Day6 警告

 面倒くさい夢を見た。


 目が覚めると同時に、彼は腹の底から深いため息をついた。



 子供の時の夢だ。今日も例に漏れずあの女の子が出てきた。


 いつものように二人で村を駆け回っていたが、今日は女の子が大きな家に入った。一般的な民家の二軒分ある広い家だ。一目でそれが金持ちのものだと分かる。


「ここのお部屋は遊んでもいいから平気。ね、一緒に遊ぼ?」


 女の子はにっと笑うと、ポケットから白いボールを取り出した。手のひらで収まるほどのそれに魔力を込めると、ボールは緑の淡い光を纏いながらぷかぷかと浮かぶ。少女は糸を引くようにボールを操ると、その軌跡は新緑色の光となる。


 彼は周囲を見回した。高価そうな壺も、絵画も、装飾灯も見当たらない。それどころか、この部屋には家具の一つもなかった。せいぜい窓ガラスを割らないよう気をつけるくらいだろう。


 彼女は挑戦気味に笑うと、彼の名前を呼ぶ。


「わたしの方が魔法上手だからね。絶対捕まらないよ!」

「おれだって負けない!」


 彼女の描く軌跡を見つめながら、彼もポケットからボールを取り出した。魔力を込め、宙に浮かせる。赤色をまとったボールは、彼女の緑を追いかけた。


 ――魔法の鬼ごっこに興じること、しばし。


 中々勝敗が決まらない中、妙な音が混ざった。それは口笛のような、鳥のさえずりのような、笑い声のような、奇妙な音だ。それに反応し、彼の耳がぴくりと動く。彼女は全く気づいていないようで、「手加減しないでよー」と文句を言いながら、誘うようにボールを操る。


 その時だ。


「女に引けを取らぬ魔法の使い手! 素晴らしい逸材を見つけたわ!」


 しわがれた、しかし力強い声が部屋に響く。物々しい言いように、彼は思わず魔法を解いてしまった。光を失った白いボールが、数度弾んで床へ転がっていく。


「ちょっとおばあちゃん、わたしたち勝負の途中なんだけど」

「悪いな、いてもたってもいられんくて」


 ぶすっと頬を膨らませる少女に、年寄りは形だけの謝罪をすると、無遠慮に彼の手首を掴む。


「いい魔力だ。将来性がある」


 目を孤の字に細め、意味ありげに老婆は笑った。


 ぞわりと彼の背筋に鳥肌が立つ。本能的な恐怖が上ってきた。しわの多い手を振りほどこうとしたが、老婆の手は離れない。


 怖くて怖くて仕方がなかったが、彼女の前で不格好な姿を見せたくなかった彼は、必死に歯を食いしばってこらえたのだった。


 その後もしばらく、あのよく分からない年寄りに振り回された気がする。

 が、それ以上は夢の内容を思い出すことはできなかった。思い出したくないのかもしれない。どちらにしても、知らない方が気が楽だろうと思った。




 先日の雨はどこへやら、今日ははっきりと日差しが届いていた。雨の後特有の湿気の匂いもない。風は時折穏やかに吹き、日差しは温かい。いつも通りの過ごしやすい空間だった。


 彼はざらついたハンモックの紐に手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。紐がくくられている太い幹へ手を伸ばした。一般的な樹木より明るい色のそれは、見た目と反して滑るような感触がある。こんなものによく紐をくくりつけられるなと感心した。

 爪の先が木の表面を撫でる。奇妙な高い音に、男は眉を寄せた。夢で見た年寄りの笑い声が、嫌でも頭に浮かんでくる。


 あの年寄りは強烈だった。夢で聞いた異様な笑い声が未だに耳に張り付いている。振りほどきたくても振りほどけない、そんな妙な気配を持っている。正直不快だった。気配に形があるならば、きっとねっとりとして変に温いのだろう。絶対に触りたくない。


 彼は腕を組み、深くため息をついた。ふと左腕に右腕の重さを感じる。なんでもないこと。当たり前の感触。だというのに。


 彼は組んでいた腕をほどき、自分自身の両手を見つめる。ここで目覚めた日のように、手を閉じ、また開きを数度繰り返した。骨を動かす感覚がある。手のひらに指が触れる感触も、その手の熱も。はっきりと。


