りょうしんと煙草

笠井 野里

かげろう

 僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻くしまきにし、いつも芝の実家にたった一人坐りながら、長煙管ながきせるですぱすぱ煙草を吸っている。――――芥川龍之介『点鬼簿』より



 私は煙草が嫌いだ。しかし今、私は煙草を吸っている。なんでと言われたらおいしいからというしかない。しかし私は煙草が嫌いだ。酔った頭でこんなことを考えても意味はない。ただ酔った頭で公園の夜風にあたりながら一人で吸う煙草がうまいのだ。そう言って逃げるしかない。

 ついさっき、深夜十二時に母親から電話がかかって来たことを思い出す。彼女は私を煙草嫌いにした理由の人間である。彼女は煙草の象徴だった。


――――――


 スマートフォンには電話のポップアップ、私は着信音と通知音が嫌いなので切っている。私は読んでいた電子書籍版の『点鬼簿』の文字が急に途切れたことと、いつものことながら非常識な時間であることに眉をひそめて、電話を取った。

「もしもし、どうしたの、こんな時間に」

 怒気を見せないように私はつとめた。おかげで酔っ払いの部分が強調されたような呂律ろれつだった。

「私、施設に入れられるかもって」

「施設?」


 おそらくは障害者施設だろう。それか精神病院か。しかし本題が急で、私の頭は一旦整理を必要としていた。

「そう。お母さんがもう年でしょ、だから誰も見てくれる人がいないもんで」

 このお母さんというのは、私にとっては母方の祖母である。骸骨のように細い体だが、しっかりしていてパートもこなすし、私の母の面倒さえ見る。今は何歳なのか知らないが、確かに結構な歳であるのは確かだった。

「そうね」


「だからもう、施設に入れるしかないっていうんだけど、カツがね、施設に入れるなんて勿体ないって」

 母の声色は明らかに同情を誘うようなものだったが、私は微苦笑びくしょうしかできない。カツ伯父さんの気持ちはわかる。あの母にかける金も労力も、あの家族に残っているようには思えなかった。


「ハハ、ひどいなそりゃ」

 私の心持ちから、自分の母関連の話題には否応いやおうなしに冷笑か嘲笑かわからない笑いが出るようになっている。ともかくばかばかしいという気がしてくるのだ。

「だからどうしようと思って」

 私はさっきの笑いじみた感情をいくぶんかかき消されて、真白な照明を見る。彼女が私たちを頼ろうとするのが感じ取れた。しかしどうするも何もない。十六年近く別居している母の面倒を見る義理は、私や私の妹に果たしてあるのだろうか? 彼女の手料理を食べた記憶さえ、私にはない気がする。


「困ったねえ」

 他人事の声で話す。他人事でない現実が私にはかなり腹立たしかった。

「私、死のうかと思って」

 天井を見上げていたら聞こえてきたその一言で、私の脳裏には母が自殺未遂をしたあの日の給食のカレーがよぎった。あの日にキチンと死ねたなら、こんなことにはなっていないとも思った。

 私自身たまに考える自殺という選択肢は、彼女が自殺に失敗したせいでできないでいる。何かの間違いで「」ら、私自身がこれになってしまうのだから。


「まあねえ」

 私は言葉にならない言葉を吐いていた。自殺、確かにこれは円満解決えんまんかいけつではないだろうか。もはや誰もが母に疲れている。もしかしたら、疲れていないのは私だけなのかもしれない。

「死んだら悲しんでくれる?」

 そのくだらない問いには答えなかった。私は父方の祖母、私の育ての親とでも言うべき人が死んだ日に高校に行って、葬式あるから明日休みだという軽口を叩いたほどだ。母が死んだら泣くか? 泣いたら私は地獄に落ちるだろう。という感情と同時に、母が死んだら葬式はどの様式でやるのかという現実的な疑問を持った。「南無妙法蓮華経」を連呼するだけの新興宗教の様式であったら、私は閉口するだろうなとも思う。価値も創造も人間の革命も、この喜劇の中には存在しない。


「まあ、施設に入るしかないんじゃないかな。そりゃばあちゃんだってもうねえ、年なんだから、仕方がないよ、なんとかカツ伯父さんを説得しないと」

 死んだほうがいいとハッキリ言わずに、私は常識を隠れみのにした。


「そうねえ、ありがとう、こんな時間にかけてごめんね、おやすみ」

 そうして逃げるように母は電話を切った。残った私一人は、言いようもないだるさが私の身体を、母の遺伝子が半分はあるような私の身体を支配した。ため息をついてもその重苦しいだるさは逃げてゆくことはなかった。ただ、ため息をつくと寿命が縮むという祖母の語った迷信を思い出す。これを子どもの頃に聞いたときはため息をつかないようにと思ったものだが、今では喜んでため息をつきますというような考えになっている。


 父と母は、物心ついた頃には別居していた。同居時代の覚えている風景は、夜中に母の車に乗って母の実家に向かったときのあの橙色とうしょくの電灯が続く道。あとは父方の祖母とものを投げ合い喧嘩をする母。この景色を覚えていた私は、祖母が死んだとき母に、家に戻って来ないかと提案した。結局それは受け入れられることもなく、私は完全に母の愛を感じられなくなってしまったのだが。


 私は母がくも膜下出血まっかしゅっけつになったときのことや、くしゃくしゃの紙幣を私に渡して親の愛を与えた気になっていたときのことなどを噴き出すように思い出した。私の遺伝子と、私の生まれ環境、家庭に嫌気がさしてくるので、さっきまで読んでいた『点鬼簿』にもう一度取り掛かった。

 内容が内容なので、読み終えた私は未だに陰鬱いんうつな気持ちのままだった。

「かげろふや塚より外に住むばかり」

 果たして母にとってそうかはわからないが、私にはこの気持ちの一端いったんがわからないでもなかった。私は煙草を手にとって、夜の公園に向かうため外へ出た。


――――――

 そうして今私は、ベンチに座って煙草を吸いながら夜の空を眺めている。メンソール味の煙草からは母の匂いがした。そのときふと思い出したのは、まだよだれもたらさずに煙草を吸っている時代の母と幼い頃の自分が、空を眺めているワンシーンだった。私は光る星を眺めて、UFOだと言っている。母は笑ってそうだねと言う。ふとそんな景色を思い出した。

 私は煙草の火煙を眺めながら、今年の夏休みは実家に帰ると決めた。そのあとのため息とともに吐いた煙草の煙は、どこまでも広がって行った。


――――――


「笠井くん、実家帰るんだって?」

「はい、そうです、二週間ぐらいは静岡にいるかもしれません」

 バックヤードで私はパートのおばさんと会話をしていた。

「帰ってあげなよ、あなたもお母さんの手料理食べたいでしょうよ」

「そうですね」


 私は靴で踏みつけられたような心の痛みを隠して、微笑のまま彼女の台詞を肯定していた。バックヤードは節電のためか、あかりの一つもなかった。小さい窓から少し漏れ出る光は、暗闇であったなら見えない埃ばかりを映し出している。


――――――


――私は小説に蛇足を多少付け加えて、キーボードを叩き終えた。

 残念ながら、私は蛇足を加えないと満足いかないぐらいには、コンプレックスが深いらしい。この哀れさを自嘲じちょうする私も、また哀れである。


「かげろふや塚より外に住むばかり」

 蜻蛉かげろうの生の短さを感じながらも、陽炎かげろうがよく見える暑い外に立つあの瞬間の、永遠のような地獄の感覚も、私はこの句に発見しないわけにはいかなかった。

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りょうしんと煙草 笠井 野里 @good-kura

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