星の向こうから
零
第1話
まだ風の冷たい春の初め。
平地には雪は無いが、遠くの高い山やmにはまだ雪が残る。風はまるで、その山か冬の名残を連れてきているかのようだ。
それでも、生き物たちは、春の訪れを感じ取っている。長い試練の時を越えて、自分たちに春の恵みが与えられることを知っている。
動 それは、人であっても同じことだ。雪解けの水に、仄かに香る花の気配に、どこか心浮き立つような鳥の声に、春の訪いを敏感に感じ取っている。そして、心を弾ませるのである。
そんな中で、カケルは一人、春から取り残されているかのようだった。
その日、カケルは病室の窓から夜空を見ていた。
いつもなら、看護師が閉めていくカーテンは、その日に限って忘れられ、窓は大きな黒いスクリーンのように、プラネタリウムよろしく春の星座を映している。月は出ておらず、カケルの部屋の周りには病院の照明も無い。カケルが部屋の照明を落とせば、星の仄かな光を邪魔するものは無かった。カケルは電気のスイッチは切らず、薄く明かりを残した。それでも、雲一つない空にはたくさんの星が瞬いるのが見て取れた。
カケルはそれをぼんやりと見ていた。ここが病室でなければ、もっとこの光景に感動できただろう。しかし、ここは病室である。カケルには、病室にいる理由があるのだ。
カケルは、ベッドに座っていた。その姿も、黒いスクリーンはほの明かりに映し出す。彼の腕は、首から包帯で吊られていた。
カケルはこの春、四月が来れば、中学一年生になる。事件が起きたのはその、矢先のことだった。
カケルは小学生一年生の時から六年間、少年野球のチームに所属していた。人数ギリギリの、小さなチームだ。彼はそこで唯一のピッチャーだった。
それは、小学生最後の試合、その試合中の出来事だった。
試合は七回まで進み、カケル達のチームは守備側だった。得点は三対三の同点。これ以上得点を許すわけには行かなった。誰もカケルに期待していた。
その日、カケルの調子は決して悪く無かった。むしろ調子がいい方だった。後から考えれば、それが却ってよくなかったのかもしれない。誰も彼の腕の異変に気が付かなかったのだから。
相手のバッターは四番。否が応にもプレッシャーがかかる。カケルはぐっと気合を入れた。そして、ボールを投げた、その瞬間、カケルの右腕に激痛が走った。カケルは一瞬、息を止め、そして大きく吸うと大声で叫び、腕を抑えてマウンドに倒れ込んだ。ぶつけた顔が痛かったが、腕はそれ以上に居たかった。今までに感じたことがないほど。
(痛い、痛い、痛い)
普通に息をすることすらできない。声も出ない。ただもうあとはひたすら歯を食いしばって痛みに耐えるしかなかった。仲間が、コーチが慌てて駆け寄るのが気配でやっとわかる。大丈夫か、しっかりしろ、どこが痛むと、声は四方八方からかかるが、答える余裕などなかった。
すぐに試合が中止され、救急車で病院に運ばれた。その後のことはもうよく覚えていない。何人かの大人に囲まれ、カチャカチャと金属がぶつかる音をたくさん聞いた。そこで意識が無くなった。
気が付くと、右腕に包帯が巻かれていた。そこが、動かせなくなっていることだけが、カケルに分かる現実だった。
後から聞かされたのは、医者から両親が告げられた内容だった。腕の筋が断裂していること、手術をしてリハビリをすれば普通に生活することはできるけれど、野球はもう、出来無いだろうと言われたこと。
それを、カケルは他人事のように聞いていた。あまりに突然の出来事で、実感がわかない。包帯を巻かれた、動かせない腕が、それが現実だと教えてくれる。それを認めることにも時間が必要だった。
(どうして?)
