怠惰の章① 気を許せる相手
俺は人生において大きな決断をした。
元々少ない荷物をまとめて、カバン一つを手にして道場を見回す。
殺風景で何もない。
改めて見ると、よくこんな場所で生活できていたなと感心するほどに。
娯楽はもちろん、日々に変化もなかった。
全てを魔術師としての研鑽に割り当てた生活。
煩悩との戦いも、これから新しい段階へと移る。
「ここともしばらくお別れか」
多少の寂しさは感じる。
師匠に拾われてから二十年余り、俺はここで過ごした。
俺にとっての世界は、この道場が全てだった。
そんな場所を飛び出し、世界へ旅立つのは少々の不安と、隠しきれない期待が胸にある。
これも一つの煩悩だが、致し方ない。
俺もどうやら男の子らしい。
「お待たせしました! 先生」
「準備出来たわ」
「重いよぉ~ せんせー代わりに持ってぇ」
俺の下に三人の弟子たちがやってくる。
三人とも荷物を持ち、俺と一緒に出発する準備は万端の様子だ。
彼女たちとは別に、俺の背後から足音が一つ。
「本当に彼女たちも連れていくの?」
「そのつもりですよ」
振り返るより先に声をかけてきたのは、王子様ならぬお姫様だった。
彼女は手を後ろで組み、キョトンと首を傾げる。
「いいの? とても危険な旅になるよ」
「わかっていますよ。ですが、ここに彼女たちだけを残して旅立つほうが不安です。俺の傍にいるほうが安全ですから」
姫様からの依頼。
七つの呪具の残り六つを探し、取り戻す旅にこれから出発する。
その旅に、彼女たちも同行させる決定をした。
「それに何分、旅をするのは初めてですので。戦い以外の面でも、彼女たちには支えてもらいたいのですよ。ここでも私生活に関しては、彼女たちに任せていましたから」
「そう。あなたが納得しているなら、これ以上指摘するのは無駄ね」
「ご理解いただけて感謝します」
俺は軽く頭を下げる。
姫様の懸念も理解はできる。
危険な旅にわざわざ実力が乏しい彼女たちを同行させるのは、足手まといを増やす行為だと、言葉には出さずに伝えているのだろう。
そんなことは百も承知だが、師は弟子を育てるために存在するもの。
この旅で彼女たちが成長し、一人前の魔術師になってくれたら、俺の師としての役目も果たせる。
そうすれば、彼女たちは自由だ。
どこでも好きに生きて行けるし、俺も心置きなく送り出せる。
全ては俺が、大賢者の後継者という立場から解放されるために必要なこと。
そう、俺は決めたんだ。
この旅が終わったら、賢者として振る舞うのをやめると。
目的達成のためなら何だってしよう。
多少の不条理は受け入れる。
というか、彼女たちのことよりも、もっと理解できないことがあるんだが……。
「皆さん、準備はできましたね?」
「はい! これからよろしくお願いします! ロール
「こちらこそ、皆さんの成長と活躍に期待しています」
なぜだ?
リーナはハッキリ見たはずだ。
彼女だけじゃない。
あの時、ロール王子が男ではなく、女性だということに。
しかし俺以外の三人は、今も彼女のことを男性だと思って接している。
戦い後の記憶を失っているわけでもない。
ただ、彼女に対する認識だけがズラされている。
俺はロール姫にしか聞こえない声量で、ぼそりと尋ねる。
「これがあなたの術式ですか?」
「さすが大賢者、気づいたのね?」
「予測だけですよ。精神干渉系の術式……相手の認識を一部変える効果ですか」
「正解です。私は相手に自分は男だと誤認させる術式を身に付けています」
おそらく常時発動するものではない。
それなら今も、魔力の流れを感じるし、そもそも常時発動なんてしたら魔力が持たない。
賢者に匹敵する魔力操作の技術もいる。
彼女にそこまでの技量があるとは思えない。
相手に女だと思われそうになった瞬間にのみ発動させ、認識をずらす術式か。
効果と範囲を限定することで、能力を向上させている。
中々理にかなった使い方だ。
「そこまで性別を偽りたいのですか?」
「仕方ないのよ。女は国王になれない、なんてふざけたルールがあるの。私は国民には王子だと思ってもわらないと困るのよ」
「俺にはバレていますよ?」
「あなたは特別。そもそもあなたに、私の術式が効くとは思えないわ」
正解だ。
俺に精神干渉系の術式は通じない。
魂を知覚し、魔力を支配下に置いている俺は、他の術式効果の侵入を許さない。
俺に精神干渉や幻術をかけられるとすれば、同等の魔力量、出力、捜査技量を持った魔術師だけだろう。
「王になりたいのですね。あなたは」
「ええ、どうしても」
「理由を聞いても?」
「内緒よ。旅が無事に終わったら教えてあげる。知りたいなら、しっかり目的を達成してもらうわ」
「……ふっ、言われなくてもそうしますよ」
俺にだって目的があるんだ。
この旅を無事に終えて、俺は全てのしがらみから解放される。
