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はじめての会食以来、一ヶ月に一回程度、父と彼女と三人で一緒に食事をすることになった。父はいつのまにか、私の前でも彼女のことを「さっちゃん」と呼ぶようになっていた。おそらく「祥ちゃん」と読んでいるつもりなのだろうけれど、慣れきった呼び方で、周りからはどうしても「さっちゃん」に聞こえた。私はそう呼ぶのはどうも馴れ馴れしすぎる気がして、「祥さん」と呼び続けた。父も彼女も何も言わなかった。
三回目の食事会の終わりぎわだった。彼女は「遠いけど、よかったら来て」と市立美術館の割引チケットをくれた。彼女は市立美術館に勤めているらしい。興味があればでいいからねと言われたが、せっかくのチケットを使わないのも申し訳ないので、私は後日、市立美術館に足を運んだ。イチョウの葉が降り注ぐコンクリートの階段をのぼり建物の中に入ると、受付に彼女が座っていた。彼女はすぐに私に気づき、手をふってくれる。私は頭を下げながら、もらったチケットを渡す。彼女は黒いスーツで、パーマがかった髪を後ろで一つにまとめており、食事会のときとは違って、いかにも仕事ができるキャリアウーマンといった装いだった。
「来てくれてありがとうね。もし時間があったら、観覧後に一緒にごはんでも食べない? カフェのランチ、安くて美味しいの」
彼女が指さす先には、美術館に隣接されているカフェの入り口があった。私はとっさに「ぜひ」と答えて、順路に従って展示室へ入った。彼女は私の後ろ姿を見送ってくれた。
薄暗い展示室は埃っぽい木の香りがした。白い壁に飾られているのは、すこし前の時代に生きたヨーロッパの抽象画家の作品のようだった。色とりどりのカンバスに、細い線だけが描かれた絵もあれば、四角形が画面に散りばめられている絵もある。音声ガイドは使わなかったから、画家がどういう意味や想いを込めてこれらの絵を描いたのか、私には一つもわからなかった。
そのあと、彼女と二人でカフェに入り食事をとった。私がハンバーグランチを頼むと、彼女も同じものを注文した。二人きりの食事はこれがはじめてで、何か話さないととは思うのだが、会話の糸口が全くつかめない。三十五歳の女性は、何を考え、何を話すのだろう。少なくとも今期の単位は履修できそうかとか、サークルで一緒だった誰々が付き合い始めたらしいとか、そういう話ではないことだけはわかる。私はハンバーグをナイフとフォークで切り分けながら、脳をフル回転させていた。
「そういえば」
彼女はフォークでレタスとトマトを一緒に突き刺しながら切り出した。
「今日の展覧会、どうだった? ほら、抽象画家の作品って、わかりにくいってよく言われるから」
私は口に頬張ったハンバーグをあわてて飲み込む。
「そうですね。私も正直、抽象画ってあまりわからなくて……」
正直に答えると、彼女はうんうん、と頷きながら聞いてくれた。
「そうだよね。今日の展覧会はパウル・クレーっていう画家の作品だったんだけど、彼の作品は独特だからどうとらえていいのか難しいよね」
それから、彼女はパウル・クレーについて教えてくれた。様々な画家に影響を受け、独自の個性を確立した人であること、色彩と線の使い方が評価されていること。そう語る彼女の目は輝いていた。アートが好きなのだということが肌でわかる。アートにうとい私はへえ、とか、そうなんですか、と相槌を打ちながら、彼女とどんどん距離が離れていくような気がした。デミグラスソースの油が舌にまとわりついて、うまく言葉がでなかった。
食べ終わってお手洗いに寄ると、いつのまにか彼女が会計を済ませてくれていた。私も財布を出したが、「私が誘ったから」と頑なにお札を受け取らなかった。私の財布を軽く押しのける彼女の手はよく手入れされているのか、艶やかで柔らかかった。
枯葉が樹木から落ちきった頃、父に呼び出されて久しぶりに実家に帰ると、家が整理整頓されていた。積み上げられていた本は棚に片付けられ、大量の書類はビニル紐でくくられていた。母の介護ベッドはいつのまにか姿を消し、綺麗なままの床が顔を出していた。
「これ、いるものがあれば持っていってもいいよ」
父が差し出した白い紙袋には、古びた調理道具が入っていた。四角や丸のケーキ型や泡立て器、スケッパー、サイズが違ういくつかのボウル。秤やハンディミキサー、レシピ本まで入っていた。母のものだった。
「捨てちゃうの?」
「綾香がほしいもの以外は捨てようと思って。俺は使わないし、置いておく場所もないしね」
彼女の荷物を置かなきゃいけないから?
