第9話

 怪談を登る足音は夕闇に吸い込まれて、呼吸や心臓の音すら出しちゃいけないんじゃないかと思うくらい静かでした。夜の闇も暗いと思いますが、この校舎の光景を一度でも見れば、赤い夕陽が作り出す影の方がより暗く不気味さを感じられると思います。だって、すぐそこには光があるはずなのに、影の部分はその光が届いていない様に真っ黒だったんですから。そんな中を懐中電灯も無しに進むのはあまりに恐ろしく、私も田添君も半泣きでした。いえ、正直に言いますがやっぱり泣いていました。霊感があるわけではなかったのでオーラだったりは一切分かりませんし、危険を察知する能力なんてありません。それでも階段を登り近づくにつれて、微かに、より確かになっていく水の滴る音が、物語の進展を知らせている、そんな気がしていました。黒田さんを先頭に進んでいき、何事もなく三階に到着しました。早くも帰りたい気持ちでいっぱいでしたが、黒田さんの言う解決法があるのならと信じていました。使命感を持つ必要は無いでしょうし、その家系に産まれたから責任を取らなければなんて考えてはいませんでした。クラスメイトが被害にあわなければと、祖父を連れて行った霊がどんな存在なのかをこの目で見たい、私達なら解決出来ると考えていたのです。いつもと違うのは夕陽の色と角度が深い事と、誰が置いたのか分からない赤い上履きがバリケードの先にぽつんと落ちている事でした。引き返すならこの時しかありません。もしこのバリケードを越えれば、1歩でも教室に踏みいれば、帰ってこられないかもしれません。それでも私達は進みました。組まれた足をすり抜け、黒田さんが通れる隙間を何とか作りながら、この事件の爆心地である教室へとしっかりと向き直って、そしてその次の瞬間、意識を失ったんです。


「意識を失った? どうして?」

「突然頭に衝撃があって、そのまま床に倒れたんです」

「それは女の子の霊のせいで?」

「いえ」

「それじゃあ……まさか」

「はい……何を使って殴ったのかは分かりませんが、私達を気絶させたのは他の誰でもない、黒田さんです」

「そんな……どうして?」

「私にもすぐには分かりませんでした……目を覚ました時、まず感じたのは後頭部の痛み。突き刺す様な痛みと鈍く広がる痛みが同時に襲ってきて、その後チカチカと目の前が光り始めました。その光が黒田さんの携帯から放たれるライトだと分かるのに時間がかかって、それから黒田さんが何をしているのか分かるのにはもっと時間と痛みに慣れる必要がありました」


「黒田……さん?」

 私は目を覚ましましたが何が起きたのか分からない状態で、朦朧としながら目の前で作業しているらしき黒田さんに問いかけました。後頭部に感じる熱さが思考を邪魔してきます。黒田さんは大丈夫なのか、田添君はどこにいて被害にあっていないか。真っ先に浮かんだのはそれでしたが、意識がはっきりして目が暗闇とライトのコントラストに慣れてくると、それが間違いなのだと分かりました。田添君がうつ伏せにされて、後ろ手に紐でしばられていたからです。

「何してるんですか……?」

 と問いかけても

「すまない、こうするしかないんだ」

 と返されるばかりで、縛るのを止めてはくれません。状況を把握しようと立ち上がろうとしましたが全く動けず、そこでやっと私も縛られている事に気が付きました。それまで感じていた恐怖とはまた別の恐怖が私を襲い、混乱させました。私はとにかく助けを呼ばなければと叫ぼうとしましたが、口を押さえられ、加えて拳を振り上げる動作に委縮するしかありませんでした。黒田さんはまたしても謝罪を繰り返すばかり。私に叫ぶ意思が無いと分かると手を放してくれましたが、何故こんな事をするのか聞かずにはいられませんでした。すると黒田さんはこう答えたんです。

「南郷さんを覚えてる? そう……車で突っ込んできた人。あの人が言った言葉で分かったんだ。あんたが死ねば戻って来るって……つまり長住ちゃん、君をあの幽霊に引き渡しさえすれば梨香子は戻って来るって事だろ? 梨香子は僕の幼馴染で、そして当時、唯一幽霊の被害者だった。僕は彼女が戻って来るって信じて色々頑張った。もしかしたら情報が得られるかもしれないと思って役場にも勤めた。でも駄目だった。全然教えて貰えなくて、……そこに君が現れた。この幽霊を作り出した張本人の、その子孫の君が。こんな事ってあるか? 正直、君が子孫だと知った時にはやるせない気持ちになったよ……まあそんなことはどうでもいい。まあ話を聞く限りじゃ幽霊はまず間違いなく長住家に恨みを持ってるだろうからね、直接手を下す必要はなさそうだし、一石二鳥だよ。いや、むしろこれで幽霊がいなくなってくれるんなら一石三鳥だ。田添君は申し訳ないけど、邪魔されても困るしね、ついでに居なくなってもらうことにするよ……じゃあ、早速入ろうか」

 そう言って黒田さんは教室のドアを開けました。中は真っ暗で……懐中電灯の光も届かない……深くて……ドロドロとして……私は叫びました。田添君を起こそうと、助けを呼ぼうと叫びました。でも黒田さんが私の頭を何回か殴り付けて…………すみません、思い出したら辛くなってしまって。いえ、大丈夫です。私と田添君は引きずられて教室の中に入りました。カビと埃の臭いが充満している教室には、乱雑に片付けられた机と椅子があって、いつからあるのか分からない掲示物と、黒板には何年前にいたであろう生徒の名前が日直の欄に薄く残っていました。黒田さんは私達を教室の真ん中まで運んだ後、入り口付近まで下がり幽霊が現れるのを待ち構えていました。そしてそれは突然起こったんです。


 どこからかゴボゴボと水が湧き出る様な音がしたかと思うと、田添君の体が痙攣し始め、口からどす黒い水を吐き出し床を黒く染めていったのです。長住さんはそれに当たらないよう身をよじりましたが、水の勢いは凄まじく、長住さんの服は汚れていきます。辺りにはドブの臭いが充満し、吐くほどだったそうです。

明らかに人一人分以上の水を吐き出した田添君はそのまま動かなくなり、一瞬静寂が教室を満たしました。


 ぽちゃん


 いつの間にか黒い水溜まりの上に片方だけの上靴が浮いていました。

 もう一度


 ぽちゃん


 と教室に響いた音は、長住さんの背後から聞こえてきました。

 震えながら頭を動かすと、視界の端に誰かが立っていたのです。

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