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コトノハザマ

第1話 いつもの朝の始まり

 男が目を覚ましたとき、傍らの女はいまだ眠りの神の掌に包まれていた。


 おもむろに男は女に顔を寄せ、規則正しく寝息を漏らす鼻の下、やや乾いている唇に舌を這わせる。

 数度繰り返すうちに、女の意識の扉を開くことに成功したらしい。


「――ン、…フフッ、おはよ」

 そう言うと女は男に抱き着き、体毛の濃い胸に顔を埋めて大きく息を吸い込んだ。男の体臭であろうか、日なたの匂いが女の鼻腔をくすぐる。

「ンー、……はぁ、朝一番にはこれだね!バッチリ目が覚めたよ~」

 満面の笑みを浮かべる女とは対照的に、男の顔からは感情は読み取れない。


 そのうち、女の指が男のしなやかな肢体をまさぐり始めた。

 男は暫く女のなすがままに任せていたが、やがて諫めるかのように女の手を甘噛みする。

「んもぅ、つれないんだから。分かりました、ゴハンの支度しますっ」

 言葉こそ不貞腐れたものであったが、女の口調と表情には甘噛みの微かな痛みさえ男との繋がりであると喜ぶ気持ちが、表れていた。


「ヤっくんはいつものコレとお水ね。私は…、今日はトーストとコーヒーでいいや」

 手慣れた様子で、女は朝食を用意する。

 トースターから発せられる『ジ、ジジ…』というヒータの音。コーヒーメーカーから聞こえてくる『コポ、…コポ』という豆と湯が奏でる音。早朝の静かな部屋に、それだけが響く。静かでささやかながら、数分間の満たされた至福のとき。


 コーヒーの香りが部屋を満たしかけたころ、女によって開けられた窓から外気が部屋の中に入ってくる。久しく感じていなかった人工的ではない涼しさを肌に感じ、女は目を瞑りながら深呼吸した。

「スゥ―――はあ、気持ちいい風!夏も終わりだね。ヤっくんも見る?空が高いよ!」

 そばまで来ていた男へ女は声を掛けたが、男は黙って窓の外を眺めるばかり。


 ――チンッ――

 トースターが、役目を終えたことを主人に知らせた。いつの間にか、コーヒーメーカーも沈黙している。

 朝食が出来上がったことに気付いた女は、トーストを皿に移しコーヒーをマグに注いで食卓へ並べた。男の分も食卓へ用意する。

「さあ、食べよう!」

 両の手のひらを合わせ、いただきます、と女がつぶやく。

 対照的に男は何も言わず、しかし女のその所作が終わるのを待ってから今日の朝餉に口を付けた。


「ヤっくん。今日はね、ちょっと遅くなりそうなんだ。支払いと給与の締め日が近いし、月末が連休だからいつもより末締め処理が前倒しなの。ゴハンは用意しておくから、お腹すいたら食べてね」

 男は女を一瞥し、すぐに興味を朝餉に移して黙々と食事を続けた。

「んもう、そっけないんだから。…でもそういうところもカッコいいんだけど!」

 両掌を頬に添えて一人盛り上がっている女を放置して、男は食事を続けた。そんな男を、女は慈愛顔で見つめるばかり。


「ご馳走様でした、さあ戦闘準備戦闘準備!」

 食事を終えた女は、慌ただしく着替えとメイクを済ませる。同年代の他の女性よりもかなりの短時間で為されたそれは、取り立てて上手とは言えないにせよ女の容姿の美点をより際立たせるものではあった。


「それでは麻績村こぶし三等兵、今日も糧食のため出撃いたします!」

 外観を整え戦闘服スーツを身に纏った女は、玄関で男に敬礼を捧げながらおどけた調子で男に出かける前の挨拶をする。


 それを聞いた男は、今日初めて女に声を掛けたのだった。

「ニャー」


 女。性は麻績村、名はこぶし。ヒト科ヒト属ヒト、ホモ・サピエンスの女。

 男。性は麻績村、名はヤマト。ネコ科ネコ属イエネコのオス


 これがこのパートナーの、ここ数か月変わらぬ毎朝の光景であった。

 

 

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