喋る魚の姿煮

犬歯

喋る魚の姿煮

 夫は釣りが趣味だった。それはお義父さんの趣味でもあり、また彼のお祖父さんの趣味でもあった。

 私は料理が趣味みたいなところもあるので、夫とはなかなか相性がよかった。愛するというのは案外唯物的なものなのかもしれないと私は思う。しかし、それだけでは結婚まで至れないというのもまた真理なんだろう。


 その日もまた、夫は一人で釣りに出かけていた。五月の晴天は、といっても夫はマズメ時、日の出の時間にはもう釣り場に到着していたはずなので晴天かどうかというのは結果論でしかないのだが、なにはともあれその五月の晴天は釣りをするには申し分ない天候であった。

 その日は私も休日だったため、ソファーに寝転び、アンドレ・ブルトンの「溶ける魚」を読みながら半分寝ていた。この本はあまりにも読むことに適してない。言うなれば太陽の塔を見るときみたくこちら側の納得と妥協が不可欠な本というわけで、それは休日の午前中にはあまりにそぐわない。本来、平日の疲れ切った深夜、寝る直前になって初めて読むべき、そんな本なのだと私は私に言い聞かせて、そのまま眠りについた。


 私が眠りについてから数刻がたった昼下がりに夫は帰ってきた。ガチャンという扉の音で私は目を覚ました。私はゆっくりとソファーから起き上がると百均で買った、もう2年は使い古しているボロボロのスリッパを履き、木製のフローリングを奇妙な音を立てながら歩き、玄関の方へ向かった。

 玄関では夫が大きなクーラーボックスとあまりに丈の長すぎる、体育館の天井に挟まったバレーボールさえ取れそうな釣り竿を抱えてそこに立っていた。


 「おかえり」私は少し間を開けて言った

 「ただいま」夫はすこし緊張した、間延びしたような含みのある声で言う。

 「どうかしたの?意外と早かったし」

 「どうかしたと言われれば、どうかしているとは思う。だけど、なんだろううまく説明できないんだ」夫はところどころ間を空けて、口から息を出し入れさせながら、まるで弁明する人みたいに話した。そして私は返事をせず黙っていた。

 「ようするに、簡単に言うと、いや簡潔に言うと、僕は喋る魚を釣ってしまったんだよ。そしてそいつはもう死んでいる。そのクーラーボックスの中で」


 私には夫の話がいまいちよく理解できなかった。夫は平凡な人間で、嘘をよしとしないし、きっと私がこんなことを言い出したら聞く耳を持たないに決まっている。だからこそ彼の言ったことは本当なんだろうと私は思う。だが、それはそれ、これはこれだ。どうかしているとしか言えない。私はそう感じた。


 「とりあえず、それを置いて、着替えてコーヒーを飲む。それから詳しい話を聞く。それでどう?」私は努めて冷静に言った。彼も少し落ち着きを取り戻したのか「そうするよ」といい靴を脱ぎ、汚いスリッパに履き替えた。



「ようするに話はこういうことなんだよ」コーヒーをひと啜りして、夫は落ち着いたのかゆったりとした声色で話し始めた。


「正直に言うと、今日はあまり釣れなかった。そういう日はよくある。とはいえ今日はあまりにも釣れなかった。あまりにもというのは、なにか異常な自体、例えば誰かが鰐を放ったとか、プランクトンが排除されたとか、汚水が排出されたとか、まぁそういう事態を指すんだけれど、そういうことが起きるか、もしくは釣り人が多いかというときにしか起きないものなんだ。とりわけ僕みたいな釣りに慣れている人にとってはという話なんだけれど」私は頷き、続きを促した。

