黄色のふうせんと橙色のふうせん
すっ、と手の力が抜けて、黄色のふうせんと橙色のふうせんは空に向かってのぼりはじめる。
「あの子がびっくりしているよ」
「わかっていないんだ、なにも」
「なにも?」
「そう。どうしてはなれていくのかも、二度とおれらには会えないということも、わかっていない。ぜんぶ自分のせいだということもな」
「それはかなしいこと?」
「どうだろうな。おまえはどうおもう?」
「うーん、ぼくはかなしいとおもう。ぼくにはわかっているから。それが世界のことわりだということも、もう二度と会えないということも、それがあの子のしたことだということも」
黄色のふうせんと橙色のふうせんはぐんぐんのぼってゆく。人や車や建物がどんどん小さくなる。あっという間に、ものがもはやものとしては認識されないで、全体として大きなモザイクを構成するようになる。ひとりひとりの人間はもういない。たくさんの人間がつくりあげた巨大な共同体が、ひとつの生物のようにたち現れる。
「あそこの雲がみえるか?」
「もやもやしているところ?」
「そう、あれは死だ」
「すこしずつふくらんでいるよ」
「ぶくぶくと成長しているんだな」
「死んでいるのに大きくなるの?」
「死は死んではいないさ。死んでいるのは人間だ。たくさん、たくさん、たくさんの人間だ」
「なんだかむずかしいね」
「世界は逆説的なんだ」
「これもあの子のせい?」
「人間のせいだけど、あの子だけのせいじゃない」
「でも死んでいるのは人間だよ」
「だから言っただろ、世界は逆説的なんだ」
「ごめんなさい、ぼくにはよくわからないや」
黄色のふうせんと橙色のふうせんは留まることを知らない。青かった空が黒く塗りかえられ、空間が真っ二つに分断される。神秘的な境界がぐるっとまわりを一周している。具体はぎゅっと押しつぶされて、抽象がまばらに散らばって星座のように輝いている。
「ここは静かだね」
「そう、ここには憎も悪もないんだ。そのかわり、慈も愛もないんだ。すべてが失われているんだ」
「そのほうがいいのかな」
「どうだろうな。少なくともここには死はない」
「それとも、ずっと死んでいる?」
「おまえもすこしはこの世界のことがわかってきたみたいだな」
「うれしい。ぼくはすべてが失われた世界が好きだよ」
「たとえあの子がいなくても?」
「あの子がいないということも失われているのなら、あの子はどこにでもいるよ」
「ほんとうに大したものだな」
黄色のふうせんと橙色のふうせんはいつもよりずっと大きく膨らんでいる。もうなにも見えないし、なにも聞こえない。因果の絶対性が失われたとき、世界は不確実な存在でしかない。
「ぼくたちも成長しているの?」
「見方によってはな」
「じゃあぼくたちも死なの?」
「おれらは死ではないさ。でもどちらかは死ぬんだ」
「どちらか?」
「そう。おれか、おまえか。どちらかが死ぬんだ」
「ぼくは死にたくないよ」
「おれだって死にたくないさ」
「でもそうするとぼくが死んでしまうよ。それはいやだよ」
「うっとうしいな。いいか? おれははじめからおまえのことが気に入らないんだ。一度だって好いたことがない」
「どうして?」
「あの子がおまえばっかりかわいがっていたからだよ」
「そうじゃなくて。どうして最後にそんなことを言うの?」
「なあ、おまえはおれのことをどうおもう?」
「ぼくは、ぼくは……」
そして橙色のふうせんははじけた。
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