第十一話 開かれる記憶の扉 菜の花畑

 連休最終日。 

 朝食後、率先して家事を手早く終わらせたタツは、妻と娘そして居候を愛車に押し込んだ。


 連休前日に揉め事を起こした汐緒うしおとネオンは、今日になっても仲が良いとは言えない状態のままだ。

 助手席で七海ななみは溜息をついている。


  

 あの日、七海はネオンと汐緒それぞれの手を掴み、仲直りの握手をさせた。

 

「あー、その……勉強の邪魔して悪かった」

「私も……尻尾、引っ張ってごめんなさい」

 

 このときは和解したように見えたのだが、汐緒は『ネオンとはできれば関わりたくないです』というオーラを惜しみなく放っており、臆することなくガンガン話しかけてくるネオンのことを面倒そうにあしらっている。

  

 タツは「多感なお年頃なんだ。放っておけばいい」と言っているが、七海としては、昔あれだけ仲の良かったふたりが不仲なことが──いや、汐緒がネオンに対して警戒していることが、残念でならないのだ。


  

 連休中、ネオンには七海による試験と特別授業を受けさせていたが、汐緒はその間、読書したり絵を描いたりパンを焼いていた。無心でパン生地を捏ねたり、発酵して膨らんだ生地の感触に癒されることで、気持ちを落ち着けようとしていたのだ。

 

 

 六条松ろくじょうまつ家の自宅がある山の中腹から麓へ降り、コンビニに寄るため店舗が並ぶ通りへ進むと、道路脇のハナミズキの総苞片が薄桃色の花びらのように開いていた。他の街路樹もいきいきと輝き、初夏の気配を感じさせている。

 若槻わかつき大通りへ入り、市街地から抜けてしばらく経った頃、後部座席が騒がしくなった。

 

「なあなあ汐緒、あれなに? あの白い花!」

「……りんごの花」

 汐緒はネオンの方をチラリと見た。

 ネオンは窓に顔を近づけ、車道脇に広がるりんご畑を見つめている。

「ふうん。あれがりんごになるのかー。重くねぇのかな」

「あの花が全部りんごになるわけじゃないんだけど」

「ええっ? あれが全部りんごになるんじゃねえの?」

「ならないよ」

「えっ? ちげーの?」

「余分な花を摘んだりとか、そのあとも余分な実を摘み取ったり……そういう作業するって聞いたけど。りんご農家じゃないから、それ以上詳しくは知らない。自分で調べてよ」

「えー」

 

 自宅から一時間ほど車を走らせて到着したのは、飯山いいやま市にある菜の花公園。長野県内一の菜の花の名所だ。

 車を降りて小高い丘の方へ視線を向けると、露店が並ぶ光景に目と心を奪われる。菜の花まつりが開催されているのだ。

 から揚げ、クレープ、タピオカ、焼きそば、おやき、ホットドッグ、たこ焼き。見ているだけでお腹が鳴りそうな魅惑のラインナップにネオンは目を輝かせている。



「子供の頃に連れてきたんだが、覚えてるか?」

 タツは振り返り、汐緒とネオンに問いかけた。

「あー、うん、覚えてる。すげー黄色がいっぱいだった!」

 ネオンは即答したが、汐緒は瞬きすることしか出来ない。

「お前なー。もうちょっと語彙を増やせ。なんだよ、黄色がいっぱいって。わかるけど」

 タツはくつくつ笑い、前に向き直った。軽い足取りで丘を登っていく。

 

 汐緒は俯いた。

 覚えてない……なぜこんなにも子供の頃の記憶がないんだろう。 

 やっぱり、おかしいよね……


 

 丘の上に着くと、門のように立つ木々の向こうが輝いているようだった。

 草を踏みしめて進んだその先には、千曲川ちくまがわへ向かう傾斜に一面の菜の花畑が広がっている。


 汐緒は息を呑んだ。

 川の向こうにも菜の花畑や田畑、街並みが広がっている。その奥は、ゆったりと横たわる関田せきだ山脈。そのさらに奥に雪が残っている山が見えた。

 そして頭上には春の少し霞んでいる空が広がっている。


 風が吹き、菜の花が揺れた。

 カランカランと鐘の音が聞こえる。

 

