祈りの夢現
西薗蛍
Day1 目覚め
あたたかな風が新緑色の木々をそっと揺らす。木々の隙間から差し込む木漏れ日はただただ優しい。
濃淡の異なる緑の木々に、黄色や白、薄桃色の柔らかな花々。風に乗り、しっとりと甘い香りが漂った。
森の中、一人の男を乗せたハンモックが音もなく揺れた。
やがて。
花の香りに導かれるように、エルフの青年は目を覚ました。重い上体をゆっくりと起こし、大きなあくびの後に立ち上がる。
未だはっきりしない意識の中、男は空を仰ぐ。どこか色彩の薄い青空に、白く柔らかな雲が散在していた。その空の下、風に揺れる木々の緑は生命力に満ちている。樹木本来が何かの力を宿している――あるいは、本来の姿であるように。
知らない場所だ。彼はそう思った。
少しでも情報を得ようと思案していると、木の根の花が目に留まった。スズランに似た白い花が、幹に寄り添うように咲いている。
男は考える。周囲に生える木々に対して、この花は存在があやふやだ。周囲に溶けてしまいそうな――あるいは、瞬き一度で消えてしまいそうな。生命があるのかないのか判らない。この花は本当にここにあるのだろうか。この花は生きているのだろうか。
不信感を抱きながら一歩踏み出した男だが、二歩目が前に出ることはなく、その場で立ち止まる。
……今、自分は本当に歩いたのか?
足下を見る。足は、ある。試しに右足を前に出してみた。脳の指示通り、きちんと動く。
しかし。男は眉を寄せた。
今、自分の足でこの場に立っている。見たとおりだ。間違いはない。
間違いはないのだが、彼にはその実感がなかった。
「なんだ、これ……」
思わず自分の手のひらを見る。なにも変わりない肌の色だ。
今、自分は手を見ようとして腕を動かした。間違いない。試しに指を動かしてみる。すると、そこにまた同じ違和感を覚える。
しばし繰り返し、そうしてようやく理解した。
体の感覚が遠いのだ、と。
彼は周囲を見回した。木々の存在ははっきりとそこにあり、そのどれもが生命力に満ちている。ただ呼吸をしているだけで、体内に溜まった不純物が取り除かれるような、どこか神聖な空気さえあった。
けれど自分は、自分の存在は、場違いであるかのような。端的に言えば、生きた心地がしなかった。
「生きてない……か」
事情は飲み込めないが、自分は霊なのだろうか。死んだ衝撃で前後のことを思い出せないだけで。そう考えれば、よく分からない事象も納得できる。慣れない感覚だが、死んだ以上は受け入れるしかないだろうか。彼はため息をついた。
「目を覚ましましたか」
澄んだ声が響いた。女の声だ。鈴の音のような声だが、そこには確かな意志が宿っていた。
その声に彼は振り返る。腰まである長髪に、透き通るような白い肌。エルフである象徴の長い耳。緑色の瞳の色は、魔力の強さを表すように深く濃い。
一目見た途端、彼は驚きに目を見張る。彼女の存在はひどく神聖で、近寄りがたい印象すら覚えた。
「私の声が聞こえますか?」
あっけにとられている彼へ、彼女は問いかける。
その言葉に、彼はしかめっ面で頷いた。
「よかった。なにも聞こえないのかと思いました」
彼女はほっと安堵の色を窺わせ、微笑した。
……感情らしい感情は見える。無愛想という印象はないが、見える感情の幅は狭い。纏う雰囲気も含め、つかみ所のない奴だと彼は思った。
「あんたは?」
「ライネ。名が必要であれば、そうお呼びください」
ライネはその言葉だけを彼に伝えた。
からかうわけではない。隠すわけでも、嘘をつくわけでもない。ただそこにある花の名を口にするように、ライネの声は淡々としていた。
妙な自己紹介だな、と彼は思った。しかし、そのことについて詮索する気は起きなかった。それだけに構うほど暇でもないからだ。
「分かった。そう呼ばせてもらう」
「ええ、そうしていただければ」
軽く頷くと、相づちのようにライネは微笑した。
自分が名前を尋ねたのだ、聞かれなかったがこちらも名乗るべきだろうか。彼は腕を組む。
前方の木々から、音もなく葉が二枚散った。それを何の気なしに見ていた彼の思考が突如止まる。遅れて乾いた風が抜けた。
自分の名前が分からない。
どうしてここに来たのかも、今まで何をしていたのかも、子供の頃の記憶だって。
何もかも。
なにもない。なにも。
頭の中が、記憶が、存在しないかのように真っ白だった。
自覚した途端、薄かった体の感覚が曖昧さを増してゆく。やがて唯一の頼りだった視覚も曖昧になり、色の境目が消えていく。
なにもかもが分からないまま、彼の意識は落ちた。
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