そう、何度も問いかけた。誰へともなく。
殊更に肩を落としたのは父親だった。野球は、カケルと、彼の父親をつなぐ絆だった。 幼稚園の時からよく一緒に野球の試合を見に行った。キャッチボールもたくさんした。有名な選手のピッチングやバッティングを真似ることが遊びだった。野球が出来なくなるということは、それすらも失うような気がしていた。父との時間や絆。大切な物。
春からの中学生活でも、当然、野球部に入るつもりでいた。進学する先は特に野球で有名ということは無い、普通の公立中学だけれど、小学校とは違う、もっと本格的なことが学べるだろうとは思っていた。それももうできない。自分が思い描いていた未来が、一気に崩れ落ちた。もうどうしていいか分からない。自分自身がひどく空っぽになってしまったような気がした。
カケルの目から、涙が一粒、零れて落ちた。それは、星の光を映して、キラキラと、キラキラと落ちていった。
カケルは、ここしばらくは泣くことすら忘れていた。涙まで空っぽになってしまったかのように。それが、この時、最後の一粒が零れたような、そんな涙が落ちたのだ。
そうしてそれは、カケルの掌で、ガラスのように砕けて光った。
ボクは、見ていたよ。
カケル君の涙を。
遠い遠い空の上から。
その、涙のキラキラした輝きは、ボクの興味をとても引いた。
最初は、そう。
ただの好奇心だった。
けれど、ホンの少しだけ、覗き見た彼の過去。
そこで解けた涙の謎に、ボクも、知らず涙が零れていたんだ。
どれだけ彼が辛かったのか、少しだけ、分かったから。
何故少しだけ、かって?
本当の辛さは、彼にしか分からないからさ。
そのくらいのことは、ボクにだってわかる。
それをいたずらに分かる、なんて、言ったら、彼に対して失礼だろう?
ただ、そんな彼の涙を見て、ボクまで辛くなったんだ。
自然に涙が零れて来るほど、ボクの胸は痛んだ。
これは、間違いなく、ボクの感情だと思う。
同情は、彼に対して失礼だからしない。
そして、どうにかして彼を勇気づけられないかと思ったんだ。
喩え、それが禁じられていることだとしてもね。
「やあ、カケル君」
それは翌日の昼間のことであった。
カケルの病室に一人の若い男性が現れた。彼は金色の長い髪をなびかせた、一見、女と見間違うような美しい青年だった。青年は人好きする笑顔を浮かべてカケルを見た。
しかし、カケルにはこの青年に見覚えはなった。カケルの知る限り、全くの他人だった。遠い親戚とか言われれば、そうかなとも思ったかもしれないけれど、それを証明できる人は今、周りにいない。両親は仕事に行っているし、そもそも誰かが四六時中ついていなければならないほどの大怪我でも大病でもない。
カケルの状態は安定していると言っていい。体のことなどより、今カケルが置かれているこの状況の方が余程異常だとは思った。もし彼が自ら遠い親戚だとか名乗って、あげく、どこかへ連れ出そうとしようものなら通報ものだ。
とりあえず、カケルは、誰?と、聞こうと思ったのだが、余りの異常な状況に頭が混乱して言葉が出てこなかった。何から聞いたものかと思う。どこの国の人なのかとか、どうやってここに来たのかとか、そもそも誰なのかとか。誰かと聞いたところで名前を言われても誰なのか分かる自信も無い。ぐるぐると色んな質問が頭の中で回る。
すると、男はぽん、と、手を叩いて持っていた紙袋から小さな菓子折りを出した。
「これ、少ないけどお見舞い。それと、」
そう言って彼は同じ紙袋から小さな花束を出した。
「これはお花ね。お見舞いにはお菓子とお花が定番なのでしょ?ああ、やっぱり花瓶はないみたいだね。そう思って持参したから生けて来るよ。せっかくの可愛いお花が枯れてしまったら大変」
そして、カケルに口を挟ませまいとするかのような勢いで言葉を次々と繰ると、カケルの手に菓子折りを半ば強引に持たせて颯爽と病室から出て行った。
残されたカケルはしばらくどうしていいか分からず呆然としていた。すると、手元の菓子折りからふわりといい匂いがしてきた。何とも上品な、甘い香り。思わず箱を開けると、美しい細工を施された錬り切りがいくつか入っていた。
「わ……」
カケルは思わず声を漏らした。匂いにたがわず、美しい菓子が目に飛び込んできたからだ。
桜の形、梅の形、雪解けを現したような、水色と白の色合いの美しいもの。若葉を模した、淡い緑のもの。どれも今の季節、あるいはもう少し先の季節を意識したものだ。まるで宝石箱のような色合いに、カケルは少しの間見惚れていた。
「気に入ってもらえたかな?」