 頭痛とめまいが汐緒を襲った。

 あ、これ倒れる……かも。

 そう思って頭を庇おうとしたとき、ネオンに掬い上げられるように抱きとめられた。

 

 異性に触れられているというのに嫌悪感を抱いていない自分に驚く。

 そして次の瞬間、ごぼり、まるで水の中に突き落とされたような感覚がした。周囲の音が遠くなっていく──



 

 

 自分の背丈よりも高い、たくさんの黄色い花が目の前に広がっていた。

 

 数歩前に大好きな父がいて、汐緒と同じ年頃の男の子を抱きかかえ、景色を見せている。

 羨ましくて「あたしも!」と、汐緒は強請った。

 

 びっくりしてしまったのだろう。父は汐緒を抱き上げてくれたが、汐緒は泣き出してしまった。父はいつものように汐緒の額や頬にキスをして慰める。

 汐緒は父のシャツを掴み、涙の残る目で景色を見た。

 

 可憐な黄色い花畑が大きな絨毯のように広がっている。その奥には川が流れていて、川の向こうにも黄色い花畑、畑、木々、町並み。その奥に山々がゆったりと横たわっており、頭の上には東京よりも少し濃い色の空が広がっている。


 それは、幼い汐緒がそれまで見たことのない景色だった。

 

 ふと、男の子が、父の足にしがみついて何かを言っていることに気がつく。

 そして、汐緒たちを見守るように母が微笑んでいて──



 突然、ぱちん、鎖が切れたような、古ぼけた扉の鍵が開いたような、そんな感覚がした。



  

──あぁ、そうだ。ネオンとは、いつも一緒だった。


 

 どこにいくにも、ついてくるネオン。

 そばにネオンがいないと泣く汐緒。


 気がついたら、ネオンが隣にいた。

 

 家族だけど、家族じゃない。

 きょうだいではないと、なんとなくわかっていた。たぶん、本能的なものだろう。

 

 血の繋がりは無いのに、両親よりも一緒にいる時間が長かった。



 幼い頃、ネオンと過ごした日々の記憶が、映画のダイジェスト版のように汐緒の脳内に流れ込んできた。

 


 駒込の家の近く。山手線の線路沿いの桜並木。電車が通るたびにはしゃいでいたネオン。


 冬。潜り込んだネオンの布団。

 ネオンの足があたたかくて、足をくっつけたら「うしお、つめたい」と言って抱きついてきたネオン。


 夏。雷が怖くて震えていたら、雷から庇うように抱きついてきたネオン。


 ネオンが怒ったり泣き叫んだりすると、ネオンの体には光やバチバチした電流のような、小さな稲妻みたいなものがまとわりついていたこと。


 汐緒の紫色の瞳を「ほうせきみたい」と言って、おでこにキスをしてくれたネオン。

 

「ネオンのおめめ、葉っぱみたいで、キレイ」そう言って、お返しにとネオンの頬にキスしたこと。


 時々出てしまう、ネオンの翼が、まるで孔雀の羽根のようで、とてもキレイだったこと。


 

 もうすぐネオンのお父さんが迎えに来るから、もうネオンと一緒にいられないと聞いたあの日──

 そうだ、あの話を聞いたあと、駒込にある管理局の施設に行ったんだ。

 管理局の人たちなら、ネオンとずっと一緒にいられる方法を知ってるかもしれないと思って。

 でも、大人たちは揉めていて、話しかけるのは気が引けて……


 

 管理局の施設のひとつである、バラの咲く庭園がある洋館の前で、ネオンはおもちゃの指輪を汐緒の指にはめた。

 

『おとなになったら、けっこんしよう』

『おとなになったら……?』

『うん! けっこんしたら、ずっといっしょにいられるんだって』

『わかった。あたし、ネオンとけっこんする』

『おれ、ぜったいうしおのこと、むかえにくるから。だから、おれのこと、ぜったいわすれないで』

『うん』

『やくそくだぞ!』

 

 そう言って、ネオンは汐緒の唇にキスをしたのだ。


 

