【約束】
第六話 忘れてること覚えてること
艶々の黒い髪。
陶器のように滑らかで、雪のような白い肌。
長い睫毛に縁取られた、宝石のような紫色の大きな瞳。
形の良い鼻。
柔らかそうな薄桃色の唇。
魔界に居た頃、人間界の様子を見ることができる不思議な水晶玉に、何度も
でも、直に会うのは十年ぶりだ。
勉強を頑張った御褒美にと、姉が貸してくれた不思議な道具を通して見ていたよりも、直で見た方が圧倒的に可愛くて綺麗だった。
ネオンよりもずっと小さい身体。
お菓子のような、花のような、甘くて、なんだかいい匂いもしていた。あの頃と少し似ているのに、ちょっと違う匂い。
昔みたいにぎゅうっと抱きしめて、その匂いを嗅いで確認してみたかったのだが、それは出来なかった。
俺と交わした約束どころか、俺のことすら覚えてないとか……
汐緒が自分のことを覚えていなかったことに、ネオンはショックを受けた。
そして、ベッドに入って一日を振り返っているうち、やり場のない苛立ちを覚えたのだ。
なんでだよ。なんで忘れちまったんだよ。
ぜったい忘れないって約束したのに!
日付が変わっても、ネオンは悶々としていた。このままでは眠れない。深呼吸を繰り返す。
どうにか落ち着き、冷静さを取り戻すまで二時間ほどかかった。
十年もの間、手紙のやりとりも電話もメールも交わしていなかったので、忘れられてしまっても仕方ないことなのかもしれない。納得は出来ないが。
どうやらだいぶ警戒されていたような気もするが、覚えていなかったのだから、それも仕方がないことだ。
汐緒は、昔から未知のものや、一度でも嫌な思いをしたものに対しての警戒心が強かった。
まぁいい。これからだ。
これから俺のことを思い出してもらって……いや、思い出さなくても、ずっと一緒にいれば、きっと……
きっと……
「おい、いい加減に起きろ!」
タツに掛け布団を乱暴に剥がされたネオンは、ベッドから床に落ちた衝撃で目を覚ました。
「いい加減に起きろ! もう八時になるぞ!」
「はちじ……?」
ぼんやりとしたまま周囲を見渡す。
オフホワイトのカーテンが閉められた窓。クローゼットとベッドしかない部屋。
「ここ、どこ……あれ? タツにい?」
目の前には、腰に手を当て眉を吊り上げているタツ。汐緒の父親だ。そしてネオンの育て親でもある。
あぁ、そうだ。
昨日、魔界から人間界へ来て……汐緒と再会したけど、汐緒は俺のこと覚えてなくて……でも、汐緒の家に住めることになったんだ…………
「いつまで寝ぼけてるんだ。とっとと出かけるぞ!」
「……え? おでかけ?」
「早く顔洗って着替えろ」
冷たく言い放ち、タツは部屋を出て行った。
「腹減った……」
身支度を終えたネオンが一階のダイニングへ向かうと、汐緒の母である
「おはよう、ネオンくん。よく眠れた?」
「お、おはようナナミ姉。えーと……俺、寝坊しちまったみたいで……汐緒は?」
「汐緒なら学校行ったぞ」
背後からの声にネオンが振り返ると、タツが不機嫌そうな顔をして立っている。
「学校?」
「そうだ。さ、出かけるぞ」
「え、え、ちょっと待って。学校って、あのガッコウ? 漫画とかアニメに出てくるやつ?」
「まぁ、そうだな。いいから行くぞ」
「え、え、今から出かけんの? 俺の朝メシは? ねえ、ちょっとタツ兄!」
タツに首根っこを掴まれ、ネオンは車の助手席に放り込まれた。
「ねぇ、俺の朝メシは? 腹減った!」
「うるせぇ! 昨夜、明日は朝から出かけるって言っただろ。何度も起こしに行ったのに、いつまでも起きないお前が悪い。メシは用事が済んでからだ。早くシートベルト締めろ」
タツがエンジンをかけたので、ネオンはおとなしくシートベルトを締め、空を眺めた。
タツの運転する薔薇色のコンパクトハイトワゴンは、長野市街地を抜け高速道路に入った。
上信越自動車道から長野自動車道へと進む。
景色の良い
「未就学児かよ」
タツは溜息と共に呟いたが、腹減ったメシ食わせろと騒いでいるよりはマシかと思い、そのまま寝かせておくことにした。
渋滞に巻き込まれることなく、ほぼ予定通りの時刻に到着しそうだと安堵したタツは、信号待ちしている間にネオンを叩き起こした。
