虚影心中
まんじぅ
第1話
「消えたい。」
「死にたい。」ではない。ただスッと居なくなりたいのだ。誰にも迷惑をかけることなく、知られることなく。
外界の人工的な明かりと月の弱い光を頼りに淡々と手首に模様を増やしていく。冷たく鋭利な刃をあてて軽く線を引くように引けば鮮烈な紅い玉が生まれて、重力に従って崩れた。機械的にそれを続けて傷口からこれまた作業のように白い脂肪を引き摺り出す。満足したところで後処理を済ませて、何とはなしにSNSを開いた。しっかりとネットに依存した現代人である。
自分のアカウントはゴミのような感情の廃棄溝として機能している。時系列に沿って自分の投稿を遡っても綴られた内容に大きな変化は見られないのでこれといって見ていて面白味はない。
ふと端末の画面の隅を確認すると夜中の十二時まであまり時間がないことに気が付いた。約束に遅れてしまう。慌てて捲くりっぱなしにしていた袖を元に戻して部屋の明かりをつける。人工的な明かりに目が慣れず、その眩しさに目を瞬いた。洗面所の鏡でできる範囲で身だしなみを整えて、パソコンの電源を入れてチャットツールに入室した。相手は既にトークルームで私を待っていたようだった。
「こんばんは。時間ぴったりだね。」
鈴を転がしたような声がイヤホン越しに聞こえる。画面の上には自分自身のSNSのアカウント名、そして中央には通話の相手である彼女のアカウント名の《COCO》が記載されている。
「なんだか元気ない?またやっちゃった?」
私が肯定を返すと困ったように、そっか、と笑った。SNSを介して知り合った彼女は私のよき理解者だ。私の気持ちに寄り添ってくれる。
「ちゃんと消毒できた?」
これにも私は肯定で返事をする。彼女が私の気持ちを受け止めてくれているおかげで私の新しい傷跡は少しずつだが減少傾向にある。彼女と出会う前は切った後の消毒なんて考えることは無かったし、誰かに宛ててこの気持ちを吐き出してしまおうなんて思わなかった。今まで私を立ち直らせようと躍起になっていた周りの人間はみんなして腫れ物に触れるように接してきたので、大抵は「みんなそうだよ。」とか、「命を大事にして。」だとか、「頑張って。」「生きていればいいことがあるよ。」などとありきたりで心を抉るような、憐れむような言葉しかかけてくることは無かった。その手のありがたいお言葉は飽きるほど聞いたが役立たずに等しかった。「みんなそう」ということは、暗に「私が弱いだけ」なのがまざまざと突きつけられるし、自分の「命を大事に」なんて自分自身に嫌気が差している私が出来るわけがない。自分の命くらい好きにさせてほしい。私が思う限界まで「頑張った」のに、最後には心がひしゃげてしまった。だからもうこれ以上は「生きて」いたくないと思っても生理現象は今なお私を生かし続けている。走行中の車や電車を見ればその前に飛び出してしまいたくなるし、高いところに登れば重力に身を任せてしまいたくなる。一丁前にそんなことを考える癖に実行する勇気がないのだから傍から見たらお笑い種だろう。私に向けた言葉が何の意味も成さないと理解した人間は最後には匙を投げていつの間にかいなくなっていた。そうして本当に他人から見放されて独りになったときに出会ったのが《COCO》だった。精神を病んで自暴自棄な行動を繰り返していた私に残っていたのはSNSで知り合った顔も知らない《COCO》だけになっていた。
取り留めのない話をマイク越しに続ける。友人と昼下がりの喫茶店でひざを突き合わせてお茶を楽しむように画面越しに話に花を咲かせている。今日はこんなものを食べたとか、夕陽が遠くの空で霞んできれいだったとかそんなことばかりだ。私は殆ど外に出ていないので、日向のような暖かさを持つ彼女と接することで少しだけ心にやわらかく日光が射したような心地がする。
この関係はそれなりに続いているものだが、直接、所謂リアルで彼女を見たことは一度もない。コミュニケーションはいつも文面や声のみなので、どんな姿なのかも知らない。画面越しでなく隔たりを取り払った状態で顔を会わせて話したい。手を握らせてほしい。いや、初対面で(正確には微妙なところだが)いきなり触れるなんて真似をすれば彼女を驚かせてしまうだろう。そもそも私のような者が無遠慮に触れてしまえば彼女を穢してしまうような気がする。そんなことは絶対にしたくはない。ただそばにいて陽だまりのような眼差しで私をその目に映してくれるだけで十分だ。
彼女には失礼かもしれないが、私はいつも彼女の姿を勝手に想像して会話をしている。女性特有の高めの声だが、だからと言ってキンキンと頭に響く耳障りな話し方はしない。やっと寝床についた子どもに寝物語を聞かせているような、包み込まれて守られているような優しさが感じられる。
彼女に会いたい。どうすれば自然に伝えられるだろう。それとなく会話を続けながら足りない頭の隅で忙しなく思考が巡る。思い描いた彼女は私に慈愛に満ちた笑みを向けている。私の下手な提案のせいで彼女の表情を曇らせるのが今は何よりも恐ろしい。そんなことになったら私は立ち直れないだろう。そもそもこんなにも会いたいのは私だけなのかも知れない。私が一人で舞い上がっているだけなのかも。最近の彼女との会話中の脳内はいつもこんな風に堂々巡りしている。ただ一言「会いたい。」と口にすればいいだけのことが恐ろしいことに思えて、今日も結局その言葉を伝えることは出来なかった。
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