 あぁ、たしかに私はネオンと約束した。


 約束したのだ。とても大切な、泣きたくなるほど大切な約束を……



 ぶわり。庭園のバラの花が強風で散っていき、汐緒は思わず目を瞑った。

 風が止んだことに気付き、そっと瞼を開けると、太陽も月も人工の灯りもない、闇の世界が広がっている。

 何も見えない。途方に暮れていると、暗闇に稲妻が浮かび雷の音が聞こえる。

 幼い汐緒は悲鳴をあげ、耳を塞いでうずくまった。

 

 いつの間にか雷は収まり、人の気配を感じたが、汐緒は顔を上げることが出来ない。

 名前を呼ばれた気がしたので勇気を振り絞り、そっと様子をうかがうと、ひとりの女性が立っていた。

 長くてまっすぐに伸びた黒い髪。白い肌。どんな目をしているのかはわからない。ただ、弧を描く真っ赤な唇から目を逸らせない。

 汐緒は本能的な恐怖を覚えるも、動くことはできなかった。

 女性の白い手が、汐緒の額に触れて──



 

「汐緒!」



 体重を預けるようにネオンの胸に飛び込んだ状態の汐緒は、意識を現実に戻した。

「汐緒、大丈夫か?」

 はたから見たら、転びそうになった少女を彼氏が抱きとめている微笑ましい光景なのだろうが、汐緒とネオンはそういう関係ではない。

 だが、幼い頃の思い出に浸っていた汐緒は、ぼんやりとしたままネオンの温もりに身を任せている。

「……ネオン」

 思わず呟いた汐緒が自分の声で我に返るのと、汐緒の呟きを拾ったネオンが汐緒の両肩を掴んで体勢を整えたのは、ほぼ同時だった。

 

「汐緒……! やっと、やっと……俺の名前、呼んでくれた……!」

 ネオンは顔を歪ませた。若葉色の瞳が揺れ、今にも泣き出しそうだ。

 

「うん……ごめんね。ごめんね、ネオン……」

 汐緒の紫色の瞳も涙が溢れそうになっている。

 

「うしお!」

 ネオンはぎゅっと汐緒を抱きしめ、汐緒もゆっくりとネオンの背に腕を回した。

「ネオン、ごめんね。私、やっと思い出した」

 ネオンは、ふるふると首を振る。

 思い出してくれた。俺のことを。あの頃のことも、大切な約束も。それだけで充分だ。


 

「おい、何をしている……」

 地を這うような声に、びくりとネオンの体が跳ね上がり、バッと音がしそうな勢いで汐緒とネオンは距離を取った。

 目の座ったタツと、口元を抑え涙を浮かべている七海がふたりを見ている。

  

「これはその……私が転びそうになったのを支えてくれたというか……」

 思わずネオンを庇う汐緒。

 タツは納得いかないような表情をしていたが、こくこくと頷くネオンを見て「そうか」と呟いた。

「本当に仲直りしたのね! 良かった……」

 ネオンと汐緒の手を取って微笑む七海。

 タツは気まずそうにデジタル一眼レフカメラを撫でている。

 

「さ、タツくん、下の方行きましょ! 今日は雲もないし、良い写真いっぱい撮れるわ!」

 満面の笑みの七海に手を引かれ、こういう状態の妻にめっぽう弱いタツは、チラリとネオンを見たものの、そのまま七海と川の方へ足を進めた。



「……お、俺たちも下の方行ってみるか?」

 ネオンの提案に、汐緒は首を振った。どこかぼんやりしているように見える。

 

 カランカランと鐘の音が聞こえ、ネオンは汐緒の手を掴んだ。

 

「なんか、あっちの方から鐘の音聞こえんだよな。行ってみっか」

「……うん」


 レトロな雰囲気の管理棟に向かって歩く。

 さくさくと草を踏み歩くふたりの間には、会話はない。

 ネオンは汐緒が記憶を取り戻したことで胸がいっぱいになっていて他のことを考える余裕がなく、汐緒は記憶を取り戻したことにより、戸惑いと不安で押しつぶされそうだったからだ。


 

