第3話

 彼の名前は久保君と言います。くぼではなくひさよしと読みます。久保君はクラスの中でも比較的大人しめで、きちんと会話こそするものの休み時間には外で遊ばずに読書に耽る様なタイプでした。彼と話したのは噂が流れ始めてからで、それも「僕も聞いたよ、僕の名前を呼んでたんだ」とたったそれだけでした。その彼が、本当に呼ばれてしまったんでしょうね。真似をした訳ではありませんが、私もパクパクと口を開けて驚き呆けて立ち尽くしてました。勿論水を飲み干す事など出来ず、コップから溢れ出る様に大量の水が教室の床に流れていきました。恐怖もありましたが俯瞰して見ている自分もいて、その自分は「何だか墨汁の噴水みたいだな」と感想を抱いていました。浸けすぎた筆と半紙みたいに、床にも天井にもどんどん黒い染みが広がっていくんです。床も天井も全てが真っ黒になろうかという時、突然体を揺らされはっとしました。すぐ後ろで担任が私の名前を何度も叫んでいたんです。


 廊下では誰かが呼んだのか教師がこぞって駆けつけ、他の学年の先生が生徒達を階段より下まで移動させました。バリケードを越えて入って来たのは菊池君の担任と教頭先生。教頭先生は入るなり廊下の電灯を叩き割り、辺り一面に米を撒き散らし、何か文字の書かれている御札の様なものをドアや壁に貼り付けていたそうです。呆然としたままの菊池君は担任に抱えられ、教室を出、生徒達の視線を両側から浴びながら職員室へと連れていかれました。

 こういう場合に起きた「見間違い」は大抵見間違いではないと私は思うのですが、廊下に出る前のほんの一瞬、大量の黒い影が教室に蠢いていて、それらが久保君に向けて歩いて行く様な気がしたと言います。真っ黒な教室の中で更に黒く暗く、闇に溶けて輪郭はぼんやりとしているのにそこにいる事だけは分かる。そういう、何か。

担任は職員室に着くなり菊池君の服を脱がし、どこからか取り出してきた大幣(おおぬさ)で背中を叩き始めました。大幣と言うのは神主が祈祷する時に手に持っているあれです。何やってるんですかと聞きましたが担任は「静かに」と答えるばかりで、パサパサと紙が当たる感触がただ背中にするのをただじっと感じていました。


 突然の事でしたしなされるがままだったんですけど、異様な光景でしたよ。上半身裸の子供の背中にバサバサ叩きつけながら、その横で他の教師は手を合わせて一心に祈ってるんですから。家庭的に宗教とかそういうものには無縁でしたからただただ怖かったですね。しかも先生達はこの学校に存在する「 何か」を知っていて、と恐らく近辺の大人達もこの事を知っている訳です。時折見せる妙な一体感はこれのせいだったのかと納得しました。それから大幣で叩かれ続けて1分か……もう少し長かったですかね。ちょっと混乱してその辺は曖昧なんですけど、とにかく、それくらいの時間が過ぎた頃に気が付いたら目の前が真っ暗で、見たことも無い部屋に寝かされていました。どういう事?って思いますよね。安心してください私も同じ気持ちです。覚えてるのは大幣が当たる感触の共に、ヒンヤリと冷たくてベチャッとした感触が背中全体に広がった事くらいで、痛みとかは全くありませんでした。そして気付けば板張りの広い部屋に寝かされていたんです。自分の部屋じゃない事はすぐに分かりましたが、そこがどこかは見当がつきませんでした。枕元にある昭和風の間接照明が細々と点いていましたが、その光は部屋の奥まで照らしておらず、あの教室で見た混沌とした暗闇がありました。1人で暗くどこか分からない場所にいる状況に心底怯え、助けを呼ぼうにも声は掠れ、掛けられていた布団を抱きしめる他ありませんでした。先に伝えておこうかと思いますが、ここから先は聴いた話になります。肩透かしの様で申し訳ないです。と言うのも、私が寝ていた場所は山奥にある、とある寺の御堂だったのですが、それから1ヶ月もの間そこから出る事が叶わなかったんです。


 翌日両親が「何かが自分を狙ってやってくる」と伝えられた菊池君は、1人で泊まる事になったそうです。初め嫌々だった菊池君も初日の夜を迎え、朝日を見る頃にはその考えも変わりました。

 御堂の外から夜な夜な聞こえてくる自分を呼ぶ声が、開かずの廊下から聞こえてきた声と一緒で、朝、御堂を囲む外廊下に出ると雨は降っていなかったにも関わらず、ずぶ濡れの誰かが歩いた様になっていました。

 そしてその空白の1ヶ月を語ってくれたのは、同じように声が聞こえ、名前を呼ばれた長住さんという方でした。



 菊池君が運ばれるのを見送って、続けて久保君が運ばれて来たんですよね。いじめ?って思うくらい全身真っ黒で運ばれて来て……凄く臭かったんです。ヘドロとか卵が腐ったとかじゃ言い表せないくらいに。

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