ひかる神さま
二古林みごろう
第1話 ひかる神さま
こたつの上には、飲みさしの焼酎。有田焼のグラスは暗褐色の底の方から渦を巻くように色が段々淡くなり、上のほうは薄い鼠色になる。釉調の妙味。一昨年ぶらり一人旅をした際、出先で開かれていた陶器市で買った。大きな丸氷は溶け、器の底は少し汗ばんでいる。
焼酎は山ねこ。近所の酒屋に久しぶりに入荷されていた。
グラスのほかに、大海老と青菜のにんにく塩炒め。平目のカルパッチョにはピンクペッパーをかけてある。ロックフォールチーズのサラミ。ヨーグルトと味噌でさっぱりと漬け込んだ胡瓜。それに、ごろごろとした食感が残るよう、荒く潰したじゃがいもに明太子をいくつも腹ごとざっと混ぜ込んだサラダ。
栄養もバランスも考えず、好きなものを好きなだけ食べる年の瀬。どれも少しずつ食べ残している。明日は塩分の摂りすぎで浮腫むこと間違いなしだろう。構わんよ。
お腹がくちくなってくると、ず、ずずず、と少しずつ下半身がこたつに飲み込まれていく。やがて腰の上まですっぽりとこたつに喰われてしまうと、Tシャツ一枚の上半身はついに負けて寝転がる。下はショートパンツだし、靴下は履いていない。
そんな有様だから、台所に焼酎に入れる氷を取りに度に床が冷たくて、うう、と声が出る。小さい頃は「寒いのなら、裸足でいないで。ちゃんと服も着なさい」と呆れられ、注意されたが大人になっても薄着はやめられない。寝そべった頭の延長線上にあるテレビからは、紅白の後半戦が流れている。トリまで見届けられるだろうか。
少し暑くなってきて片足だけ、こたつから出す。それを身体の下に敷いてある長座布団の冷たいところに当てる。
ひんやりして気持ちいい。片足は暖かい、片足は冷たい。ヒヤとポカ。冷暖のマリアージュ。いい塩梅。
次に覚醒した時には、歌で競い合っていた男女の戦は終わり、今は混ざり合って楽しそうに蛍の光を歌っている。勝敗は見届けられなかったけれど、歌っている皆もわたしも今年もよく生きた。褒めてつかわす。
横になったまま、画面の中の去り行く今年に別れを告げていると喉の渇きを感じた。小さなかき揚げを乗せた蕎麦の汁を飲み干したからか、こたつに入り続け過ぎたか。それでも、まだ起き上がる決め手にはならない。テレビの画面は静かに切り替わると、各地の寺の除夜の鐘が鳴る様子を映している。
ごーん……。ただ鐘の音を聞くなんて、この番組くらいだろう。聞いていると襟を正されるような、厳かな気持ちにさせられる。
鐘と鐘の合間の静寂。心が落ち着く。
ごーん……。
ごぉーー……、ぉ……ん……んん……。
響く鐘の音の合間に、大勢の僧侶たちの読経。来る日も来る日も経を読み、説法をすることで喉が鍛えられて、こんな金気を帯びた声になるのだろうか。鐘と声は調和して、わたしの魂をふわりとすくいとる。
うたかたのトランス。
浮遊感の後「あいたた……」と、強張った身体をゆっくりと起こす。左腕の内側から掌に畳の痕が残っている。年内に消えるだろうか。
焼酎とは別の薄青いコップに麦茶を注ぎ、飲み干す。夏だろうが冬だろうが、うちでは年がら年中、麦茶か水だ。鼻から大きく息を吐くと、よいしょ、と立ち上がり、洗面所に行って歯を磨く。
寒さと清涼剤の刺激で目が覚めてきた。
明日の自分を楽にしてやるために、がんばって卓上の皿やグラスを片付ける。残ったものは小さな皿や器に移し替え、冷蔵庫にしまう。洗い物をすませて、もう一度こたつに戻ってくると急に疲れを感じた。目の奥が、じわっとする。思えば今日は窓から床までせっせと拭き掃除に励んだ。そこへごちそうと山ねこ。つい飲み過ぎた。
ふくらはぎが硬く重く、地球から引っ張られる。肩や腕に重力がのしかかってきて、体重が増えたように感じる。
時計を見れば、とうに0時を過ぎていた。一年の終わってはじまったことを確認すると、襖を開けて布団を敷いておいた隣の和室に入る。
布団をめくると、ほっこり温かい。電気毛布のスイッチを入れておいてよかった。電気を消して横になって目を閉じ、静かに呼吸を繰り返す。けれど、こたつで寝すぎたからか、まったく眠くならない。
寝たいのに、眠くない。寝返りを打つ。
元旦とて特に用事もないが、天気予報は晴れだったから初日の出を拝みたい。眠れなくても気にしないような心持ちでいようと、薄目で天井を眺め続けていた。
眠ったか定かではないが、もう一度目を開けると枕元に、ぽわ、と淡く光る神さまが立っていた。
性別は不明だが、白い肌は滑らかで、すらりとした細身なので若いように思える。耳を出した短髪に、黒っぽい髪。裸足の足が、わたしの顔の横に見える。
見上げると、寒そうに全身を強張らせて立って震えている。白いパジャマみたいな襟のない服を着ているようだがまあどれも暗がりのなかで薄らぼんやりとしているため、はっきりしたことも言えない。
