峠の人肉館

楠本恵士

第1話・峠の肝取り山賊

 これは、今は亡き祖母が生前、先代からまた聞きした話だと語っていた……不気味で怪異な物語でございます。

 

「近所の◯◯さんは昔、峠で山賊をやっていて……殺した人間の干したきもをクマの肝だと偽って。薬屋に売っていたよ」

 寝入りに床で聞かされた祖母の話でございます。


 関東大震災があった数日間……山をいくつも越えた遠方の東京方面が、夜になると炎で明るく見えた。


 満洲の地は大地から太陽が昇り大地に沈み。

 夜になると移民団の村には、満洲の馬賊がやって来るので、朝まで家の中で息を潜めて、馬賊が去っていくまで震えていた。


 そんな話に混じって聞かされた、峠で人を殺して、殺した人間の腹を裂いて肝臓を奪っていた男の話でございます。


 昔は今のように車両が通行できるほど、峠の山道も広く舗装もされてなく。

 夜になると真っ暗で寂しい、曲がりくねった塩尻峠〈塩嶺峠えんれいとうげ〉の道でございました。

 その山道で潜んで旅人が来るのを待つ男がおりました。

「ちくしょう、ヤブ蚊の野郎に刺されて、痒くてしょうがねぇ」

 男は茂みの中に作った風雨避けの簡単な小屋に潜んで、獲物の旅人がやって来るのを待ち構えていたのでございます。


「まだ月が出ている夜空だが、この雲行きだと朝方には雨が降るな……今夜は誰も来ねぇのか」

 男がそう思った時──峠の山道を登ってくる、大と小の提灯ちょうちんの揺れる灯りが見えたのでございます。

 雲に隠れていた月からの月光の中に、山道を歩いてくる、幼い子を連れた親子の行商人の姿が見えたのでございます。

 少し子供の姿に躊躇ちゅうちょした男ではありましたが。

 生活のために、歩いてくるのは人間の姿をした熊だと自分に言い聞かせて、何人もの血を吸ってきたナタの柄を握り締めたのでございます。


 男は行商人に悟られないように背後から、父親の首筋にナタを叩き込んで殺害したのでございます。

 山の樹葉に飛散る鮮血と、父親の絶叫が峠に響いたのでございます。


 突然の父親の死に、茫然と立ち尽くしていた子供に対して、男がこう言い放ったのでございます。

「父親だけが死んで、子供が残るのは不憫ふびんだな」


 男は無表情で、恐怖に両目を見開いて震えている子供の首を、父親を殺した同じナタでねたのでございます。

 男は切断した親子の首をやぶ奥の傾斜に放り投げて、残った体の方の着物を剥ぐと手慣れた様子で、父親と子供の腹を裂いて解体して、大小の肝臓を取り出したのでございます。


 月明かりの中、カゴに入れた血まみれの肝を眺める男の口から、小さく舌打ちする声が聞こえたのでございます。

「チッ、あまりいいものを食っていないから小ぶりなきもだな」


 男は殺した父親と子供の遺体を、いつもの犠牲者の遺体と同じように山の谷へと転がして落とすと、乾いた血がこびりついた顔で、こう呟いたのでございます。

「こうして山の谷底に転がしておけば、虫や動物が片付けてくれるだろう……腹が減ったな」


 男は山の湧水でカゴに入った肝臓を洗い、自分の体に付いた血も洗い流すと。

 血に染まった黒い着物を着替え、持参した握り飯で腹ごしらえをしてから。親子の肝を持って峠を下って行ったのでございます。


 それからも、男は貧しさから峠で老若男女、老人も若者も、男も女も問わずに殺害して肝を奪い続けたのでございます。


 そんな塩嶺峠から離れた。松本の地の浅間という場所に一軒の焼肉店があったのでございます。

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