第七話 尻尾掴む意味わかってないだろ
「ぎぃやあぁぁぁぁ」
ドスンドタンという、何かが落ちるような衝撃音と悲鳴が、
「
何事かと駆けつけたタツが汐緒の部屋のドアを勢いよく開けると、尻の上の辺りをおさえて涙目になっているネオンが転がっていた。そのネオンの悪魔の尻尾を汐緒が掴んでいる。
「汐緒、離してやれ。それ、たぶんかなり痛いぞ」
タツの一言で汐緒は我に返り、素直に手を離した。
「どうしたの? すごい音と悲鳴が聞こえたけど」
遅れて来た
部屋のなかは教科書、ノート、プリントが散乱しており、ネオンが床に座り込んで半泣きになっている。
「尻尾……尻尾をあんな風に……絶対意味わかってないだろ……」
尻尾の付け根と掴まれた部分を摩りながらぶつぶつ呟き、顔と耳を赤く染めているネオン。
一方、汐緒は何も言わず俯いていた。
「なにがあった?」
タツは、汐緒とネオンを交互に見ながら問いかけた。
なぜこんなことになっているのかというと──
昼頃に帰宅し昼食を済ませた後、課題をしていた汐緒。
明日土曜日からは五連休。タツの突然の思いつきに対応出来るようにしておこうと思い、早めに課題を終わらせようと思ったのだ。
それほど難しいものではなかったため、すぐに終わらせることが出来たので、続けて数学の演習問題に取り組んだ。
少し苦手な系統の問題は、今のうちに潰しておきたい。連休明けには実力テスト、今月の後半には中間テストがある。
今日は午前中の体力測定でへばってしまったけど、勉強の方は調子が良いなぁと汐緒が機嫌良く机に向かっていたその時、ノックの音とほぼ同時にドアが開かれた。
「うしおー! あっそぼーぜー!」
汐緒がシャーペンを握ったまま上半身だけでドアの方を向くと、昨日から六条松家に居候し始めたネオンが、若葉色の瞳をキラキラと輝かせ満面の笑みを浮かべていた。何がそんなに嬉しいのだろう。尻尾がぴょこぴょこ動いている。
「あの……ノックしてくれます?」
汐緒は怒鳴りつけたい衝動を必死に抑え、冷たい目でネオンを見つめ、静かな声で抗議した。
「しただろ」
「ノックとほぼ同時にドア開けましたよね? そういうのは、ノックしたって言わないんですけど」
「むー」
ネオンは頬を膨らませている。未就学児か。
頬を膨らませたいのはこっちだと思いながら、汐緒は溜息をつく。
「……何かご用ですか?」
「うん。汐緒と遊ぼうと思って」
「遊びません」
「えー」
「私、今勉強しているんです。遊ぶならお一人でどうぞ」
「えー」
「えーじゃなくて……いい加減、部屋から出て行ってもらえます?」
ネオンはぶぅと唇を尖らせた。
「なんでそんな他人みたいな話し方すんだよ」
「他人ですよね?」
突き放すような言葉と共に、マイナス四十度くらいの冷たい紫色の瞳で見られ、一瞬たじろぐネオン。
「……そ、そうじゃなくてよ……昔みたいに、もっとこう……だって、俺たち一緒に育ったじゃねーか」
「そんなこと言われても……私、そんなこと覚えてないですし」
「結婚の約束もしたじゃねーか!」
「五歳とか六歳の頃のそういう約束なんて、子供の戯言でしょう?」
ネオンは唇を噛む。
そうだ、汐緒は俺のことを覚えていなかった。
改めて突きつけられた現実。
どうしたら、汐緒は俺と一緒に暮らしていた頃のことを思い出してくれるんだろう。
どうしたら、汐緒はあの頃の気持ちや、俺と交わした大切な約束を思い出してくれるのだろう。
思い出せば、きっと昔みたいに……
視線を彷徨わせていると、いくつか飾られているぬいぐるみのうち、レッサーパンダと目が合った。閃いた!