ぽわ、とほんのり全身が光っている以外はおおむね普通の人みたいに見える。
寝る前に暖房もこたつも消したから、布団の外はもうずいぶんと寒かろう。わたしの鼻先も、吐いた息の周りの空気も、ずいぶん冷たい。
神さまは、所在なさそうに両手を握り合って立っている。小さく震えたままだ。前髪がやや長めでうつむき気味なので、目元から感情を探ることはできない。
そろそろ、と布団の端を捲って待つ。ここで、あまり神さまをじろじろ見つめてはならない。
最初は、立っている神さまをそのまま放っておいた。いつの間にかいなくなっていた。その翌年かその次だかに、寒いなら入りますか、と真っ向から神さまを見て声をかけたら、握り合った両手をきゅっとしたかと思うと、煙のようにかき消えてしまった。それ以来、極力余計なことはしないよう注意している。
しばらくすると神さまはそっとかがみ込み、わたしの布団の中にすべり込む。
神さまが近寄るにつれて、めくった布団の端をそっと放し、仰向けに天上を見上げていると、神さまはまだ小さく震えており、ぴたりと冷たい身体をくっつけてくる。
今年はとりわけ寒かったようで、しばらくはわたしの体の温かい部位を探しては、あちこちに冷えた腕や爪先、太腿をひっつけてくる。半袖でむき出しの腕や、ショートパンツの足にひやりとした身体を押し付けられるから、ここでわたしは毎年完全に覚醒する。
だが、厭わずに体温をわけてやる。といって、神さまはこちらに抱きついてきたりはしない。ぴたりと寄り添って横たわっているだけだ。
そうしているうちに、奪われた体の温みが戻って身体がまた温まってくる。神さまの震えもおさまっている。
すると。
はぁむ、と、唇の乾いたところだけで耳を噛まれる。唾液で濡れた感じはしない。
はむ、はむ、と神さまはわたしの耳たぶを食んでいる。唇だけで耳たぶをはさむ要領だ。
はむ、はむとやっているうちに満足がいくほど温まったようで、そうすると耳を食むのをやめる。
ふむ、と鼻から小さく息を吐くと、神さまの体の強ばりも消える。
ぽわ、とまた神さまは光る。
深呼吸するより、もっとずっと遅く長い間隔で光る。豆電球より幽かで、目にさわるような輝きではない。柔らかくぼんやりしている。一言もしゃべらない。声を聞けば、男女どちらかわかるのだろうか。そもそも口がきけるのかもわからない。
気づくとわたしも眠りかけていて「たぬきからああ言われたら断固こう言い返してやろう、そうしてその後はビルから降りて、傘をさして出かけちゃえばいいんだからね」ととりとめのない考えが散らばり始めていた。
仰向けのままのわたしの身体は、内臓も背骨もじんわりと重くなってきて、布団に滲みはじめている。そうやって、もう後一歩で眠りにつく前には、横にいたはずの神さまはいなくなっている。布団から出ていくところを見たことはない。
朝起きると、布団の乱れも、誰かがいた痕跡もない。わたしの髪は肩にかかるかどうかの長さだが、短い毛でも落ちてやしないか探した時もあった。
しかし、これまで何も見つかったことはない。匂いもしないから、残り香もない。
初めて来た時から、もう何年経つだろう。幽霊をみたことは無いが、そういう類とも違うように感じた。光るからには神々しいんだろうと、何となく心中で神さまと呼んでいるものの、実際のところなんだかわからない。
喉が渇いて起きた時のために、寝室の枕元に水差しとコップをお盆に乗せて置いてある。神さまが来た翌日は、その水がいつもより少し美味しいような気もするが、気のせいかもしれない。
ほかに特に思い当たるようなご利益も、バチもない。
また来年も、来るんだろうか。
遮光カーテンの隙間から、柔らかな光が差してきた。真っ暗だった部屋の中が、少しずつ見渡せるようになってくる。
昨日は気付かなかった、襖の角にある、三センチほどの小さな蜘蛛の巣に陰毛が一本絡まっている。主はそれを餌と間違えて捕らえたのか、巣を紡ぐときに材料として絡みこんだのか。
まだ日が昇りきったわけではないが、それでも神さまの光よりはだいぶ強くて目を閉じても、もう暗闇はやってこない。
予報通り晴れたが、初日の出は見逃した。
あんあんあんあん! おう?
近所のどこかで飼われている犬が、疑問符で締めくくるように吠えた。姿を見たことはないが、高い声から察するに小型犬だろう。
はあと息を吐くと、ほんのり白い。寒い。鼻の穴を寒気が突き刺してくる。
布団のなかで、少し片側にずれていた毛布を手繰り寄せると、もう一度目を閉じる。目覚ましはかけていない。陽にあてておいた、さらさらのシーツと布団が快い。大きなタオルで包んだ枕に顔を擦りつける幸せ。
もう少し、寝るとしよう。
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