断片
白瀬天洋
赤い鳥
赤い鳥を探しにいこう。
あなたがそう言ったとき、わたしはそれをいつもの冗談だと思いました。あなたはときどきそういう冗談を言うのです。ですから、一週間後、航空券を渡されたときには、動揺にも似た胸さわぎがしたものです。
島の空気はあつく湿っていて、大きく息を吸い込むとかすかな潮のかおりが鼻をくすぐります。海のにおいがする、とあなたは言いました。うん、とわたしは言いました。飛行機に乗りこんで以来はじめての会話でした。
あなたは口数の多いひとではありません。一時間も一緒に電車に乗っても、一言も話さないこともあります。勘ちがいをしてほしくないのですが、わたしは決してそれをおもしろくないと思ったことはありません。あなたが石のように沈黙しているあいだ、わたしはよくあなたの頭の中を想像します。短く刈られた、さとうきび畑のような髪の下には、いったいどんな宇宙が広がっているのだろう。どの銀河のどの星に、わたしは住んでいるのだろう。そのようなことをあてもなく考えることが、わたしにはたまらなく好きでした。幸せでした、といってもいいのかもしれませんね。
ホテルにチェックインしたあと、一息つくひまもなく、わたしたちは街へとくり出しました。まずは地域の博物館や資料館、図書館で情報収集するのだとあなたは説明してくれました。あなたは赤い鳥に一途なようで、ある展示品を十分以上も見つめて、学芸員の方まで呼びつけてあれこれ議論をしたかと思うと、早足で一室をぐるっと回って、目当てのものがないとわかるとそのまま出口に向かいます。わたしには難しいことはよくわからないので、純粋な興味をもって館内を見学していました。島の西半分をまるごと飲みこんだという王朝時代の大津波が、やけに印象に残っています。
それにも疲れると、あなたの真剣な横顔を盗み見しました。あなたは、かっこいいというよりはかわいい顔をしています。うまく言葉にできないのがもどかしいのですが、なんというか包んであげたいようなかわいさです。
情報収集というものに二日費やすと、今度は双眼鏡を持って島の各地に出かけました。海へ行ったり森へ行ったり、朝から日暮れまで一生懸命でした。真夏の太陽の下で奔走していると、小学生の頃の夏休みを思い出して、ひとり懐かしい気持ちになります。いまでは信じられないことですが、あのときあなたはまだわたしよりも背が低かったのです。
わたしは二時間に一度、決まって日焼け止めのクリームを塗り直しました。あなたが白い肌を好むのを知っているからです。ところがあなたに勧めても、大丈夫だと言われるばかりです。あなたというのは不思議な人間ですね。
そのようにして一週間が過ぎました。あっという間でした。そして結論から言えば、わたしたちはまったくなんの成果も得られていませんでした。あなたはだんだんいらだちが目立つようになりました。隠しているつもりなのかもしれませんが、ばればれなのです。運転の仕方や息づかい、あなたの一挙手一投足までを観察しているわたしには、あなたの気持ちが手にとるようにわかります。正直にいえば、わたしにとっては赤い鳥を見つけようが見つけまいがどっちでもいいのです。でもあなたが嫌な思いをするのはいただけません。わたしまでしんどくなります。ですからあなたを応援するのです。それはほとんど祈りといってもいいのかもしれませんね。
予定していた旅程は二週間なので、残された時間は多くありません。
居酒屋は地元の方々でにぎわっていました。普段触れることのない熱気にわたしはおもしろかったのですが、あなたはあからさまに迷惑そうな顔をしていました。わたしたちは二人とも刺し身定食と生ビールを注文しました。あなたはいつものようにご飯を大盛りにはしませんでした。
刺し身は島で穫れたまぐろとたこ、それから名前のわからない白身魚の三種でした。どれも一切れが大ぶりで、とても新鮮で美味しかったです。あなたはというと、あまり箸が進んでいません。かわりに勢いよくビールを流しこんでいきます。あなたがお酒に弱いことをわたしは知っています。三杯目を注文したところで、わたしは心配に耐えきれなくなりました。あなたはいつも、ものごとをひとりで抱えこみます。それを優しさだと思っています。なんとか悩みを口に出してもらえないかと、わたしは頭をはたらかせました。
どうして赤い鳥を探すの、とわたしは聞きました。三杯目のビールが運ばれてきた直後のことです。あなたは一声うなって、そのまま底なし沼のような思索に沈みました。奥にある長いテーブル席からは、ときおり歓声と拍手が爆発音のようにどっと響きます。
わたしは赤い鳥を想像してみました。赤い、といっても、羽が赤いのか、お腹が赤いのか、りんごのような力強い赤なのか、ワインのような大人びた赤なのか、まったく見当がつきません。鳥だって、
