1LDK、ワンナイト、ワンモアチャンス

満月とまと

第1話




「よかった。犬飼くんに誘われなかったら元カレぶっ殺しに行ってるところだった」


 大衆居酒屋の座敷で、猫嶋さんはいつもの凛とした声で告げた。片手にはビールのジョッキがあったがまだ口はつけられていない。つまり彼女は、まだシラフ。


「……社会的に、ですか?」


 眼鏡のフレームをくい、とあげて冷静ぶって聞いてみたけれど「物理よ」と即両断された。「この領収書不可よ」と言うときと同じ温度の斬りっぷりだった。

 同期の中谷から猫嶋さんがフリーになったらしいと聞いてダメ元で誘ってみたところまではよかった。金曜の夜というのもよかった。僕の家の近くの居酒屋で呑んでくれるというところまでもとてもよかった。

 とりあえず生で、が届いて乾杯をした後の第一声が先ほどのものでなければ。元カレを殺す予定があったとは、そうですか、知りませんでした。

 ぶっころす。我らが経理課の華、猫嶋さんからは聞いたことがない単語だ。「犬飼くんここ間違ってるよ」という厳しくも優しい声しか覚えがない。もしかしたらああいう時も内心は思っていたのかもしれない。

 ああ猫嶋さん。髪をかきあげる癖があってロングヘアーが素敵でスーツ姿がとてもよくお似合いな猫嶋さん。クールビューティーな感じだけど3cm以上のヒールだと走れない猫嶋さん。ホチキスの替え芯の箱をなぜかいつもうまく開けれない猫嶋さん。入社したその日から僕の心を奪った猫嶋さん。


( そうか猫嶋さん、ぶっ殺すとか言うタイプだったんだな… )


 恋なんて所詮偶像崇拝。もしかしたら僕の恋は今夜で終わりかもしれない。

 と、思ったのだけれどビールを一気に飲み干し顔を上げた猫嶋さんと目が合うとダメだった。全然好きなのである。たとえ元カレの殺人を仄めかしていても。よほどひどいことをされたに違いないと考え直すのに時間はかからない。


「よほどの恨みが?」

「恨み…そうね。よくある話らしいんだけどいやこんなことよくあっちゃダメじゃない? って思うんだけどまあ、浮気されていたのよ。三股」

「二股ではなく」

「そう、一人は最近追加されたらしいんだけどマッチングアプリで出会った子なのでまあ置いておくとして、もう一人が三年。三年ズルズル付き合ってたらしいの。全然知らない女。私とは違う茶髪巻き髪まつげもフッサフサ、どうせまつエク写真も加工」

「猫嶋さん彼氏と長かったですよね。僕が入社したときにはもう」

「そう五年。そのうちの三年間は騙されていたってことね……………ね……」


最後の「ね」が聞いたことのない低音で沈んでゆく。僕はビールを飲むのも忘れたまま猫嶋さんのオンステージに耳を傾ける。会社ではずっと落ち着いた先輩、たまにかわいい猫嶋さん。

 こんな猫嶋さんは、なかなかお目にかかれない。


「何が腹立つってアレよ、アレなのよ。浮気相手がこう、私とは正反対のよく言えばゆるふわ女ハッキリ言ってただのバカ女っていうか」

「は、はぁ…」

「なんで正反対いくの!? いや私と一緒でもアレでしょ? はぁ、お金なら払いますけど…みたいななんかそういうこと言いそうで嫌だけど…! …あぁ、そうねそっちのが腹立つか…腹立つかも…まずは女から殺る……」

「あれ? 婚約してたんですか?」

「してなかったけど、そういう話はしてた…もっと進んでたら絶対慰謝料とるまでいったのに…どのみちお金なぁいとか言いそうなバカ女だったけど」

「歯に衣が」

「ない。そんなものない。そんなものあったらこんなところでグダグダ愚痴ってない。つまんねー女って、何!? 罪も犯さず真面目に生きてる人間が一番偉いって法律早く作って!? そんなにおもしれー女が好きならお前がまずおもしれー男になれ!?」

「猫嶋さん、今かなり面白い感じになってますよ」


 少なくとも座敷の中年男性たちと隣のカップルの手と口を止めるくらいには。大注目だ。怒れるクールビューティー猫嶋さんは止まらない。

 美人が髪を振り回して怒る姿は、そりゃあ、見てしまうだろう。


「真面目すぎてつまんないんですって。お前は安定しすぎてた、刺激がない。刺激がほしいなら今すぐ全財産募金してから暮らしてみろって言いたい。貯金がないという覚悟をしてから生きてほしい…ああ、こういう考え方がつまんないって言われるのかな…経理課なの関係ある?」

