キミの小さなその手をヒろげ、ボクのチイさなセカイを守って
@67k
母なる神の爾座 その1
誰もいない教室。
夏休みの最中。
窓も開けていないこの箱の暑さは首を絞めつけるようだった。
椅子も机も触るのをためらう程で。窓の奥を見てしまえば、そのまぶしさに瞳を灼いていく。ゆらゆらと陽炎が表れていた。
わたしは瞬きを繰り返し、それから椅子に腰かけた。
黒板はすっかり拭かれていて、日頃の垢がすっかり落ちている。何度も使われた細かい傷が煌めいて光って、まるで宇宙に輝く微かな星明かりのようだ。
わたしは視界一杯になる黒の世界を見つめ、吸い込まれるような気持ちで、椅子の背もたれに体を預けていた。
丁度人の体温、36°の熱に包まれて、暗黒に飲み込まれていく。無重力の中で押しつぶされる。
なぜだろう。体が動かない。息もどんどん辛くなっていく。
なんでこんなに生きたいんだろう。
なんでこんなに生きるのが辛いんだろう。
なんで、こんなに生、れ……。
※
もがいて手を伸ばすと、そこに冷たい手が取った。
氷のようなすべすべとして。でも、柔らかい。
必死に引き寄せて抱き着くと、柔らかい体に包まれる。こんなにも柔らかいのに、とても冷たくて、人を寄せ付けないほどに痛い。
「助けて。」
わたしは、そう叫んだ。
暗黒の中で、誰かがほほ笑んだ。金色の髪に青色の瞳。わたしよりも幼い顔立ち。
「大丈夫、だ、よ」
彼女はそう言った。
なぜか風邪の時にママがそう言ったのを不意に思い出した。体が軽くなったような気がした。
でも、その心持ちは包まれた体が泡となって消えるのと同時に消えた。
預けるものをすべて失って、わたしは転がり落ちたのだった。
※ ※ ※
『母なる神の爾座 その1』
ぎゅっとつむっていた瞳を少しずつ開くと、柔らかい光が降り注いでいるのがわかる。それから、強張った体が解かれていくと、一つ大きなため息が漏れた。
わたしはどうやら仰向けになっているようだった。
天井には丸い明り取りが見える。
ガラスは血の赤色をしていた。
その丸いガラスを抱きかかえるように、天井には聖母が描かれていた。
とても大事そうに抱きかかえている。
その聖母の周りを色々な獣が風のように舞っていた。
聖母の様子を見る動物たち。
森を疾駆する狼の群れ。
カラスが空を巡っている。他に人の姿は描かれていなかった。
夜の星を表しているかのように、輝石の粒がちりばめられた細い鎖がそこかしこから伸び、どこからか吹く風に微か揺れている。
わたしはゆっくりと体を起こした。
明かりがほとんどないにもかかわらず光に包まれているように感じた。なぜだろうと見渡すと、壁一面にクリスタル・クォーツの柱が敷き詰められていることに気づく。
まるで洞窟の中にでもいるようだった。
反射を繰り返す壁は、光の揺らめきに反応して光の柱を幾層にも増やして部屋を満たしていた。
もっとよく見たくなり、さらに体を起こすと体がふわふわとした感覚に襲われる。
自分の体ではないような気がして手のひらを見やると、そこにはしわのない、丸い関節でつなぎ合わされた無機質が蠢いていた。
幾ら手を動かしても、自分のものではないような気がしてくる。陶器でもビニルでも、布地でもない。でもそこに体のぬくもりを感じることはなかった。あるのはとても安心する柔らかさと、しんと冷えた氷の結晶。懐かしい気がする。
なぜだろう。最初からそうだったのだろうか。よくわからなかった。
どうやらわたしは祭壇の上に横たわっていたようだった。
純白の絹が敷かれた祭壇はとても大きく、高貴な人のベッドのようにも思えたが、このホールの中でこの祭壇は隠されているのではなく、捧げられるように二段、三段と高い位置に据えられていた。
わたしは起き上がり、一段、また一段と祭壇から降りて行った。素足に石造りの床が冷たかった。
そして振り返り、クリスタルを見上げる。
透き通った石の奥に目を凝らすと、そこには誰かが眠っているように思えた。気のせいだろうか。
自分の姿が反射しているだけだろうか。
それは一瞬にして記憶の奥に消えていった。
怖くなり、再び踵を返す。目の前の扉を開ければ、焦りとも不安ともしれない気持ちから逃れられるかもしれない。そう思い、勢いよく、その両開きを開け放った。
※
目の前に、モノクロームの情景が広がっていた。
すべてのもの色は褪せていて、まるで時が止まり、意味を失っているようだった。