いつ戻って来たのか、謎の青年が戻って来ていた。嬉しそうに笑いながら近づくと、カケルの顔を覗き込む。恥ずかしさもあって、カケルは黙って箱を閉じた。
「あああ、閉じちゃうの?食べてもいいのに。ううん、食べてごらんよ。きっとおいしいよ?老舗の和菓子屋さんで買ったんだ。昔から人気のお店みたいだね」
そう言いながら、花の入った花瓶をベッドサイドのテーブルに置いた。今度は花の香りが鼻をくすぐる。決して強くはない、仄かに香る程度のものだ。謙虚な香りに誘われて、カケルは花の方を向いた。
少し早めのピンクのチューリップ。優しい香りは黄色のフリージアだろうか。可憐なカスミソウが、ふわふわと綿毛のように風に揺れている。全体的に女性に似合いそうな色合いだ。年の頃は少年であるカケルには似合わないだろうが、それより年上の男なのにこの青年には妙に似合っていた。
基本、花を贈る相手は女性であるイメージが強い。カケルはそのことから彼が病室を間違えた可能性を考えた。病室だけを聞いて、誰か知り合いの身内や友達の友達くらいの相手を訪ねて来たのなら、単純に部屋を間違えるということもあるかもしれない。名前にしても、女性に全くないとは言えない名前だ。
そう考えれば、この菓子や花は別人のものだ。カケルがもらうわけにはいかない。早々に本来の持ち主のところへ持って行ってもらいたい。
その気持ちがカケルの口を開かせた。
「あの、僕はあなたを知りません。部屋をお間違えでは?」
そう言って、菓子折りに目を落とす。この美しい手土産も、女性が喜ぶものだろう。女性は甘いものが好きだから。そう考えた方が自然だ。少し残念に思いながら、それを男に返そうと持ち上げると、差し出した箱の向こう側で青年は怪訝な顔をしていた。
「カケル君、だよね?」
「……はい」
そう答えると、彼は顔を近づけてじっとカケルを見た。穴が開くほど、というのはこういうことだろうかと思うほど。相手が誰であれ、そんなにじろじろ見られたら恥ずかしいのだが、早く誤解を解きたい一心でカケルは我慢した。
(あ、)
彼が顔を近づけたことによって、カケルにも彼の顔が良く見えた。一見、黒く見えた目は、深い深い青の色をしていた。
(紺碧、って、こんな色なのかな)
それは、彼が入院中の暇つぶしにに読んだ本に書いてあった色だった。不思議と彼の興味を引いた、見たことのない色。その本には、地球上には存在しない空の色だと書いてあった。
それなら、この目はどの空を映した色なのだろうと、不思議なことを考えた。
そうして、彼の目を見ていたのは、時間にすればかなり短い間だろう。やがて、青年はすっと体を元に位置に戻すと、にこっと笑って言った。
「うん。間違いないよ」
意外な答えが返って来た。カケルは驚いて首を横に振った。彼は間違いではないという。しかし、カケルは納得できない。
「でも、僕は、」
あなたを知らない、と、言おうとした。すると、彼はふふっと笑った。
「初めまして、だけどね」
悪戯っ子のようにぺろりと舌を出す。
「えっ」
カケルはまた驚いた。事態は余計に分からなくなった。カケルの頭の中にはいくつも疑問符が浮かんだ。
自分は彼を知らない。けれども彼は自分を知っている。そして、今が初めまして、だという。会ったことも無いカケルが病院にいること。そして、この部屋にいることをどうして知ったのだろう。ナースステーションで聞いたのだろうか。それにしても、この形で純日本人のカケルの病室を聞こうものなら看護師に警戒されそうだ。
(でも、)
この笑顔には負けるかもしれないと、カケルは目の前の無邪気な笑顔を苦々しく見つめた。
「だから、カケルがボクを知らないのも無理ないよ。ボクがカケルを見つけて勝手にここに来たんだ」
「何のために?どうやって?」
カケルは恐る恐る訊いた。知らない相手に勝手に見つけて押し掛けたなどと言われて、素直にはいそうですかと言えるほど安穏とはしていない。恐怖心の方が強く出ていた。こうなると何らかの犯罪絡みという可能性の方が高いんじゃないかとすら思えてくる。
カケルの頭の中を、いつか見たテレビのニュース映像が駆け抜けていった。
カケルの右手はそっとナースコールへ伸びていた。それだけが、今のカケルの命綱だった。
「君に元気になって欲しくて」
そう言って、彼は笑った。その少し悲しそうな笑顔に、不覚にも警戒心が薄れてしまうのを感じた。悪いことを考えている人は、そんな顔をしたりしないようい思えたのだ。
しかし、どうやって、という方の質問には答えていなかった。そっちの方がむしろ聞きたい。カケルがそう言おうとした時、彼はそっとカケルの包帯が巻かれた腕に触れた。