「多少は…」

「でもやっぱ、お金って大事じゃない? そうね、そう。もう信じられるのはお金だけ。はーぁ、元カレ殺してくるから保釈金払ってくれる?犬飼くん」


 この数分で、保釈金の支払いを頼まれる仲になってしまった。猫嶋さんに頼られるのは魅力的だが殺人はいけない。どんな理由であれ殺人はいけないのだ。

 僕はその背中を押すわけにはいかないので作り笑いで、でも本心で告げる。


「忘れましょう」

「凡庸でありきたりな励まし。3点」

「……めちゃくちゃ採点厳しいですね」

「もっとこう、他にないかしら…この際社会的に殺す方法でもいいのだけど…ハメ撮りとかそういうのもしたことないから流出できないし」

「はめどり」


 隣の席のカップルの彼氏の方が盛大に咽せた。ついに僕のテーブルだけでは被害が食い止められない方向に発展してしまった。僕の頭の中は猫嶋さんのさっきの声でいっぱいで、こう、いっぱいいっぱいだ。


「そういうこともしなかったからつまんねー女とか言われたのかしら。そもそも面白いとかつまんないとかの基準って何? 彼女がいる男の家にホイホイついてきて股を開く女がおもしれー女になるなら私は一生つまんねー女でいいんだけど、いいんだけどそう言われたことは許せないっていうか……ああもうダメだ混乱してきたすみません生一つ」

「猫嶋さんってお酒強いんですか?」

「めちゃくちゃ弱い」

「すみませんオレンジジュースください!!」


 飲み会で呑んでたカシスオレンジはノンアルコールだったのかもしれない。そういえば生一つで顔がもうほんのり赤い。怒ってるせいだけじゃなかったのか。


「今夜は狂ってみようと思ったのよ」

「狂ってみるとは」

「例えば…普段しないこと…酔っ払って……持ち帰られるくらいの隙……結局そんなありきたりな冒険しかできない……」


 言いながらテーブルに沈んでゆく猫嶋さん。そのままごろりと首をこちらに傾けるので自然と上目遣いになる。百点満点中五百点叩き出す仕草だった。僕はテーブルの下でガッツポーズをキメる。

 今日誘ってよかった。心からそう思う。僕はたぶん今夜、一人の成人男性の命を救ったし、きっと僕の片想いも報われる。

 みんな僕のことを拍手で見送ってほしい、そう思ったけれど座敷の人間はもれなく全員青ざめていた。なんででしょうね。




 飲み屋の近くの僕のアパートは1LDK木造アパート、壁も薄い。二階建ての角部屋。猫嶋さんは誰の手も借りずタンタンと階段を登る。いつもの低いヒールで、しっかりとした足取り。

生一つで終わってくれた猫嶋さんのお酒に弱い、がどこまで本当であるかはこの際置いておくとして意識はハッキリしているし翌日記憶に残ってくれるだろうと期待する。


「鍵、開けっ放しなの?」

「あんまり閉める癖なくて」

「不用心ね…」


 そのままのドアノブを回して我が家にお招きする。アパートはボロい方だが部屋としてはお綺麗な方なので女性を招くことに抵抗はない。最後にこの部屋にあがったのは誰だったかな。ああもう、長い一人の夜だったな、とドアを閉めながら目があった猫嶋さんに軽く口付ける。


「……意外に手慣れてるのね、犬飼くん」

「そんなことは、」


 ないこともない。冴えない眼鏡のわりに、実はそこそこ彼女だっていたことがある。あなたに出会う前までは、と野暮なことを言おうとしたけれど飲み込んだ。そのままずっと触りたかった髪、もとい頭に手を回す。

 猫嶋さんは最後まで凡庸だのありきたりだのわめいていたけれど唇を舐め回し終えた後にはそんなことも言わなくなったので、それは、まあ。

 なんやかんやありつつも僕たちの体の相性ってやつは悪くなかった。最高だったといっても過言ではない。

 しかし朝方、寝返りをしつつもう一回戦、と抱き寄せようとしたら彼女の姿はなくなっていた。まるで夢だったかのように。

 いやゴミ箱に捨てられたティッシュやら避妊具やらから昨夜のことが現実なことは明白。置き手紙も何もなく、玄関の鍵だけが開いていた。

 不用心だと言うなら、せめて朝までいてくれてよかったのに。こんな逃げ方ってないぞ猫嶋さん。

 僕はまだ、あなたに好きだと言えていない。




 問題はその後である。

 なんと猫嶋さんは会社を辞めた。ワンナイトラブから正気に戻って現実に耐えられなかったのかと思ったらそうではなかった。実は元カレを本当に殺した後の逃亡かと思ったらそういうわけでもなかった。

 広い世界を見る、まだまだ新しい私なれる、とかなんとか上司には言ってそこそこゴタつきながら退社したらしい。かなしいことに僕には全部伝聞だった。そういえば連絡先も知らない。