 感覚が戻った。


 あんなに曖昧だったのに。

 あんなになにもなかったのに。


 どくどくと脈打つ心臓の鼓動を感じる。


 生きている。

 自分は、生きているのだ。


 どっと溢れる安堵感に、彼は大げさにため息をついた。そのままハンモックに腰掛け、空を仰ぐ。


 時折白く小さな雲が横切る穏やかな天気だ。太陽の光は眩しい。しかし、そのまばゆさすら心地がいい。


 森の緑に目を向ける。木の葉の生命力はやはり強いものを感じるが、初日のような莫大な力――ある種の威圧感はもう感じない。しかし、この空間の生命力が衰えたとは考えづらい。変わったのは自分の感覚だろう。


「こんにちは。なんだか嬉しそうですね」

「そう見えるか?」


 そんな穏やかな時に、鈴の音のような声が響く。


「私にはそう見えます」

「少しだけな」


 普段よりわずか明るいライネの声を耳に、彼は立ち上がった。


 改めて彼女の姿を見る。彼女の存在や、話している時に受ける印象は、先日と今日とであまり変わらない気がした。


「……あんたは俺が目覚めると必ず来るよな。なぜだ?」

「治療のためです。あなたと実際に会話するのも」


 彼の問いかけに、ライネは躊躇わず答えた。それが必要だというように。


「それに、他人と話すのも気晴らしになるでしょう」

「俺ばかりが喋っている気がするが?」

「私は、立場上話せないことも多いですから」


 冗談のつもりで投げかけたが、ライネは真正面に捉えたらしく、苦笑混じりに返された。


 不必要に個人を詮索されることを嫌う気持ちは分からなくもない。これ以上は踏み込むべき領域ではないのだと彼は思った。


「その『治療』というのは、進んでいるのか?」

「ええ、折り返しには。……ですが」


 質問にはにこやかに答えたライネだったが、語尾を濁しながら目を伏せた。


 彼は思わずライネの顔を見つめる。背筋が伸びるような緊張感があった。


「これから、夢見の悪い日が続くかもしれません。けれど、あなたを思う人の存在がいたことを忘れないで」


 ライネは彼の目を見据えた。ひとつひとつが彼に届くように、彼を守るように、真摯に言葉を紡ぐ。


「……」


 彼は何も言えなかった。


 ライネの切実な想いは伝わる。けれど。これ以上妙な夢を見せられたらたまらないとも思ったし、自分を思う人の存在と言われても自分にはなにもないのだ。


 体の感覚は戻った。けれど、記憶は戻らない。自分の名前だって、思い出すことができないのに。


「私はやるべきことがありますので、これで失礼します」


 立ち尽くす彼に軽く頭を下げ、ライネは一歩退いた。


「先ほどの言葉、どうか覚えていて」


 鈴の音のような声が響く。小さな音だが、筋の通った声が。念押しするように呟くと、今度こそライネは森の奥へと立ち去った。


 その後ろ姿が消えた頃、彼は吐き捨てる。


「なんだってんだ……」


 意味が分からないのに、予言のような事を残されて。得体の知れぬ不安と、ほんのわずかな恐怖が、彼の心を浸食していく。


 体の感覚が戻るという進歩らしい進歩はあったが、まだそれだけだというのに。


 ハンモックの吊された木の枝に、一羽の小鳥が止まった。


 長い歌を囀り、羽を伸ばす。その歌に呼応して風が吹き、森の木々が揺れる。歌を風に乗せ、響かせるように。程なくして、それは別の鳥の気配を察し、飛び去った。


 羽根が一片、風に乗ってふわりと舞う。それは、ちょうど彼の足下にこぼれ落ちた。


「……羽?」


 さっきのやつだろうか。彼は思わず拾い上げる。勿忘草のような、明るく落ち着いた青色だ。根本が透けており、光にかざすと羽根自体がきらきらと輝いて見える。興味深げに角度を変えて見ると、不意に胸騒ぎを覚えた。


 これ自体が悪いものだとはとても思えない。けれど、自分はこれをよく思ってはいない。


「リィ、ヴ……」


 その名前が浮かんだ時、彼の頭は真っ白になった。

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