「あ。そうだ! 一緒に遊べば思い出すかもしんねぇ」
「は?」
「うしおー!」
ネオンは机の前の椅子に座ったままの汐緒に駆け寄り──
「うお、あっぶねえ」
汐緒の小さな拳を受け止めた右手がじんじんする。ネオンは自分の右手と汐緒を交互に見た。
あと数歩で汐緒に抱きつけそうという距離まで近づいたそのとき、ひゅっ、と何かがネオンの顔に向かって飛んできたので、思わず右手で受け止めてしまったのだが。
何かと思えば、それはいつの間にか立ち上がった汐緒がネオンに向かって繰り出した拳だった。
「左ストレートとか誰が教えたんだよ。あ、タツ兄か」
汐緒は右利きだ。それが証拠に先程までシャーペンを持っていたのは右手だし、幼い頃も右手でクレヨンを持っていた。
利き手と反対側から飛んでくる、小柄な体のどこにそんなパワーがあるのかと言いたくなるような強烈なパンチ。
魔王の息子であるネオンだから片手で軽く防げたものの、ごく普通の人間なら吹っ飛んでいたかもしれない。
こんなパンチを身につける方もどうかと思うが、教える方はもっとどうかしてるだろ。
タツ兄は汐緒をどうしたいんだ。俺の可愛い汐緒にこんなもん教えやがって。
汐緒が自分の身を護れるよう、護身術を教えたい気持ちはわかる。だが、もっとこう……他のものが色々あるだろ。
ネオンは汐緒の父の顔を思い浮かべ、脳内で睨みつけながら、眉を寄せて机の上に視線を向けた。
テキストとプリント数枚、 広げられたノート。
勉強が嫌いなネオンには、自主的に勉強する汐緒の気持ちなど、まったくわからない。
「なんで勉強なんてしてんだよ」
「私、高校生なので」
「高校? ってたしか、義務教育じゃねえんだろ。だったら、行かなくてもいいんじゃね?」
汐緒は顔をしかめて瞬きをした。喉から出そうになった言葉を飲み込む。
ここでネオンに「あなたは学校に行かなくていいんですか?」とか「あなたこそ学校とか行った方がいいんじゃない?」などと言おうものなら「じゃあ俺も汐緒と同じ学校に通う〜!」という展開になるような、そんな気がしたからだ。
せっかく手に入れた平穏な高校生活を手放したくはない。
「……あなたには、将来やりたいこととか、そういうの無いんですか」
問われたネオンは瞬きをして、首を傾げている。
「ん? 俺? 俺は汐緒と一緒にいられるなら、他はどーでもいいけど」
「は?」
「いや、だから……俺、汐緒と一緒にいられるなら、他に何もいらねーんだよ」
汐緒は目眩がする思いがし、頭を抱えた。
「汐緒?」
「私は、よくない」
なぜ自分の将来のことを真面目に考えてないのだろう。なぜそんないい加減な気持ちでいられるのだろう。
結婚云々言っているくせに。
それに、もしも私が何らかの理由でいなくなってしまったら、どうするつもりなんだろう。
汐緒は、なぜか無性に腹立たしくなった。
「私はやりたいことがあるの! 美大か芸大に行きたいから、きちんと授業に出席して、それなりの成績を取って高校を卒業する必要があるの!」
「そんなの、俺と結婚するなら関係なくねーか?」
さらりと流したネオンのことを、害虫を見るような目で見る汐緒。
「まあまあ、そう怒るなって。そんな先のこと、どーでもいいじゃん。それよりあそぼーぜ」
ネオンはそう言うと、汐緒の机の上から教科書とノートを取り上げた。
「ちょっと! 返してよ!」
ひょい、とネオンは教科書とノートを持つ手を上げる。
ネオンは汐緒より頭ひとつ分ほど背が高い。汐緒が背伸びして腕を伸ばしても、軽くジャンプしてみても、ネオンが持つノートと教科書には届かない。
「遊んでくれるっつーなら、返してやってもいいぜ?」
にやりと犬歯を見せながら言うネオンに、汐緒は怒鳴った。