そう口にしそうになって、私はあわてて口をつぐんだ。当然だ、父はこれからこの家で、彼女と一緒に第二の人生を歩むのだ。母のものを大切に残していれば、彼女はさぞ複雑な思いを抱くだろう。それくらい、私にもわかる。でも父は、この家から母の面影がなくなってもいいのだろうか。いいのだろう。きっと母の穴は、彼女が埋めてくれるのだ。私の胸に空いた穴は、到底彼女で埋まりそうにはない。目の前の調理器具を捨ててしまうとその穴が広がってしまいそうで、私には捨てることができない。結局、私はもう使えない家電類だけ捨てるよう父に頼み、それ以外の調理道具は自分の一人暮らしの家に持って帰ることにした。
十二月に入ったばかりの頃、父から連絡があった。そろそろ三人で食事に行かないか、と誘われたが、「大学のテストと家庭教師のバイトで忙しい」と断ると、父はそれ以上なにも言わず、じゃあまた来月に、と電話を切った。
私はワンルームの角に置いていた白い紙袋に手を伸ばす。年末までに、母の調理道具を整理したかった。それぞれ古びてはいるが錆などはなく、代わりに細かな傷や、小さな凹みがあり、どれも使い込まれていることがわかる。記憶の中の母はたまに家でお菓子をつくるくらいだったと思うから、もしかすると私がもっと幼いときや生まれる前によく使っていたのかもしれない。レシピ本をパラパラとめくると、あるページが目に留まった。「ふんわりおいしい揚げドーナツ」と書かれている。画素の粗い写真に映るドーナツは、母がつくってくれたドーナツとよく似ていた。
私は思い立ち、ドーナツの材料を買い揃えることにした。レシピ本の材料が書かれた箇所をスマホで撮影し、スーパーで一つひとつ集めた。
家に帰った私は腕まくりをし、狭いキッチンに立っていた。手を洗い、必要な調理器具を揃える。秤の針がさす数字を慎重に確認しながら、ボウルに材料をとりわけていく。それだけでも、ふだん簡単な自炊しかしない私には難しい。時間をかけて、すべての材料を正確に量ることができた。
それらをレシピに書かれた順番に混ぜて生地にし、冷蔵庫で休ませ、まな板の上に生地を伸ばしていく。手にはひんやりとした生地の温度と、粉のさらさらした感触が伝わってくる。洗って乾かしておいたドーナツ型で、生地をくり抜いていく。
あのときの母の手を思い出す。水や油や乾燥に負け、決して綺麗ではない、カサついた手。でも丁寧に私の髪を撫でつけ、料理をし、洗濯をし、掃除をし、私の手を引いてくれた温かな手。その手には、指輪が輝いたところなど一度も見たことがなかった。結婚指輪は、鏡台の上に慎ましやかに、そこにあるのが当然かのように置かれていたことを覚えている。
ドーナツがサラダ油の海にダイブすると、しゅわわ、と音をたてた。揚げ物ははじめてで緊張したが、存外おとなしく油の中を漂っていた。ドーナツがゆっくりと色を変えていくのをそっと見守る。ひっくり返せば、見たことのある狐色をしていた。
揚げ終えたドーナツに砂糖をまぶす。見た目が不恰好なことを除けば、幼い頃に母につくってもらったものと似ている。おもむろにひとくちかじる。途端、舌の上にざらりとした砂糖の甘さと油分が広がった。中身のない、空虚を食べている気持ちに襲われた。
「これじゃない」
不意に言葉がこぼれた。手の中のドーナツはまだほんのりと温かかった。
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