わたしの行く先には母屋と思われる洋館へと延びる回廊が伸びている。
回廊を包む欄干と天蓋は影によって黒々としている。
まるで黒インクをぶちまけて何度も塗りたくったように濃い。日の当たった部分に垂れていきそうなほどだ。
左手にはイギリス式庭園と、枯れた噴水が佇んでいる。
乾いたレンガ積みの縁取りは今までみたものと比べて質素なものだ。
側に設けられた東屋とベンチから家族の温もりが見て取れる。
今にも庭木の間から子供が飛び出してきてそうに思えて、足が自然と止まった。
それを動かしたのは、びゅーと吹き込んだ冷たい風だった。
人形のわたしも風邪をひくか分からないが、両腕を抱きしめつつわたしは、母屋の扉を開いた。
洋館はそこかしこに生活の痕跡があるにも拘らず、温かみを失って色あせていた。
誰かがつい先日まで使っていたような気もする。でもそれは意図的にそこに置かれたまま意味を失っているのだ。
それはドールハウスのようにも思えた。
わたしは食堂、書斎を回り、幾つかの鍵のかかった扉を見つける。主人の寝室か子供部屋なのかもしれない。
その中で2階の客間の扉はわたしを迎え入れてくれるようだった。
まず目についたのが、パチッパチ……と音を立てる暖炉の炎だった。色と温かさを失ったそれは、まるでアトラクションの演出みたいだ。
「人、アルか?」
突然のこえにわたしはあたりを見渡した。
他にあるのはシングルベッドと真ん中に置かれた揺り椅子だけ。人の姿はどこにもない。
「ここアル。見るだけぽかぽかになりそうな、暖炉の火がいるアル。」
「暖、ろ?」
「この神殿に人が来るのは初めてのことアル。命はここには存在できないアルよ」
「あなたは、誰?」
「見ての通り、暖炉アル。ユーのハートに反応して、火が灯たアルよ」
「わた、し。わたしは誰なのかしら?」
「可哀そうに。ユーはハート奪われたアル。生きる力、ホープうしなわれたね」
「わたし、元に。でも、なにもないの」
悲しいのに涙も流れない。人形の体には血も水も通っていないのだ。
「ドンウォーリー。この神殿は生命の坩堝。その象形と残滓をたどれば、あるべき場所に帰れるかもしれないアル。ミーの火、少しあげるね。それを手に坩堝をかき分けるよろし。世界を旅して、ユーの世界、見つけるね」
そういって暖炉から灯のような火が浮かんで留まった。
「これはアーク、ね。命のある形。ユーの旅導くよ」
わたしは、小さく頷いて火を受け取った。
火の奥で、一つの家族が見えた。
食卓を囲んで、笑っている。お父さん、お母さん、そして小さな女の子二人。
好物のから揚げを頬張ると、お母さんが「おいしい?」と聞いた。
※
「さあ、行くね」
暖炉が促した。
「ミーのアーク、熱さもないパワーないアルね。だから、旅先でアーク見つけるアル。アークが道開くよ」
その言葉と同時に、隣の部屋の鍵がカチっと開く音が響いた。暖炉は温かい顔を浮かべ……ているかのようだった。
いつの間にかアークは赤い結晶の首飾りとなって私に巻き付いていた。それを握りしめ、会釈してからわたしは部屋を出た。
※
扉を開くと、まず目に飛び込んだのは大きな帆船の模型だった。
マストや甲板だけでなく、船底の作りまで精巧に作られていて、どうなっているんだろうと、興味をそそられてくる。また、背後に掲げられた地図によって今にも冒険に旅立つような気がしてきた。
それだけでなく、部屋にはたくさんの冒険の道具が置かれていた。
登山用のピッケルやロープ。コンパスがショーケースに入っている。
壁には、この部屋の主だろうか。男性が遠くを眺めている写真が飾られている。
一つだけではなく、いろいろな場所を巡ったに違いない。自然と共に映るその表情はとても生き生きとしていた。
でも、なぜか寂しい気持ちになるのはなぜだろう。
この気持ちの答えがわたしを見つける手掛かりになるのだろうか?
わたしは手掛かりを探そうと、船の模型へと近づいた。
船室の窓から中が覗ける。どうなっているのだろうと、顔を一層近づけたとき、急に耳鳴りに満たされた。部屋が永遠に引き延ばされていく。すべてが遠く、遠くに逃げていくようだった。
激しい眩暈が起こり、とても目を開けていられない。
そして、最後に意識を手放した。
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