『美味しんぼ 超次元ブックガイド』刊行によせて

二之腕 佐和郎

刊行によせて

 私にとって、虎縁とらべりくんを思い浮かべることは美味しんぼを思い浮かべることと同じで、すなわち彼は生粋の美味しんぼマニアだった。度が過ぎていた。

 この世界で彼と並ぶ美味しんぼマニアはいなかった。なにしろこの世界で出版されている美味しんぼの単行本はもちろん、そうではない美味しんぼの単行本も揃えていた。

 アパートの部屋に本棚が四つも五つもあって、すべての本棚に美味しんぼの金の背表紙が並んでいた。そして、家具は必要最低限未満だった。

「同じ巻を何冊も買っているのか?」

 私が聞くと、虎縁くんは「や、違う違う」とニヤニヤ笑って、本棚から美味しんぼの1巻を取って渡した。

 本来のものと比べると表紙のレイアウトが微妙に違う。私の知っている山岡士郎は紫色の肌をしていないし、栗田さんの目が多すぎる。

「なんだいこれは」

佐和郎さわろうくんが存在する世界とは異なる世界の美味しんぼだよ」

「なんだって?」

「ぼく、親が転勤族で子供の頃からいろんな並行世界に引っ越してたんだ」

 パラパラとページをめくる。ナスっぽい山岡が板前トカゲ男に喧嘩を吹っかけていた。富井副部長はでかすぎてコマに収まらない。

「一応、料理のことで争うんだね」

「そうじゃない美味しんぼもあるよ」

 彼は棚から美味しんぼの一巻を取って渡した。

 その美味しんぼは医療マンガだった。

『この患者は死に損ないだ、助けられないよ』

 山岡が手術を拒否していた。

「それじゃ、虎縁くんが次元観測員の仕事をしているって、ほんとだったのか」

「ほんとだよ」

「この世界にはいつ来たの」

「美味しんぼの52巻が出た頃」

 本棚から美味しんぼの52巻を取って、裏表紙をはぐってみた。1995年にこちらへ来たらしい。

 虎縁くんはすべて美味しんぼを基準にしているのか?

 彼の仕事について改めて聞くと、虎縁くんはいままでにすくなくとも26の並行宇宙を移動して、それぞれの世界で次元を観測してきたそうだ。その後も質問を重ねたが、美味しんぼ以外の話題はちっとも要領を得ない。もっと聞きたいことがあったのに、よりによって美味しんぼとは。

「キミ、いままでどうやって生きてきたんだ」

「次元を観測して……」

「わかったわかった」

 彼はバスの乗り方を知らないし、おしゃれな美容室と喫茶店の区別もできていないが、それは次元を観測するのには必要のないことなのだ。

「──たとえばさァ、うんちを食べる世界の美味しんぼとかあるの?」

「あるよ」

「あるんだ」

 食糞がメジャーな世界の美味しんぼは端的に言って汚かった。究極のバナナうんちバーサス至高の下痢便とかやってる。

「じゃあ、人間が……食べ物を食べる必要のなくなった世界にも美味しんぼが?」

「あるよ」

「あるんだ」

 その美味しんぼでは登場人物の全員が葉緑素を持っており、食事の必要はないが、光合成に必要な太陽光をめぐって喧嘩していた。

「こいつら、喧嘩ばっかりしてるな」

「闘争は美味しんぼの本質だからね」

 虎縁くんの美味しんぼ観は歪んでいる。

 しかし、それもむべなるかな。私は彼のアパートへ入り浸って様々な次元の美味しんぼを読みふけったが、並行世界の各次元、山岡が誰かと喧嘩することだけは全美味しんぼに共通していた。

 私のお気に入りは、薬物が完全合法の世界の美味しんぼだ。もちろん全員ヤク中なので、登場人物の大半が酔っ払った富井副部長のテンションを常に維持している。気合いの入ったヘロイン常習者である海原雄山だけは、例外的にものすごくおとなしい。

 混ぜ物だらけのコカインを売るバイヤーと喧嘩する山岡に、雄山が割って入って、多幸感の波ラッシュでヨダレを垂れ流しながら「ヘロインは麻薬の王様なのらよ士郎ぉ」とか言ってる。

 数あるコレクションの中で、もっとも平和な美味しんぼだ。



 ある日、私は駅前で虎縁くんによく似た男を見かけた。

 私が何の気なしにそれを話すと、虎縁くんは鬼気迫る表情で詰め寄ってきた。

「その、佐和郎くんが見た、ぼくにそっくりの男っての、どこにいた──!」

「いやだから、駅を歩いてて、キミかと思って声かけたら違ったんで……」

「──そうか、駅か」

 ホッと胸をなでおろした、といえばいいのか、がっくりと肩を落とした、といえばいいのか。私の見た虎縁くんのそっくりさんに、ひどく怯えている様子だった。

「あのねぇ、佐和郎くん。本来の世界から別の並行世界へ出張するときに、その世界の自分と出会っちゃいけないんだ」

「何故──」

「対消滅するから」虎縁くんは額の汗を拭った。「やばいよ。こんなに近くにぼくが居るなんて」

 彼はブツブツと独り言をつぶやきながら、美味しんぼの背表紙を指でなぞった。本棚の端まで滑らせると、ふっと憑き物が落ちたような表情になった。

「あ、そうだ。新刊が出るンだ」

「美味しんぼのかい」

 言うまでもないことだった。

 虎縁くんは間もなくアパートを出た。対消滅の恐怖より、美味しんぼの新刊が勝ったのだった。

 私は留守を預かったわけでもないのに、美味しんぼを読みながら彼の帰りを待った。けれど、案の定、虎縁くんは帰ってこなかった。

 この世界の美味しんぼを1巻から順繰り読み終えて、虎縁くんが新刊を手に帰ってくるのを待っていたのだが。

 私はアパートを出ると、駅の周りをぐるぐる歩き回ってみた。よもや虎縁くんの姿を見つけることができないかと目を凝らしたが、本人も、そっくりさんも、ついに現れなかった。

 虎縁くんとはそれきり会っていない。

 日を改めてアパートを訪ねると、彼の部屋は火事で丸焼けになっていた。もちろん、美味しんぼもすべて燃えてしまっていた。

 次元観測員の不始末は、このように処理されるということだろうか。

 虎縁くんは、私以外に友人は居たのだろうか。彼のことを覚えている人間は、この世界に誰か居るのだろうか。

 虎縁くんがこの世界に生きていたことを示す物が一切失われてしまったことに、私は言いようのない悲しみを覚えた。

 私が本書を書くにあたって、以上の経緯があった。

 せめて、私が記憶している美味しんぼコレクションをみなさんに紹介することで、彼の存在がたしかにこの世界にあったことを、示したかったのである。

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