第3話 義兄

 確かに清二は彼と会ったばかりのころは、「宗一」とか「宗ちゃん」とか呼んでいた。


 だが、それは十年も前の話である。

 清二が物心つくかつかないかのとき、兄が我が家に宗一を連れてきたことがあり、遊び相手が欲しかった清二は、宗一に構ってもらっていたらしい。「らしい」というのは、自分の記憶ではあやふやな部分があって、確かではないからだ。


 だが、断片的な記憶と、兄と姉に聞いた話を合わせると、宗一は相当清二に構っていてくれていたのはよく分かる。本当に優しい人なのだ。


 姉の婚約者になるまでは、呼び名など気にしていなかったが、さすがに十五になり分別が付いた今は、伯爵家の身分であり、姉の夫を呼び捨てでは呼べない。

 しかしだからといって、「義兄上あにうえ」というと苦い顔をされてしまうので、清二は仕方なく「宗一さま」と呼んでいるのだった。


「それは昔の話でございます。どうか『宗一さま』と呼ぶのを許していただけないのでしょうか」

「許しているから、気軽に呼んで欲しいと言っているのに。清はかたくなだな」

「そういうつもりで申しているわけではないのですが……」


 どうしたらよいのやらと清二が思っていると、宗一はくすっと笑う。


「何か変なことを申しましたか?」

「いいや。私のことで困っている清を見るのが面白いだけだよ」

「ええ?」

縁側ここで立ち話もなんだから、中に入ろう」


 そう言ってふっと笑うと、宗一は先を歩く。清二が後ろをついて行くのを分かっているのだ。


「はい」


 清二はいつも通り、幼かった日と同じように、宗一の後ろを、兄の背を追うような気持ちで付いて行った。


 柳沢家の別邸は、半年前に建てられた洋風の建築だ。しかし、ここには縁側があり、日本庭園もある。


 欧米の貿易商たちが出入りしてきているのもあり、最近は洋館も増えてきているが、意外にも全てが洋風とも限らないらしい。

 清二は風の便りで、慶應義塾けいおうごじゅくの敷地内にある三田演説館みたえんぜつかんの外観が、和風であるのに対し中が洋風であることを聞いたことがあった。


 中には、「洋風は全て洋風である必要がある」と唱えるやからもいるらしいが、清二はこの別邸に日本庭園があることにほっとしていた。


「散らかっていて、すまないね。せい、そこにお座り」


 宗一はそう言って、清二を洋間へ案内すると、いつも腰かけている立派なソファに座るよううながす。

 だが、宗一は低いテーブルやら、立派な絨毯じゅうたんやらの上に乱雑に置かれていた書籍や紙などを回収し、中々座らない。


 清二は視線を少し動かしてどうしたものかと思案すると、結局「宗一さまが座られたら、座ります」と言った。

 すると、物を粗方あらかた移動させた宗一は、こちらを見て苦笑する。


「またそんなことを言って。私がいいと言っているのに」

「そうおっしゃられましても……」


 宗一が、優しいことを清二は知っている。

 だが、彼は伯爵家の人間であり、次期当主であり、姉の夫だ。


 宗一に対する悪口などは聞いたことはないが、自分の粗相そそうのせいで、よくない噂を流されては胸が痛む。そのため、彼と接するときは、どこにいても気を張るようにしているのだった。


「……まあ、仕方あるまい。清の行動は、私のためでもあるだろうからね」


 宗一は小さくため息をついてそう言うと、先に清二の向かいにあるソファに座った。


「さ、これでいいかな?」


 宗一が足を組み、優雅な微笑を浮かべる。

 清二は彼の笑みを不思議な心地で見ながら、「……はい」とこくりとうなずき、席に着いた。


「それで、今日は何をお話になるのでしょうか?」


 清二が先に切り出すと、宗一は「実は退屈しのぎに、悩みを聞いてもらおうと思ってね」と言った。

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