「起きろ。もうすぐ着くぞ」
「あれ? ここ来たことある……?」
寝ぼけつつも、ネオンは窓の外の景色を見て首を傾げた。
広い駐車場と、ベージュの大きな建物。窓ガラスに青い空と白い雲が鏡のように映っている。
「そりゃそうだろ。毎年汐緒と一緒に検査受けに来ていたんだから」
「けんさ……?」
そう言われてみれば、大学附属病院と書いてある。
ネオンは右のこめかみを指先で押した。そのままぐりぐりと指を押し付け、記憶の扉を開ける。
……なんとなく思い出してきた。
昔、車で泊まりがけで出かけて……たしか、マツなんとかっていう名前の街だったはずだ。
それで、次の日は朝早くから病院に連れて行かれた。汐緒は毎回ぐずっていたな……
タツの友達だという、不良みたいな見た目の医者には珍しく懐いていたが、その先生がちょっとでも何かしようものなら、汐緒は大泣きして拒絶していた。
普段は大人しく、騒いだり癇癪を起こすことのない汐緒が泣きながら暴れている姿に、幼かったネオンも、これは只事ではないと思ったのだろう。
「汐緒をいじめるなー」と叫び、大騒ぎになったのだった。
やがて汐緒が泣き疲れ、ぐずぐず泣いているものの暴れなくなると、手早く、そして騙すように検査を進めていた。
それで……俺がなんか言ったら、タツ兄がすごく優しく笑って頭撫でてくれたんだ。それは覚えてる。なんか、すげー嬉しかったんだよな。
でも……俺、あの時何言ったんだろ。
そんとき、なんかタツ兄と約束したんだよ。
タツ兄が喜ぶようなことってなんだ?
あのとき、俺、何を約束したんだろう……
すごく大切なことだった気がする。
でも、思い出せない……
タツ兄は覚えているんだろうか。
ネオンは自分より数歩前を歩くタツの背を見つめた。
颯爽と病院内を歩くタツにどうにかついて行くと、ある一角で立ち止まったので、ネオンも立ち止まる。
タツは周囲を見回してから、壁に触れた。
「うわ?」
思わず声を上げるネオン。
タツが触れたところから光が広がり、大きな長方形──光の扉に形を変えたのだ。
「あー、これは覚えてないか……昔はこれ見てはしゃいでたんだけどな。ここからは、普通の人間はひとりでは入ることができない。俺たちみたいな人外との混血か、俺らが迎え入れないと入ることができない」
光の扉にはドアノブはない。そのまま光の中に入ると、別の場所に出た。
振り返ってみると、光の扉は消えてしまっている。
「ちゃんと帰れるから安心しろ」
「べつに、ビビってねーし!」
周囲を見渡す。先ほどまで歩いていた場所とそれほど変わらないように見える。ただ、人がいないのだ。
落ち着きなく周囲をきょろきょろ見ながらもタツについて行くと、ソファが置いてある広めのスペースに出た。おそらく待合室だろう。
「よぉ」
白衣を着た三十代後半から四十代半ばくらいの男性が片手を挙げた。
「急にすまんな」
「いや、今回は仕方ないよ。たまたま出勤日で良かった」
ネオンはなんとなく、この医師と思われる男性とは初対面ではない気がした。
(タツ兄と友達みたいだし。もしかして汐緒が懐いていた不良っぽい見た目の医者か? なんか、ふつーのオッサンなんだけど……まあでも十年経てば老けるよな。タツ兄が変わらなさ過ぎるんだ、きっと)
視線を感じた男性は、ネオンに向き直り、人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「久しぶりだな……って言っても覚えてないか。君と汐緒ちゃんの担当をしていた
「……えーと、会ったことあるような、ないような?」
「ははは。まあ、覚えてないよなぁ。十年ぶりくらいだし」
やっぱりあの時の医者か!
病院嫌いの汐緒が何故か太良地には懐いていた。
理由を探すように太良地をじっと見つめるネオン。
太良地はそんな視線を気にも留めず、ネオンを眺めている。
「うん、たしかにLサイズで大丈夫そうだ。ネオンくん、そこの部屋で検査着に着替えてくれる? 荷物は適当に置いといていいから。あと、尻尾、生えちゃったんだよね? それも調べるから出しといて」
「は、はぁ……」
出しといてって……洗濯物みたいに言うな!