わからない、とあなたはずいぶん時間が経ったあとに答えました。わたしは店内に無造作に貼られているポスターたちを見るともなく見ていました。青い空と青い海を背景にビールジョッキを持って変顔をしているおじさんが特に好きでした。ローカルな広告にはわけもなく心奪われてしまうことがあります。そんなわたしの思いを知るわけもなく、あなたは続けます。
理由なんてないのかもしれない。たとえば、どうして歯磨きをするのかと聞かれても、そうすることになっているからそうしているだけで、理由はうまく答えられない。赤い鳥を探すのもそれと一緒だと思う。
わたしは納得できません。
わたしは虫歯にならないために歯磨きをするよ、とわたしは言いました。
たしかに。あんまり例がよくなかったのかもしれない。逆に、どうして生きるのかと聞かれたらどうだろう。やっぱりうまく答えられないでしょう。
もっと納得がいきません。
わたしは、あなたと一緒にいるために生きているんだよ、とわたしは言いました。
それを聞いてあなたはあきれるように笑いました。それが照れ隠しであることをわたしは知っていました。あなたは照れ屋さんなのです。思えば、久しぶりにあなたの笑顔を見ました。わたしはうれしくなりました。まぐろよりもたこよりも白身魚よりも、あなたの笑顔を食べてしまいたいと思いました。それからの二人の会話は、春が来て雪が溶け、動物たちが冬眠から目覚めるように、さきほどよりもずっと気軽で盛り上がるものになりました。
あなたは三杯目のビールを半分ほど残していきました。まぐろには一切れも箸をつけていませんでした。
いつものように会計はあなたがしてくれていました。気分は少しばかり晴れたけど、問題はぜんぜん進展がない。そう思っていた矢先、お手洗いから宴会の席にもどろうとするおじいさんが話しかけてきました。
赤い鳥を探してんの、とおじいさんは言いました。独特なイントネーションでした。
はい、とわたしが答えると、そうかそうか、とおじいさんは何度か大きくうなずきました。おじいさんがうなずくと顔のしわが小刻みに揺れました。
あのね、赤い鳥を探すならね、西の森に行くといいよ、とおじいさんは言いました。
その台詞をあなたが聞き逃すはずもありません。ちょうど会計が終わったところでしょうか、赤い鳥をご存知なんですか、とあなたは肉薄した声でおじいさんに問いかけました。おじいさんはあっけにとられたのか、まあ、ご存知というか、そういう古い噂がね、あるだけなんです、でもね、これは老人の余計なお世話というか、あなたたちはまだ若いし、楽しそうじゃないの、わざわざ赤い鳥を探しにいかなくても、ねえ、まあ、行くなら、西の森じゃないかな、という、それだけね、と途切れ途切れに答えました。あなたは不満そうでしたが、おじいさんはごめんねと言ってそのまま盛況の席の中に消えていきました。
あなたが振り向いたとき、わたしは無意識のうちにうなずいていました。それもすごく力強くうなずいたのだと思います。あなたの目は本気そのものでした。勝っても負けても、おそらくこれが最後の希望になるだろうということを、無言でお互いに確認しました。わたしたちの明日の予定が定まった瞬間でした。
森に向かう道中、あなたは口を利きませんでした。試験前のような緊張感が車の中に充満していました。わたしは意味もなく外の景色とカーナビの画面を交互に見ていました。複雑な道のりではありませんでしたが、どういうわけかもう帰れないのではないかという不安が脳裏をかすめました。
森の手前に車をとめてから、わたしたちは身のまわりの持ち物をいま一度点検しました。あなたは双眼鏡のひもの長さを調節してからは首にかけるのをくり返しました。わたしは黙ってそれを見えていました。行こうか、とあなたはやがて言いました。うん、とわたしは言いました。それから、気をつけて、とつけ加えました。あなたにわたしが続く形で、二人は森に足を踏み入れました。
はじめは獣道のようになっていて、意欲旺盛に伸びている低木の枝がときおり邪魔になるものの、たいして困難な道ではありませんでした。蝉の抜け殻やきのこを探して楽しむほどの余裕もありました。ところが、先に進むにつれて、自然という大海に深く潜りこんでいくことになります。あたり一帯が日かげになっていて、日焼け止めを塗りなおす必要もありませんでした。気づけば道と林の区別はほとんどなくなっていました。でもあなたはまるで標識が見えているかのように迷いなく歩いていきます。あなたが自信満々であれば、わたしが弱気になる理由がどこにあるのでしょう。とにかくうしろをついていきます。息もあがり、汗で濡れたシャツが体にくっついて離れません。枝で腕にひっかき傷ができたり、でこぼこしたところで体勢を崩してひじを擦りむいたりしても、我慢して歩き続けます。わたしは運動神経がわるいし、体力もあまりないので、休んでいなくとも少しずつあなたとの距離が広がっていきます。