「でも今日はなんの異常もなかった。ワニも腹ペコのピラニアもいなかったし、川の水なんて飲めるくらいだ。釣り人も僕しかいなかった」


「でも、釣れなかったんでしょ。もしかしたらワニガメが地面に潜んでいたのかもしれないね」私はおちゃらけた様子でそういった。彼は黙って首を振った。私は肩をすくめた。


「それはないよ。そういうのはだいたいわかるものなのさ。それに別に魚が釣れる、釣れないってのはさほど重要じゃない。虫の知らせみたいなものさ。余震は被害の縮小には役立つけれど、被害そのものを引き起こさないわけではないのと同じでね。」夫の話は少し熱が入り始め、私はそれに反比例して少し冷めた態度で彼の話を聞いていた。


「僕だって少しくらいプライドがあるんだ。だからとっておきの餌を使って何が何でも魚を釣ってやりたかった。そして一匹の魚が釣れたんだ」


「その魚が、その棺桶に入ってる喋る魚ってわけ?」私がそう言うと夫は黙って頷いた。


「そいつは、姿は鮎の形をしていた。当然だね。今日は鮎釣りをしていたから。鮎釣りは共喰いさせるってのが上等なのは君も知ってるよね?」私は頷いた

「しかし、そいつは共喰いをしなかった。とっておきの餌は鮎じゃなくてお手性の疑似餌っていうわけなんだけどそいつはこれに食いついた。そして引き上げられると開口一番、"あーあ、これで終わりってか”と言ったんだ」

「きっと魚が釣れなかったのはそいつが広い縄張りを支配していたからね。まるで帝国主義時代のイギリスみたいに」私がそう言うと、彼は頷き「きっとそういうことなんだろうね。因果関係っていうのは全貌が見えないと理解できない。だからいつだって手遅れになるんだ」と言った。


「あなたは他にそいつと言葉を交わしたりしなかったの?」私が不意にそう言うと、彼は少し顔を顰めて、唇を舐めると「話したよ。彼は何故か聞く耳を持っていた」と苦々しく言った。「そして僕はそいつが喋ったことに驚いた。すると"なんだよ、人間が喋るなら魚も喋る当たり前のことだろ?"とそいつは言った。そして僕はそれに反論した。'人間だから喋るんだ'とね。なんで反論したのかはわからないよ。自分でも。とにかくそう言うと、そいつは"それは悲しい考えだな"といったんだ。そしてバタバタ跳ねて、動かなくなった」と息が切れそうになりながら話を続けた。

 ―

「そしてあなたはその釣果を氷の詰まったクーラーボックスに納め、家に帰ってきた」私がそう言うと彼は前髪を少し触り、それから「ああ」と溢した。


「どうしてだろう。魚には変わりないんだ。なのに何故か怖い」彼は唇を震わせてそう言うとコーヒーを一口飲んだ。口の端ではコーヒーの雫が今にも零れ落ちそうに佇んでいた。私は「当たり前、喋る魚に出会って怖がらない人はいない」と慰めるようにそう言ったが、彼の震えは収まらなかった。


 少しの沈黙の後、私は唐突に「私、さっきまで寝ててご飯を食べてないの。あなたは?」と言った。彼は黙って首を横に振った。私は立ち上がり台所に向い、徐にクーラーボックスの蓋を開けた。そこにはまるで成金坊っちゃんのようにまるまる太った鮎の屍体が硬い氷のベッドの上にまるでふんぞり返っているかのように寝転がっていた。なるほど、確かに人間みたいな魚だと私は思い、それからその鮎を持ち上げて鍋にそのまままるで砲丸投げの選手みたいに乱暴に投げ入れた。


 結局その日の彼は水を飲むだけで、寝るまで食事を摂ることはなかった。彼のお腹は盛大なブーイングをかましていたが、彼の理性はそれをよしとしなかった。おかげで私は、まるまる太った鮎を一人で食べきる羽目になった。そのせいで体重が少し増えた。私はダイエットを始めて、彼は釣りを辞めた。私達の仲は別に変わりはしなかった。愛はとても唯心論的なものらしかった。

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