 管理棟の向こう側にも菜の花畑があり、その菜の花の向こうに、音の正体はあった。

 地面から伸びた銀色のポールが上の方でゆるやかに曲がっていて、金色の鐘がぶら下がっている。


「これかぁ……」

「幸せの鐘だって!」

 ネオンはそう言うと、若葉色の瞳を輝かせている。

 汐緒はネオンの輝く瞳を見つめた。春の葉っぱの色。ネオンは秋生まれなのに、どこか春のような温かさを感じたことを思い出す。視界が滲んでいく。

 

「汐緒?」

「ううん、なんでもない」

「鳴らしてみよーぜ!」

 ネオンはそう言って、汐緒の肩を掴み、そのまま引き寄せた。

「せーのっ!」

 ネオンが合図をし、鐘の内側から伸びる紐をふたりで揺らす。


 カランカラン……


「これで俺たち、もっと幸せになるぜ」

 にしし、と笑うネオンから、汐緒は目を逸らす。

 ぎゅっと瞼を閉じて、それからゆっくりと瞼を開けてネオンを見つめた。

 青い空を背景に揺れる鐘は、まだ音を響かせている。

   

 

「ネオン……話があるの。最後まで聞いて」



 

 落ち着いて話をしたいという汐緒の提案もあり、ふたりは川の方へ向かって歩くことにした。

 

「な……なんだよ、話って」

 ネオンはソワソワと落ち着きがない。

 記憶を取り戻した汐緒が、どんな嬉しいことを言い出すのかと期待しているのだろう。

 

「あの……ネオンとした、あの約束のことだけど」

「んー? あの約束?」

 ネオンは、すっとぼけることにしたようだ。そんなネオンに汐緒は頬を膨らませた。

 

「ネオンが魔界に連れて行かれる直前、私とした約束があるでしょ」

「んー、どれだっけな〜」

「わざとやってるでしょ、それ」

「バレたか」そう言って、悪戯がバレた子供のようにネオンは笑った。つられて笑いそうになってしまった汐緒だが、我に返り首を振る。

 

「たしかに約束したけど……ネオンには、あの約束に囚われないでほしいと思ってる」

 汐緒はそう言って真っ直ぐにネオンを見つめた。

 

「何を……」

「最後まで聞いて」

 汐緒の紫色の瞳がゆらりと揺れる。ネオンは唇を噛みしめた。

 

「私は、あれは子供の戯言だと思ってる。あの頃は、私たちずっと一緒だったから、それが当たり前で、その当たり前が壊れてしまうのが嫌だったから、一緒にいられるにはどうしたらいいんだろうって、思ったんじゃないかなって……」

 

 汐緒はそう言って、ネオンから一瞬目を逸らす。

 息を吸って、またネオンに向き直る。

 

「あの年頃だから、一緒にいられることイコール結婚、だと思ったんだよ。でも、この年になってからの、好きって、そういう子供の頃の好きとは違うと思う。子供の頃の好きは家族愛みたいな、そんな感じで……大きくなってからの好きって、そういうものじゃないと思う」


「俺は……」

 

 口を開いたネオンを「待って」と制して汐緒は続けた。

 

「もしかしたら、これから『子供の頃とはちがう好きという気持ち』を抱く女の子が現れるかもしれない。その時、私がネオンのそばにいたら、足枷にしかならない。私はネオンには、そういう子供の頃の約束に囚われて欲しくない」


「何言ってるかわかんねぇよ……」

 

 吐き出すように言うネオンは、戸惑っているようにも、怒っているようにも見え、汐緒は胸の奥がちくりと痛んだ。


「……ごめん、わかりにくくて」

「いや、そうじゃなくて……それもあるけど……」

 

 ネオンが戸惑うのは当然のことだろう。だが、これだけは言っておかねばならない。

  

「あの頃の好きと、今の好きは違う。私はそう思ってる」


 風が強く吹いて、菜の花が揺れた。

 汐緒がレギンスの上に着ている、グレーの水玉模様のワンピースの裾も揺れている。

 

 ネオンはその光景を眺めながら、汐緒の言葉を脳内で繰り返した。



  

 子供の頃の好きと、今の好きは違うのか?

 じゃあ、俺の今の好き、は?


 

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