あなたはぐんぐん奥に進んでいきます。わたしはさすがにこわくなって、あなたの名前を呼びますが、聞こえていないのか、あるいは聞こえているけど返事をしないだけなのか、あなたは歩をゆるめる気配がありません。いきなり頭がひっぱられる感覚がありました。なにかにひっかかったのでしょう。何度か首を振ってみてもほどけません。そのあいだにもあなたとは引き離されていきます。しかたがないので、右手でひっかかりより手前の髪を強く握りしめて、思いっきり前方に体を動かしました。つかみ方が甘かったのでしょう、ぶちぶちという音とともに、頭皮に激痛が走りました。ついうずくまってしまいそうになりますが、これでやっと進めます。あなたを見失う前に、歯を食いしばって脚を交互に動かします。
そうやって無理やり頑張ろうとしたのが仇となりました。下を向きながら、しかも目もほとんど開いていないまま歩いていたせいで、よろけるのと同時に、ちょうど頭の高さにあった折れた枝が、刺さるような角度で勢いよく額をえぐっていきました。あまりの痛さにわたしは両手で額を押さえてしゃがみこんでしまいました。顔をつたうのが血なのか涙なのか、気にする余裕もありませんでした。
だめもとであなたの名前を大声で叫びました。ただ、そのときのわたしが絞り出せるだけの声を出したというだけで、実際にはほとんど声が出ていなかったのかもしれません。どちらにせよ、あなたが引き返してくる気配はありませんでした。あなたに置いていかれるわけにはいきません。死ぬ方がましです。左手で額を押さえたまま、焼け切れるような意識をなんとかつなぎとめて、とぼとぼ歩きはじめました。
ぜったいに会える、ぜったいに会えると、百回も千回も自分に言い聞かせました。山道の景色に変化はありません。そもそも景色が目に映っていたかどうかも怪しいところです。それでも会えることを信じて、会えることだけを求めて、わたしは進みました。傷はもう痛くはありませんでした。あなたに会うためなら、多少の痛みなどなんということはないのです。
どれだけ歩いたのかはわかりません。突然、ゲリラ豪雨が止むように、林がそこで途切れていました。あたりをゆっくり見渡すと、立派な木々に囲われて、そこは円形の空き地のようになっていました。直径は百メートルもないくらいでしょうか、中央にひときわ大きな木が立っている以外、短い雑草が生い茂るのみでした。陽の光はまぶしく、遠くで蝉の鳴き声が聞こえ、うそのような平和が広がっていました。わたしは砂漠の中でオアシスを見つけた旅人のような心持ちでした。
わたしはしばらく円の縁で立ち尽くしていました。そのときの記憶がおぼろげなので、あるいは立ったまま気絶していたのかもしれません。わたしは何も感じていませんでした。暑さも痛みも、喜びも悲しみも、まったく存在しませんでした。意識はおどろくほど明晰で、冷静でした。そよ風に吹かれた緑草たちが足元をくすぐり、わたしの魂を深淵からすくい上げました。ぼうっと見ていると、目の前に広がる草たちの生え方には、どこかあなたの髪を彷彿とさせるものがありました。それでわたしははっとして、あなたの姿を求めて四方を見回しました。もちろんそれは無駄な努力です。
中央の大木は森の中のどの木よりも高くそびえ立っています。近づいてみると、その幹をたくさんの太いツタのようなものが、まるで蜘蛛の糸にすがりつく罪人たちのように覆い尽くしているのがわかります。さらに見上げると、大木の枝からは海藻のようにねじれた細い枝が無数に垂れ下がっています。
その木の根もとに、あなたが横たわっていました。
あなたの体は、大木と融合しようとしているように見えました。大木の一部があなたの胴体から生えているようにも見えました。それは、場合によってはグロテスクな光景だったのかもしれません。ところが、これはいまでも不思議に思われてしかたないのですが、あなたの無惨な姿はわたしをほっとさせました。あなたがもう目を覚まさないことがわたしにはわかっていました。それでもわたしは悲しくなかったのです。涙を一滴も流さなかったのです。どうですか。わたしを非情に思いますか。そう思われても仕方がありませんね。でもこれだけは知っておいてほしいです。これが現実に起こったことなのです。
わたしはあなたに触れようとしました。自分の左手が震えていることが目に見えてわかりました。人差し指と中指があなたのほほに触れるか触れないかのところで、飛行機が離陸するときのような轟音が鳴りました。わたしは腰を抜かして尻もちをついてしまいました。それがエンジンの音ではなく、無数の鳥たちが羽ばたく音だとすぐにわかりました。座ったまま顔を上げると、木の葉に囲われた空を埋めんばかりの鳥たちが、悪魔から逃げるのような剛速で四方八方に散っていきました。その一羽一羽が、真赤でした。