「痛かった、よね?」
彼の顔が急に神妙になる。よく見ると、彼の大きな青い瞳には涙が滲んでいた。その涙を見て、カケルも泣きたくなった。マウンドにうずまるほどの痛みを感じた、その時のことを思い出したのだ。それでも、どうにか涙を零すことだけは耐えた。得体の知れない相手に涙を見られたくはなかった。
「これは、君が頑張った証拠だよね。一人で、ずっと。たくさんの人の気持ちを抱えて、頑張った証拠」
カケルの胸がずきりと痛んだ。一方で、どうしてそのことを知っているのだろうと思った。怪我をしたところが痛いだろうと思うことはおかしいことじゃない。けれども、その怪我の要因になったことまでは、身内以外は知らないはずだ。チームの皆にも言ってない。野球の関係で知っているのはコーチだけだ。
コーチは、そのことでひどく胸を痛めていた。何度も何度もカケルに頭を下げて、何度も何度もお見舞いに来てくれた。けれども、そうしてくれたからと言って、カケルの怪我が治るわけではない。かといって、コーチ一人のせいでもない。カケルはまだ、コーチに対して何も言うことが出来なかった。コーチは悪くない。そう言えればいいのだろうとは思う。けれど、まだ気持ちの整理がついていない。まだ、悲しみで心が曇っている。
そんなカケルの気持ちを察してか、カケルの父親は、コーチにもうしばらくは来ないで欲しいと言ったようだった。そういう父親も辛そうだった。カケルと同じように、カケルの父もまた、傷ついていたのだ。その様子は、少しばかりカケルを救った。父親も、カケルと同じようにカケルとの野球を通したふれあいを大切に思っていてくれたことが分かったからだ。
同じ思いを共有できていた。それが分かったことが、今のカケルの小さな救いになっていた。
「チームの、ファンの方?それとも、コーチの知り合い?」
カケルは小さな声で聞いてみた。これだけ内部の事情に詳しいなら、関係者かもしれない。
そうは思ったけれど、こんなに目立つ容姿で、チームに関わりがあったら、絶対に気付いたはずだと思う。それなのに、自分の記憶にはやはりこの男は居ない。
コーチの知り合いにも、外国人がいるなんて聞いたことがない。
彼は少し寂しそうに笑って
「散歩、行かないかい?」
とだけ、言った。
カケル君。
君はきっと、気づかない所でたくさんの人の支えになってる。
たくさんの人に影響を与えている。
それは、ボクだけじゃなくてね。
君がボールを投げている姿に、懸命にグラウンドを走っている姿に。
うまくできなくて泣いている姿に。
そして、今の君にだって、同じように誰かに影響している。
それは、良い影響ばかりではないかもしれない。
けれども、そこに何かを起こすということで、人も、環境も変わっていくと思うんだ。
その役目を、命は、お互いに持っていると思うんだよ。
だから、こうして僕は、君に影響されて、今、ここにいる。
本来なら、降り立つことのなかった大地に立っている。
そうして、浴びることのなかった太陽の日差しを浴びている。
感じることのなかった風を感じている。
見ることのなかったものを見、嗅ぐことのなかった香りを嗅いでいる。
きっかけは、マイナスなことかもしれないけれど、ボクは良かったと思ってる。
ここに立つ勇気をくれたのは、君の、涙なんだ。
一見、マイナスな影響でも、こうして、プラスになることを、ボクは知っている。
それも、君が、
他ならぬ君が教えてくれたんだ。
病院の庭は午後の暖かな日差しが降り注いでいた。桜の花はまだ咲いてはいなかったが、つぼみを大きく膨らませ、今にも咲こうとしていた。茶色のがくの間から、濃いピンク色の花弁が見えている。それは、こっそりこちらの様子を伺っているようにも見える。自分が咲く時期が来たのかどうかを推し量るために。
「これ、桜、っていうのでしょう?まだ咲いていないのは残念だけど、咲いたらさぞ綺麗なのだろうね」
「見た事、無いのですか?」
基本、外国に住んでいる外国人で旅行者で一時的に日本に来ているのなら、実際にソメイヨシノが咲いているところを見たことがない、というケースもあるかもしれない。しかし、ただの一野球少年の自分のことを知っているくらいの期間日本にいるのなら、桜の花くらい見て居そうなものだと思った。少なくとも海外に名前が知れるほど自分は有名ではない。
青年は、カケルの問いかけに困ったように笑った。
「実際に見たことは無いね。画像とかでは見たけれど」
カケルはそれを聞いて、ああ、と、小さく答えた。疑問符は消えていない。でも、そういうケースもあるかもしれないとは思う。
