第8話 あなたはジルヴェスターと民を守ってね
義母は、キョトンとした表情を浮かべた。
「……いいの?」
アストリットは頷く。
「薔薇とニオイスミレは薬草なんです。小さな花の咲くカモミールも植えていいかも」
「へぇ」、と義母はその薔薇の花弁を押し当てたような唇を尖らせた。
「昔の修道女は薔薇は目の病などに効くと言っていました。今は薔薇を香油に使ったりしますし、一番はお茶ですね。花弁や実からお茶にできるんです。よく眠れるそうです」
定植できていないうちは花を摘みたくないのだが、義母に薔薇の有効性を披露するために、花をいくつか摘花する。
一輪は虫などが付いていないよう、丁寧に薔薇の花を洗う。
茶をカップに注いで渡す。
「香りが豊かだと思います」
義母は頷いた。
「で、お美しいお義母様には」
アストリットはもう一輪の薔薇の花を瓶に入れた。その量に見合ったオリーブオイルを入れる。そして蓋をした。
「これを日当たりの良いところに一週間くらい置くと、薔薇の香油が出来上がっています。差し上げますので、お湯にこれと蜂蜜とアーモンドの粉末を入れてくださいね。混ざったものを顔につけてしばらく置いておきます。薔薇水がおありなら薔薇水で洗顔してください。美容効果が抜群です。あ……ちなみに、ニオイスミレも同じ要領でオイルを作りますが、疲れ目に効きます。ありがとうございますお義母様! 薬草園に植える植物をいくつか決めてくださっ」
「わかったわ。アストリット。よくわかったわ」
なぜか話を中断させられてしまった。義母が大きく何度も頷いている。
気づけば自分の頬がほてっていて、身体中が真っ赤になっていた。興奮しすぎてしまったかもしれない。
「協定を結びましょう。ええ。あなたを相手にしていると薬草で頭が爆発しそう。……そうね。ニオイスミレと薔薇とカモミールは絶対に絶やさないこと。わたくしがここにきたときはおいしいお菓子を出すこと。いい?」
「はい! 喜んで!!」
義母は「うう、負けた……」とこめかみを押さえた。アストリットは急いで「ああ、嫁入り前に作っていたセージとオレガノの湿布を……!」と義母を支える。
義母は頭を大きく横に揺さぶった。
「いらないわ。ええ。大丈夫……はぁ、あなた」
シワもシミもひとつもない手が、アストリットのあかぎれだらけの手を握る。義母の
「少しも辺境伯妃らしくない手をしてるわね」
姑にたしなめられたと思った若妻の頬に赤みがさす。群青色の目が伏せられた。
「……申し訳ございません」
「あの子があなたを妻に選んだ理由がわかるわ」
「……へ?」
「王族の血を引き、東方貴族の雄であるオストヴァルト侯の助力が得られる。でも親は困窮していてこちらには介入できやしない。それに、あなたは修道女で世俗のことは何も知らない」
「……」
「あの子も癒されたいのよ。きっと。あなたに祈ってほしいの。救ってほしいの。何も知らない人に」
そうできなくしたのはジルヴェスターではないか、とアストリットは内心唇を尖らす。
はあ、と美貌の義母はため息をついた。
「わたくし、とっても後悔しているの。母親と辺境伯妃の役割の配分を間違えたわ。わたくしは夫が暴政を重ねることを見過ごせなかった。何度も政治に介入したわ。ついに、息子に父親殺しをさせる羽目になってしまった」
重い告白に、息を飲む。
「わたくしは辺境伯妃としては間違ったことは一切していなかったと思っている。でも母親としてはどうかしら。——あの子は父親を慕っていたから、わたくしを恨んでる。わたくしも夫を殺されたから、たぶん息子を恨んでる」
肩を叩かれる。優しく、何か託されるように。
「あなたはジルヴェスターと民を守ってね。薬草の知識があるなら、薬草で」
「……え」
修道院で
ジルヴェスターは父親を殺した。反抗する重臣たちを宴に招いて殺した。たぶん異母弟のフェルディナンドなる人も生きてはいないだろう。おそらくそのほかにもえげつないことをしている。
もし、このことを領民が知っていたとして、ジルヴェスターは全き忠誠を得られるだろうか。憎まれてはいないか。
そこにアストリットが出ていき、病人やけが人を治癒すれば少しはジルヴェスターは許してもらえるのではないか。
許されることは、許した相手と許された自らの身の安全が保障されることだ。
——薬草を使えばジルヴェスター様と領民双方を守れる……?
あまりに大きい使命に、心がぶるりと震えた。
今夜の逢瀬場所は城の最上階の小部屋だった。
寝台にアストリットが仰向けに寝ていると、ジルヴェスターが隣に滑り込んでくる。
「あの母上と折り合いをつけるなんて、何をしたのアストは」
「協定を結びました。ニオイスミレと薔薇とカモミールは絶対に絶やさないこと。お義母様がここにきたときはおいしいお菓子を出すことって」
夫は「そりゃあ、世界一平和な協定だ」と吹き出した。
アストリットは夫に絡みつくように抱きついた。夫は鼻の下を伸ばし始める。
「……今夜は、ふふん……、積極的なアストを見せてくれるの?」
「えっと……眠れてますか?」
「眠れてるかって?」
「お昼はお仕事で忙しいし、夜はよくわたしと逢瀬をするし」
夫はアストリットを
夫は冷え冷えとした声でアストリットに返した。
「安らかな睡眠など、ブリューム辺境伯を継いだときから、いやそれ以前からない」
「……」
「なぜそんなことを聞く……はっ! 連日の夜の営みはアストにとってはしんどかった!? ごめん、……ついうっかり情欲が」
「?」
何を言っているんだろうと首を傾げると、夫は苦しそうに「……っ」と胸を押さえた。
「……何も知らないものを穢している罪悪感が胸に来る……」
やはり何を言っているかわからない。が、きゅう、と夫にしがみついた。
「あなたの心配を心底からしています。睡眠を取らないと翌日の身体によくないそうです。わたしのそばにいるときは、その、ぐっすり寝てください——」
「へぇ。無理やり還俗させたのに、就寝中の私を刺そうとも考えないなんて、アストは聖母か何かなのか?」
「こりゃあ、相当闇が深いですね」
「闇のない人などいないだろう。アストリット?」
君もきっとその可愛らしい胸の奥には誰にもわからぬ闇がある、と唇を舐めとるように優しくくちづけられた。
唇を離すと、アストリットは無言で夫の寝台から離れる。夫が不審げにこちらを見る中、義母の薔薇の、摘花した残りの一輪を入れた花瓶を持ってきて、枕元に置いた。香りも安眠効果があるらしい。
夫の隣に身体を滑りこませ、夫の頭を抱き寄せて撫でた。
——寝ないと思うけど……。
「デュフフ、アストの胸」と奇声を発したあと、夫は幸福そうに寝落ちた。ものすごく今日の仕事は大変だったらしい。
——あ、あれ?
意外と夫は安眠しているのかもしれない。いや、安眠というか、気絶に近い気もするが。
数日後に義母の嫁ぎ先から迎えがきて、義母は薔薇の香油片手に華麗に帰っていった。
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