第3話 金糸の髪の少女

「ずっと…… ずっと待ってたよ…… 」


 舌の根が凍りついて声が出ない。

 なんだ?何が起こっているんだ? なんで俺は見ず知らずの女の子に抱かれているんだ? なんで彼女は泣いているんだ?

 唇が震え、言葉を紡ごうとしても上手く口が動かない。


「ごめんね…… 今度は…… ちゃんとやるから…… 」


 首筋に滲んだ冷や汗が軍服の中で背筋を伝い、腰の方へ流れ落ちていく。 そんな感覚を機敏に感じ取れるほど、身体は恐怖と困惑で熱を失っていた。


「…… は?」


 麻痺したように動かない口からなんとか搾り出した一言。

 その声を聞いた少女は、ふと我に帰ったように腕を解いてニトから身体を離した。端正な顔がみるみる青褪めていく。


「ご、ごめんなさい!いきなり抱き着いたりなんかして…… !えっと、その…… あっ、怪我はないですか!?」


 その問いにニトはコクコクと頷くことしかできなかった。


「よかった…… 怪我してたら大変ですから…… 」


 少女は顔を綻ばせ、ホッと息を吐いた。


「………… 」

「………… 」


 だがそれも束の間。両者の間に重苦しい沈黙が訪れた。

 ようやく思考力を取り戻したニトは細い息を吐きながら、気まずそうに俯いて視線を泳がせる少女を見た。

  見れば見るほど美しい女性だった。

 黄金に煌めく髪を背中まで伸ばし、くりんとした大きな緑眼は地面を向いている。白い肌には金糸のような髪の毛が貼り付いており、端正な顔立ちは憂いを帯びていた。

 ニトが身体へ視線を滑らせると、袖から覗く両腕に目を奪われた。

 細い。まるで武器なんて人生で一度も持ったことのない村娘のような腕だ。


 こんな可憐な白い腕の、一体どこにパイルハンマーを持ち上げるほどの力が隠れているのだろう?


 そんなことを考えていると、突然少女は何かを思いついたかのようにバッと顔を上げた。


「あのっ」

「…… な、なんですか?」

「えっと…… あなたの名前を教えてくれませんか?私はアユリアといいます!」


突然何を言い出すかと思えば、そんなことか。

 ニトは拍子抜けしたように思えた。 突然見ず知らずの輩に抱きついてくるような女が、まともに自己紹介をするとは考えていなかったからだ。


「俺はニト。要塞都市ナゼルの兵卒です」

「…… へへ」


 ニトの名前を聞いた少女、アユリアは突然笑みを零した。


「…… 俺の名前がそんなに変ですか?」

「いや、そういうのではなくて…… なんだか、素敵だなって」

「…… 俺が?」


 アユリアは満面の笑みで頷いた。ニトはそれを鼻で笑う。


「…… 趣味悪いですね」

「そんなことありません!ニトくんはとっても素敵な人です!」

「へ、へぇ…… そうですか…… 」


  浮わついた言葉を真正面から何の臆面もなく言われ、ニトは思わず顔を赤らめた。 生まれてこのかたロクな恋愛経験がなく、女性への免疫が弱いニトにとってアユリアの人懐っこい態度は劇薬に等しいものだった。

 気恥ずかしがるニトを、アユリアはニコニコと笑って穏やかな目で見つめていたが── 。


「あ、そうだった」


  突然、何かを思い出したかのように立ち上がった。

  彼女は上着から円筒状の手榴弾を取り出すと、振り向きざまにピンを抜いた。 そしてそれを、なんの躊躇もなく超越者へ投げつけた。

 手榴弾は綺麗な放物線を描き、地面に触れた瞬間、


『pugaaa……… ッ!!』


 すぐ後ろまで忍び寄っていた触腕を巻き込んで爆発した。


「なっ…… !」


 ビチビチと血を撒き散らしながら、焦げ付いた肉塊が地面に飛び散る。

 まさか、死んだと見せかけて、背後から騙し討ちするつもりだったのだろうか?

 卓越した生命力と伶猾な知能に背筋が凍りつく。

  だが、そんな起死回生の目論見も無駄に終わったらしい。 胸を撫で下ろすことも忘れ、ただただニトは呆気に取られていた。


「そうだった」


  一切容赦のない冷徹な声が響く。


「こいつは一発じゃ死ななかったんだ」


 アユリアがゆっくりとこちらへ振り向いた時、彼女は能面のような無表情を浮かべていた。 しかしニトの姿を見た瞬間、彼女は一転して太陽のような満面の笑みを浮かべた。


「はい、これで討伐完了です!」

「え…… あ、あぁ…… 」

「ああいう大きな超越者はしぶといですから、これくらい念入りにしておかないと死なないんですよね〜」

「そう、ですね…… 」

「そういえば、さっき至近距離で爆破しましたけど大丈夫でしたか?あ、足から血が。逃げてる時に転んだんですか?今ちょうどガーゼを持っ てるので貼っておきますね」

「…… え、えぇ…… ?」


  ズボンの破れ目から覗く足の擦り傷を見つけると、アユリアは有無も言わさずズボンの裾を捲った。


「あ、その前に消毒しますよ」


 腰に提げたポーチから褐色のビンと刷毛を取り出し、手慣れた動作でビンの液体を擦り傷に塗り始めた。ツンと染みるような感覚に一瞬身体が跳ねる。


——な、なんだコイツ…… ?


 アユリアの怒涛の勢いにニトは気圧されていた。

 パイルハンマーを難なく振り回す膂力と瞬発力から、彼女が凄まじい実力を有していることは判る。きっと今まで数多の超越者を屠ってきたのだろう。 だが、なぜ見ず知らずの自分にハグなんかを?

  記憶にある限り、この少女——アユリアとの面識は一切ない。一方的に知られるほど名前が売れたこともない。 ニトは見ず知らずの彼女に、涙を流しながら「ずっと会いたかった」と言われるようなことは何もしていないのだ。

  状況が把握できず困惑しつつも、とにかく助けてくれたお礼を最優先に言うべきだと思い立った。


「…… なぁ、アユリアさん」

「アユリアでいいですよ。それと敬語も使わないでくださいね」

「そ、そうか。…… なぁ、アユリア。助けてくれて本当にありがとう。お前があの超越者を倒してくれなかったら、今頃俺は死んでいた」

「いいんですよ!偶然通りがかっただけですし、へへへ…… !」

 

  彼女は嬉しそうに蕩けたような笑みを浮かべる。

  お礼を言われるだけでそんなに嬉しいのか? ますます彼女のことが分からなくなる。

 そんなことを考えている間に、アユリアは手早くガーゼを貼り終えた。


「はい、これで大丈夫。立てますか?」

「ああ。さっきは腰が抜けてたけど、もう大丈夫」


 ニトは緩慢な動作で立ち上がると、大きく伸びをした。

 再び地面に足を着けて立てるとは夢にも思っていなかったからか、靴裏越しに感じる確かな感触に涙が溢れそうだった。


「…… うん、生きてる」

「ええ。ちゃんと生きてるんです。ニトくんも、私も、みんな」


 噛み締めるように口にした言葉に、アユリアは力を込めて答えた。

 ふと空を仰ぐと、分厚い雲の伱間から差し込んだ陽光が地上へ降り注いでいた。黄金に輝く光の透き通るような眩しさが目に染みた。

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