「リーナ、スピカ、シアン。行こうか」
「はい! 先生!」
「準備はとっくに出来てるわ!」
「しゅっぱーつ!」
こうして俺たちは旅立つ。
二十年間お世話になった道場に背を向けて。
もしかすると、もう二度とここには戻ってこないかもしれない。
俺は以前、突然いなくなった師匠に怒りを感じた。
絶対に自分は同じにならないと誓いもした。
けど……理由は異なるが、俺も師匠と同じように、この地を去ろうとしている。
改めて思う。
ここを旅立つ決意をした師匠は……どんな気分だったのだろうか。
俺は少し、楽しみだ。
◇◇◇
出発して二日。
夜になり、俺たちはちょうどいい木陰を見つけて野宿をしていた。
寝袋を用意し、三人はすでに眠っている。
俺は周辺の警戒もかねて起きていた。
「眠らなくていいの?」
起きているのは俺一人ではなかった。
ロール王子もとい、ロール姫が俺の隣でちょこんと座る。
「睡眠も欲の一つだ。俺は一週間程度なら眠らず行動できる」
「凄いことだけど、無理をしているだけじゃないの?」
「心配はいらない。彼女たちの誰かが目を覚ましたら、俺も少し眠るつもりだ」
「過保護ね。師弟というより親子みたいだわ」
「……実際それに近い。彼女たちは孤児だからな」
見た目からもわかる通り、俺たちに血縁関係はない。
赤の他人だ。
それでも一緒にいるのは理由がある。
彼女たちは孤児だった。
それぞれの理由から孤独を背負い、一人で生きることを余儀なくされた子供たち。
俺は偶然、彼女たちと出会って弟子に迎え入れた。
俺の師匠が、俺を見つけて弟子にしてくれたように。
「あなたも孤児だったのね」
「ああ。物心つく前に捨てられて、師匠が拾ってくれた。俺にも、彼女たちにも魔術師としての才能がある。大賢者の後継に必要なのは血縁よりも素質だからな」
「思った以上にいびつな歴史を繋いでいるのね。こんな山奥に暮らしているから、もっと閉鎖的な考え方だと思っていたわ」
「逆だ。魔術以外に興味がない。だからこんな山奥で暮らしているし、優れた魔術師の卵は歓迎する。良くも悪くも、俺たちは魔術師の一族だ」
なんで彼女にこんな話をしているのだろうか。
別に聞かれたわけでもないのに。
自然と言葉になって表現されていたことに、後から気づいて少し驚く。
「というか、そんなしゃべり方だったか?」
「あなたには正体がバレちゃったからね。依頼も受けてくれたし、取り繕う必要がなくなったのよ」
「今が素ってことか」
「あなたこそ、雰囲気から違うわね? 弟子たちの前では気取ったしゃべり方をしている癖に」
「きどっ! まぁ否定はしない」
少し恥ずかしいが、意識しているのは事実だ。
「俺は師匠だからな。不甲斐ない姿は見せられないし、常に理想の存在であり続けたい。弟子たちの前では格好つけたいんだよ」
「ふふっ、そういうの嫌いじゃないわ。無欲な賢者様より、欲まみれな賢者様のほうが、人間味があって私は好きよ」
「それはどうも。俺も今のラフな感じのほうが話しやすくて助かる」
「お互い、理想を演じ続けないといけない立場は大変ね」
「まったくだ」
落ち着く。
彼女には俺の本性がバレてしまっているし、彼女にとっても同様だ。
変に警戒もせず、気取った態度をすることもない。
自然体で接することができる相手を、人生で初めて得たかもしれない。
「欲まみれはいい過ぎだけどな」
「実際その通りでしょ? あんなに大きな声で叫んでいたじゃない。おっぱいが揉みたいって」
「くっ……なんのことか」
「ふふっ、今さら誤魔化さなくていいわよ。男の子なら当然の欲求だわ」
これが羞恥心か。
長らく忘れていた感情がこみ上げてきて、何とも言えない胸の厚さを感じる。
「そんなに揉みたいなら、私のを揉んでもいいわよ」
「――は?」
「普段はベルトで押さえつけているけど、こう見えて結構あるのよ?」
「い、いや、何言ってるんだ?」
「助けてもらったお礼をしていないと思って」
そう言いながら彼女は俺に顔を近づける。
普段は抑えている胸のベルトを外して、服の上からハッキリとわかる山が二つ。
確かにちゃんとある。
「あなたになら……触られてもいいわ」
「ちょっ、お前……」
まずい。
過去最大級の煩悩が押し寄せてくる。
でもいいのか?
彼女が触ってもいいと言ってくれているわけだし、ここはお言葉に甘えても?
「ふ、ふふ、面白い反応ね」
「――! からかったな!」
「さぁ、どうでしょうね? 私は本気だったわよ」
「こいつ……」
なんて魔性の女なんだ。
気を付けなければ。
特に弟子たちが起きている間は……。
しかし強烈すぎる。
これが無自覚な誘惑と、意識的な誘惑の差か。
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