「遊ばないって言ってるでしょ!」
ネオンは、汐緒が怒っていることに少しだけ引っかかりはあったものの、汐緒が自分に構ってくれていることの方が嬉しくて、つい調子に乗ったのだ。
「怒ってる汐緒もかわいー」
思わず、本心が口から出る。
汐緒が感情を抑制せず、自分に向けてくることが嬉しい。汐緒が俺のことを見てくれていると思うと、顔がにやけ、尻尾も犬みたいにぶんぶんと動いてしまう。なんだろう。ちょっと楽しい。
一方、汐緒は頬を赤く染め、ふるふると震え始めた。
「……汐緒?」
思わず、ネオンは汐緒の顔を覗き込む。
その次の瞬間、汐緒はネオンの悪魔の尻尾を鷲掴みし、思いっきり引っ張ったのだ。
そして、ネオンが痛みにもんどり打ち、家中に響く悲鳴をあげた──というわけだ。
「はぁ……とにかく、ネオンはこっちに来い」
タツは溜息をつき、ネオンの腕を掴んで立たせた。
ネオンは尻尾を掴まれ引っ張られた痛みのためか、別の理由もあるのか、一切抵抗しない。
そのままネオンの背を押すようにしてタツも部屋から出て行った。
「汐緒、暴力はだめよ」
眉を下げ、優しく諭す七海の一言に、汐緒は黙って背を向ける。
「昔は仲良しだったじゃないの」
「しらない!」
汐緒は思わず叫んだ。
次の瞬間には母に八つ当たりしたということに気づいたが、謝罪するために口を開こうとしても、喉が詰まったような感覚がして言葉が出てこない。
「あとでちゃんと仲直りするのよ?」
七海はそれだけ言うと、静かに部屋を出て、そっとドアを閉めた。
「な、んで……」
汐緒は一人になった途端、冷静になったと同時に、自分が泣いていることに気がついた。
ネオンは半泣きになっていた。たぶん、すごく酷いことをした……
「だって、あいつが勉強の邪魔するから……」
口に出して、言い聞かせる。
ネオンがしたことに対して、反抗しただけだ、強硬手段に出ただけだと、自分を正当化しようとした。
涙が止まらない。
汐緒は、ぺたりと床に座り込んだ。
勉強の邪魔をしてきたネオンに苛立った。
それは仕方ないことだとしても、将来のことを何も考えていないネオンに対して苛立つのは違うのではないか。
ネオンは人間界に戻ってきたばかりだ。
十年間、魔界でどういう生活をしていたのか、汐緒にはわからない。
だが、人間界と色々と違うことが多いのではないだろうか。
ましてや、ネオンは魔界の王の子。母親が人間でも王族といっていい立場だろう。
もしかしたら人間界で生きていくなんて考えていなかったのではないだろうか。
昨日だって、魔界に帰れないと聞いて途方に暮れていた。
今、将来のことを考えていなくても仕方がないのではないか。
そもそも、もっと冷静に対処できたはずだ。
尻尾を掴んで思い切り引っ張るなんて、頭に血が昇っていたとはいえ、痛いことは想像出来るだろう。
ぼろぼろと涙が溢れていく。
なんて酷いことをしたのだろう。
ふと、七海の言葉が脳内で廻った。
『昔は仲良しだったじゃないの』
「知らない、しらないもん……そんなこと……」
口に出すと同時に気がつく。
そうだ、知らないんだ。
「なんで……なんで、覚えてないの?」
心からの叫びのような言葉が喉から出て、ひとりきりの部屋に落ちていく。
それはまるで波紋のように広がっていった。その波紋は壁にぶつかって跳ね返ってくる。
ますます涙が止まらなくなる。
本当に苛立っていたのは、ネオンに対してではなくて、自分に対してだった。
ネオンのことを覚えていなかったこと、一緒に過ごした日々を覚えていない、そんな自分自身に苛立っているのだ。
それを、ネオンにぶつけてしまうなんて……
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