この赤色を言葉で説明するのはとてもむずかしいのです。わたしに想像できるどんな赤色よりも鮮やかで、重厚でした。光沢のある黒い目玉以外、赤い鳥はその全身が無差別にこの赤色に包まれています。どこまでがくちばしで、どこまでが羽で、どこまでがお腹なのか、遠目から見ていても境界がわからないほどです。赤い鳥の赤色には、人の目を引き付け、人の心をわしづかみにする力があります。これは月並みな比喩ではありません。本当に胸が苦しくなるのです。自分という存在を根幹から揺るがすのです。いままで築き上げた自己が崩れ去るのです。自分という存在、自分の意識の中身が、すべてこの赤色だけでできているように思えてきます。ここにきてわたしは、あなたが普段から無口でいる理由がなんとなくわかってきました。ときとして、言葉は非常に無力になります。あなたにとっては、いつもそうだったのかもしれませんね。この赤色を伝えるには、実際に見てもらうほかないと思います。要するに、無理な相談というわけです。
それが降りはじめたとき、わたしは鳥の糞だと思いました。ところがそうではなかったのです。それは赤の雨でした。赤い鳥の体からこぼれ落ちて降りそそぐ赤の雨でした。赤の雨であり、血の雨であり、痛みの雨でした。赤の雨は、森羅万象を赤い鳥の赤色に染めていきました。草原も森も赤く染まっていきます。目の前の大木もあなたもわたしも例外ではありません。空はもとより赤い鳥で埋め尽くされています。赤の雨はどんどん勢いを増し、空気さえも赤色に映りました。赤い鳥の赤色は世界を染め上げました。新しい世界でした。
あかいとりだ、とあなたがささやくのが聞こえました。ぱっと振り返っても、誰もいません。当たり前です。だってあなたはいま、わたしの目の前に横たわっているのですから。見つけたんだね、とわたしはこらえきれず口に出しました。同時に、とめどなく涙が溢れてきました。わたしは体がはち切れるほどの勢いで泣きました。息ができないほどの勢いで泣きました。溢れる涙も真赤でした。いっそのこと、この身が裂けて赤い肉片になってしまえば、あなたとひとつになれるのではないかと思いました。でも、それは無理なお願いだったようです。体の感覚がすっと消えて、世界がぐるっと回ったかと思うと、頭に衝撃が伝わりました。わたしは倒れてしまったようです。最後の力を振り絞り、わたしはひじをついて上半身を持ち上げ、木の根元に目をやりました。そこにはもうあなたはいませんでした。
記憶はそこで途切れています。
次に目が覚めたとき、最初に見たのは知らない天井でした。どうやらわたしは病院のベッドに寝ているようです。あとから聞いた話によると、たまたま近くを通りかかった猟師が、わたしが倒れているのを見つけて病院に連絡してくれたというのです。実をいえば、あのとき誰にも見つからずに赤い世界の赤い土に還るのもわるくなかったと思うのですが、一応の行儀として例の猟師には後日、手厚く礼をいたしました。
入院しているあいだ、何度も警察に話を聞かれました。そのたびにわたしは同じ話をくり返しました。退院前にもなると警察の方々が頭を抱えるのですが、頭を抱えたいのはむしろこちらです。というのも、赤い雨もなにも、あれだけの鳥が飛んだのに、それを目にした人すら一人もいないというのです。猟師さんも同じ意見でした。一方、わたしがうそをつけないのもよくご存知のことだと思います。そういうわけで結局話はまとまらず、警察は警察のほうでうまく処理をしてくれたようです。なにしろ、あなた以外には誰も被害を受けていませんし、鳥が飛んだか飛んでいないかに固執するほど、世の中は平和ではないのです。
退院してしばらくあとに、例の森から所有者不明の双眼鏡が見つかったと警察から連絡がありました。わたしは知らないふりをしました。警察も今回の件にはとうに飽きていたのでしょう、それ以上深く詮索はされませんでした。電話を切る前に、念のため双眼鏡の色を聞いてみたところ、ぴかぴかの赤色だったそうです。
いまになってときどき、寂しいのとは別に、あなたのことを羨ましく思うことがあります。あなたは赤い鳥を見つけたのです。あの日わたしが見たのは、あなたの赤い鳥だったのですね。いつか、わたしも自分の赤い鳥を探しにいくのだろうと思っています。それは明日かもしれないし十年後かもしれない。いつになるのかはわかりません。でもそのときはぜひ、あなたにもわたしの赤い鳥を見てほしいと思います。そして、感想を聞かせてくださいね。
楽しみにしています。
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