ネオンは不快感と共に嫌な予感が胸によぎった。思わず、助けを求めるような目でタツを見る。
「ネオン、大人しく太良地先生の言うことを聞くんだぞ。終わる頃迎えに来るからな。ユージ、あとはよろしく」
タツはそう言うと、ふたりに背を向け片方をひらひらとさせながら去ってしまった。
「ええええええ……」
検査は一時間半ほどで終了した。
タツはどこか近くの店で食事をしようと思っていたのだが、ネオンの精神的な消耗があまりにも激しかったため、
「ううう……辱めを受けた……」
家の中に入るなり、ネオンはクッションを枕にしてリビングのラグの上に寝転がった。
「そんなに尻尾調べられるの嫌だったか」
ネオンは不貞腐れたようにクッションに顔を押し付けている。
本音を言うと、翼を調べられる方が嫌だった。でもそのことを誰かに言うつもりはない。
幼い頃には無かった尻尾を調べられることが嫌だったのも事実なので、ネオンはこくりと頷いた。
「……そうか。それは悪かった。こちらとしては調べる必要があったとはいえ……もう少し配慮すべきだったな。ごめんな」
まるで幼い子を慰めるように頭を撫でられ、ネオンはクッションに顔を押し付けたまま、ふるふると首を振った。
今自分がどんな顔をしているのか。わからないが、誰にも見られたくない。
ネオンは子供の頃にタツに頭を撫でられた時のことを思い出し、胸の奥が苦しくなったのだ。
ネオンは実の父にこんな風に頭を撫でられたことは一度もない。
──タツ兄がお父さんだったら良かったのに。
誰にも言ったことはないし、今後も絶対に口に出すつもりはないが、幼い頃のネオンが何度も繰り返し思って、密かに願ったことだった。
しかし、この年になってから考えてみると、タツとネオンが親子だったとしたら、ネオンと汐緒は『きょうだい』になってしまうわけで……そうなると、汐緒とは結婚出来ない。
やっぱりタツ兄が父親じゃなくて良かった。
「腹減ったろ。ちょっと待ってろ」
タツはそう言うとキッチンへ向かった。
そう言われてみれば、腹が減っている気がする。
ネオンは暫くそのままの姿勢でいたが、やがて玉ねぎを炒めるいい香りが漂ってきて、尻尾が、しゅるり、ひょこひょこと期待に揺れ始めた。
(そういやタツ兄の作るチャーハンとかカレー、美味かったな)
ネオンは寝転がったまま、ぼんやりと室内を見渡した。木の温もりを感じる家。生活感はあまりないのに、どこか落ち着く雰囲気がある。
大学病院から程近い住宅地にある、ログハウス風の二階建ての一軒家。
玄関を開けてすぐの場所にあるリビングにはソファは無く、ラグが敷かれ、ローテーブルと座布団と座椅子、クッションが無造作に置かれている。
そのラグと座布団やクッションのカバーが、モスグリーンやブラウン系でまとめられているからだろうか。それとも、隠れ家のような雰囲気だからだろうか。
幼い頃、ネオンも何度かこの家に泊まったことがあるが『ひみつきちのいえ』と呼んでいた。
この家も、タツが彼の養父である
松本で仕事をする時に、大地はここで寝泊まりしていた。
ここはタツが大学時代に住んでいた家だ。
物心つく前から高校卒業までずっと一緒にいた
(タツ兄もナナミ姉と離れ離れになったこと、あったんだよな……)
出来たぞーという声と共に、目玉焼きが乗ったチャーハンとインスタントのスープ、おやきがダイニングテーブルに並んだ。
チャーハンはどちらかというとケチャップライスと言った方が合っているのだが、六条松家ではこれをチャーハンと呼んでいる。
具は玉ねぎ、ミックスベジタブル、ソーセージ。たっぷりのケチャップと少しのウスターソースで味付けされていて、ブロッコリーが添えてある。上に乗せてある目玉焼きは半熟。
コーンスープはお湯を注いで混ぜるだけのもの。
おやきは冷凍で販売されているものを解凍したもので、具は粒あんだ。
六条松家でいうところのチャーハンをスプーンですくって口に入れると、幼い頃、食べた記憶が蘇った。
ケチャップ多めなので少し甘い。
プチプチとしたウインナーの皮の食感。これこれ。この感じ好きだったな。
幼い頃、ミックスベジタブルのグリンピースを、わざと床に落としてタツに叱られたことを思い出す。
「グリンピース、食えるようになったんだな」
揶揄うように言われたネオンは、頬を膨らませた。
いまだにグリンピースは好きではない。単に食べられるようになっただけだ。
「昨日も言ったけど、我が家の方針は『働かざるもの食うべからず』だ。今日からは家事をしてもらうぞ。とりあえず、食後の片付けと掃除から始めて、ひと通りの家事は出来るようにならないとな」
そう言ってタツは食後のほうじ茶を飲み干した。
「うへぇ……」
「魔界では全然家事やってなかったんだろ」
「自分の部屋の掃除くらいはしてたぞ」
「そうか。なら、楽勝だな」
早速今から始めるぞ、とタツはネオンに皿洗いを教え、軽く掃除をした。
とくに寄り道もせず、長野市の家へ向かう。
その道中、今日は体力測定だけだから、汐緒は早く帰ってきているはずだと聞いたネオンは、帰ったら汐緒と遊べる、と若葉色の瞳を輝かせた。
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