「それで、誰なんです?」
カケルは話を本題へと戻した。
男は静かに微笑んで腕を曲げて胸の前に充て、綺麗にお辞儀をした。
「ご挨拶が遅れました。ボクはアランと言います。カケル君のファンですよ」
「僕、の?」
チームの、というなら分かる。弱小だけれど、地元の人で応援してくれている人も多い。その、地元の人のつながりで、チームのことを知ったのなら、外国人にファンが居てもおかしくはない。
ファン、というか、応援してくれている人。しかし、カケル本人は、自分で言うのもなんだが、それほど突出した選手ではない。自分でも、それは分かる。
だからこそ、悔しかった。
もっと大きくなったら。中学校に上がって、きちんと部活に入って、顧問の先生やコーチが付いて、本格的に練習ができるようなれば、自分はもっと伸びられる、と、思っていたのだ。
その、矢先の怪我だった。
カケルはぐっと涙を堪えた。
「泣いたら、良いですよ」
アランはそう言って、キレイなハンカチを差し出した。
「ここには、カケルのことを知っている人はいません。ボクは、長くここには留まれない。カケルの涙を知る者はいなくなります」
帰国する、ということだろうか、と、思ってカケルは顔を上げた。その時、おかしなことに気付いた。
さあっと、春の温みを乗せた風が通った。それに誘われてカケルが周りを見ると、何故か誰もいなかった。春先の、陽気の良い日だ。皆が外に出たがるだろう。実際、さっきまでは人が居たはずだ。
なのに。
「カケル」
そんなカケルにアランが声をかけた。アランを見ると、大きな青い瞳が、何故か、カケルより先に薄く涙を湛えていた。それが呼び水になって、カケルの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「……どうして、」
そう、口にしたらあとはもう止まらなかった。
「どうして、オレがっ……」
頑張って来た。
その自覚があるからこそ。 悔しい、哀しい。
頑張っていれば、報われる。我慢していれば、いいことがある。
そんなことは無かった。
ただ、奪われた。一方的に。何も悪いことなんかしていないのに。
毎日毎日、ただ、頑張っていただけだ。賢明に、過ごしていただけだ。皆のためを思って、辛い時も耐えた。笑顔でいるように努めた。自分の苦しみなんて、他の人に見せちゃいけないんだと思って歯を食いしばった。
それなのに。
同じように頑張っていただろうチームメイトにも何もない。自分がこのままチームに戻らなくても、他のメンバーをピッチャーにして、何も無かったように続けていくのだろう。ただ、自分だけが貧乏くじを引いて、自分だけが全てを失った。誰かのせいで。自分の負担に気付きもしなかった誰かのせいで、自分は全てを失った。
そんな気がした。
でも、そう思う自分も嫌だった。
「嫌だ、もう、何もかも、嫌だ」
そう言ってカケルが振り上げたこぶしを、アランはだまって受け止めた。何度も何度も、カケルはアランの胸を殴った。それはすぐに力を失い、ただ、アランの胸の上で止まった。すると、アランはそっと、その拳を自分の手で包み込んだ。
温かい。
温かい手だった。
カケルははっとして顔を上げた。涙は止まったけれど、まだ先に流れた涙が頬を濡らしている。その涙に、アランはそっとハンカチを当てた。
静かな、どこまでも静かな微笑みがそこにあった。
「カケル」
名前を呼ばれた。
一度収まったカケルの涙がまた、溢れて落ちる。さっきまでとは違う、透明な、そして、哀しい色の涙だった。
「ごめんなさい」
喉が詰まる。それでもどうにか声を絞り出した。どうあってもアランに謝りたかった。
アランを殴ったのは完全な八つ当たりだ。誰にも見せられなかった、自分の弱さ。アランがいなくなることを知って、それを出すことができたのは、自分の小さなプライド。どこまでも、どこまでも小さく、弱い自分。
「何も、悪いことは無いよ、ボクが、君にそれを許可したんだ」
アランは静かにそう言った。
「でも、」
カケルがそう言うと、アランは優しく微笑んだ。
「それで君が少しでも楽になったのなら、良いんだ。ボクは、そのためにここに来たのだから」
そこまで言うと、アランははっとして空を仰いだ。
「ああ、でも」
アランの顔が歪む。そして、カケルをぐっと抱き寄せた。まるで何かからカケルを隠そうとするかのように。そして、淋しそうに笑った。
「もう、時間がないみたいだ」
その時、急に辺りが真っ暗になった。
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