 所謂おもしれー女になりにいったのだ、猫嶋さんは。人生単位でハメを外したくなってしまったんだろう。この際大好きな貯金も全部使う気でいるのだろう。人生単位なら、僕としてくれてよかったのに。

 伝え漏れる同僚の発言によるとSNSの写真ではハワイやらモルディブやらの美しい写真があがっているそうだ。めちゃくちゃ満喫しているじゃないか。

 めちゃくちゃレジャー施設じゃん! っと突っ込むのも束の間、三週間後には現地コンディネーターと熱愛だの結婚宣言だのが投稿されていたらしい。おアツいツーショット写真だったらしいが、死にたくなるので僕は見ていない。写真の背景がジャングルらしきところで、社内では更に物議をかもしていた。

 おいどういうことだ猫嶋さん。どうしていきなりそんな思い切った判断をしてしまったんだ。まさか本当にアマゾンの奥地にこの世の謎を解明しに行ってしまったのか猫嶋さん…

 猫嶋さんの元カレは猫嶋さんのことを「つまんねー女」と称したらしいが、たぶんこんな人どこにもいないですよ。

 僕もあなたも、捕まえ損ねてしまいましたね。




 五年の片思いからの悲願の一夜、からの突然の逃亡劇を迎えても僕は大人なのでなんだかんだ仕事には行くしご飯も食べるし夜もぐっすり眠っていた。

 出来るならもう一度会いたいとは思うが猫嶋さんの逃亡のスケールの大きさになんというか、まあ、素直に「すごいな」と感心してしまったせいもある。僕にとっての猫嶋さんとは、やはり僕の目の前を行ってしまう人なのだ。

 まあ、そう思ってないとやり切れないというか忘れたくない一夜のことを思い出してはションボリしてしまうせいというのもある。

 もう少し傷が癒えたら猫嶋さんのSNSを教えてもらおう。全部の写真にいいねをしよう。決意新たに布団と仲良くしているところだった、夜もそこそこ22時。

 珍しく鍵をかけていたドアノブが突然ガチャガチャと回り始めた。普通に開けようとして鍵がかかっていてびっくり、みたいな感じか「え!?」と聞こえたと思ったら続いてインターホンのラッシュ。容赦のないフルコース。

 どちら様!? とスコープから外を覗くとこちらを覗き込むまんまるの大きな瞳と目があった。見覚えがある。あの日あの夜居酒屋の座敷で僕の急所を突いた瞳。

 金曜日の夜、天候は雨。僕の部屋の前にびしょ濡れの猫嶋さんが現れた。ブラウスに花柄のロングスカートに、足元には真っ赤なスーツケースがあった。靴はスニーカーだった。走ってきたのだろう、息が切れている。

 眼鏡のフレームをあげて、努めて冷静に僕は言った。


「帰国したんですか?」

「さっき。ついさっきね。傘が荷物になくてもうびしょ濡れ。さいあく。どうして人生は最悪なことばかりが続くのかしら?」

「婚約者はどうしたんですか」

「既婚者子持ちだったから殴って捨ててきたわ。犬飼くん、もうわかったの。私はたぶん男を見る目がないしバカやろうとすれば冷静な思考回路も一緒にバカになっちゃうの。私は冷静にバカになりたいだけなのに。たぶんこの話の1番のバカ女は私なのよ」


 猫嶋さんはロングヘアーのままだった。暑い国でも切らなかったのだろう。びしょ濡れの黒髪が頬やらブラウスやらに貼り付いて透けている。涙目で、息も切れ切れで、なんという姿だろう。よくぞご無事で、ここまで。駅から近いボロアパートで本当によかった。

 あたたかいものでもいれますよ、と言ったら猫嶋さんは目を丸くした。まるで信じられないものを見るみたいに。

 あなたに置いて行かれた日から、僕はちっとも変わってませんけど。


「インスタントのスープくらいならありますよ」

「結婚して」


 びしょ濡れの猫嶋さんにガバっと抱きしめられて勢いよくフラつく。まだ玄関のドアも閉めていないのに、こんなところお隣さんに見られたら結婚秒読みだと祝福されてしまう。ドラマだったらエンディングがかかり始めているであろうシチュエーション。

 祝福バッチコイ、構わず抱きしめ返すとあの日抱いた体がまた腕の中にあって僕は嬉しくなってしまう。猫嶋さんはおもしれー女でもつまらねー女でもない。

 僕の好きな人だから、僕のところに来てくれたらそれはそれは嬉しい。

 結婚は、まあ、おいおい考えるとして。そういうことは温め合ってからでも遅くはない。

 今度こそ、僕はあなたに好きだと言おう。

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