかも嫡流は既に水山様の系譜に移っているではありませんか。その順序で言えば、衛守が継ぐのが順序というものでしょう」

「何を言っているんですか。私はもう二階堂の姓を名乗っているんですからね」

 傍らで、衛守が慌てて手を振っている。

 鳴海の本音を言えば、彦十郎家の名を絶やしてはならないとは思う。だが、その家名は鳴海にとって重すぎるのだった。猪突猛進の自分の性格からしても、侍大将というよりも兵卒、せいぜい務めて物頭までの性分ではないか。それに、名跡を継げば他の番頭らとの交流はもちろん、家老らとの付き合いもそれなりにこなしていかなければならない。特に、家老座上である丹波との付き合いは、想像しただけでも胃が痛くなる思いだった。

「いや。私は始めから養泉様と話し合って、縫殿助に万が一のことがあれば、鳴海殿に彦十郎家の名跡を継いでもらうつもりだった。本来の彦十郎家の血を引き、養泉様の実子である鳴海殿が継がれる方が、他家から改めて養子を貰い受けるよりもよほど筋が通るというもの。しかも、年から言えば家督を継ぐには十分でござろう」

 信義の言葉は、至極正論である。鳴海は言葉に詰まった。義理の兄でありながら、父の晩年に生まれた鳴海のために、これまで信義は大小となく気を遣ってくれたに違いない。立場が複雑な鳴海のために、縫殿助や衛守に対し、鳴海を「兄」として立てるように主張してきたのも、信義だった。まさか、このような日が来るのを予見していたわけでもないだろうが。

「丹波殿は何と?」

 万が一、丹波が反対すればこの話も流れる。そう思ったのだが、信義の言葉はあっさりと鳴海の希望を打ち砕いた。

「今、彦十郎家の名を絶やしてはならない。跡を継ぐ者がいるのならば、跡を継がせよとの仰せだった」

 鳴海はがくりと肩を落とした。藩命となれば、さすがの鳴海も逆らえない。

「父上。それよりも、縫殿助の兄上は……」

 未だ声を震わせながら、衛守が囁く。

「持ってあと二、三日と医者が申しておった。辛いだろうが、お主らも縫殿助の部屋に近づいてはならぬ。お主らが発病しなくとも、近づけば、お主らを媒介として家中の者に移しかねん」

「……承知」

 衛守が辛そうに肯く。伝染力の強い病のため、その末期を看取ってやることもできない。この広い屋敷の中で隔離され、一人で死んでいくのかと思うと、鳴海もいたたまれないものがあった。

 思い返せば、縫殿助は大人しい気性の男だった。衛守と同じように幼い頃から共に育ち、時には喧嘩もしたことがあったが、武術においては常に鳴海が勝っていた。だが、それで拗ねるでもなく、「彦十郎家が戦場に出ることがあれば、鳴海殿にこの身を守ってもらう」と言っているような男だった。武術には秀でることがなかった分だけ、勉強には熱心だったのが印象に残っている。

「鳴海、良いな」

 養泉が、重々しく命じた。その声に、鳴海ははっと物思いから醒めた。どう足掻いても、鳴海が彦十郎家の名跡を継ぐのは間違いなく決まりである。

 鳴海は、黙って両名に頭を下げた。

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