母のドーナツ

高村 芳

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 母との想い出でいちばん印象に残っているのは、家でドーナツをつくったことだ。私はまだ小学校にあがる前だったと思う。休日なのに父は仕事で家におらず、退屈をもてあましていると、母が急に「ドーナツでもつくろうか」と提案してきたのだ。私は「つくれるの?」と母に尋ねたのだと思う。当時の私にとって、ドーナツは家族で外出したとき、たまにチェーン店で買ってもらえる特別なお菓子だった。それが家でつくれると聞き、私は俄然興味が湧いた。手を叩き、母を急かして台所に追いやった。


 母は慣れた手つきで材料や道具を準備する。白い粉が数種類、バター、卵、牛乳、サラダ油。ふるいにボウル、ゴムベラ、麺棒、ドーナツ型、鍋。いつもは開くことのない台所の戸袋から、見たことがない道具が揃えられていくのを見て、これからどんな魔法が始まるのだろうとワクワクした。母は腕まくりをすると、私のシャツを同じようにまくり、一緒に手を洗った。


 ボウルに卵、砂糖、牛乳、溶かしバターを加え、よく混ぜる。母の隣で椅子の上に立ちながら、私は刻一刻と色が変わっていくボウルの中に視線をそそぐ。母は何も見ることなく、頭の中のレシピをめくりながら、材料を手際よくまとめていった。最後にふるいにかけた白い粉を加えて切るように混ぜたら、生地をいちど冷蔵庫に入れる。母は「ドーナツさんにちょっとお休みしてもらうの」と笑った。一時間ほど休ませたら、まな板に打ち粉をし、生地を麺棒で伸ばしていく。平になった薄黄色の生地を前にして、母は私の名を呼ぶ。


「さあ、綾香。手伝って。この型で生地をくり抜くの」


 母は背後から私の手をとり、ステンレスのドーナツ型で生地をくり抜いて見せてくれた。生地の上から型をグッと押し込むと、そこにはぽっかりと穴が空く。手の中の型には、二重に切り抜かれた生地がくっついていた。外側の生地を慎重に取り外し、アルミ製のバットの上に並べていく。そうしてできた生地を、母が油で揚げるのを私は遠巻きに見ていた。からりと揚がった狐色のドーナツに、母はこれでもかと砂糖をまぶした。まだ湯気が出ているドーナツを掲げて、母は「できあがり」と、頬にえくぼを浮かべながら笑った。


 そうしてふたりでできたてのドーナツを食べた四年後、母は病気で死んだ。私はあのときのドーナツの味を、いまも思い出せずにいる。



 母が亡くなって十年後、私が二十歳になって間もない夏の夜、私は彼女とはじめて会うことになった。一人暮らししている部屋の最寄駅から電車で四十分ほどかかる、新幹線が停車する大きな駅に隣接したホテルのレストランが待ち合わせ場所だった。電車を降りた瞬間、むわっとした空気が肌にまとわりつく。私はバッグから取り出したタオルハンカチで首元の汗を拭いながら、慣れない高級ホテルまでの道を案内板で確認した。


 一週間前に、父から電話があった。一緒に食事でもしよう、紹介したい人がいるんだ、と言われて、私はその人がどういう人なのか察した。「どういう服を着ていけばいいの」と聞くと、「別にいつも綾香が着ている服で大丈夫だよ」と父は笑う。そんなわけないだろう、私でも知っている高級ホテルのレストランに大学に着て行く服で行くわけにはいかない。もう大人なんだから、それくらいわかる。従姉妹の結婚式に出席するために買った白地に紺のストライプ柄が入ったワンピースをクロゼットの端からひっぱりだして、袖を通した。結果的に大失敗だった。七分丈のパフスリーブは、夜景が見えるレストランではどこかこどもっぽく見えたし、真夏には暑かった。


 レストランの前で前髪が乱れていないか手鏡で確認しながら待っていると、約束していた時間の五分前に、店の斜向かいにあるエレベータの扉が音をたてて開いた。出てきた父は私を見つけて片手をあげる。父の後ろに、白いざっくりとしたブラウスにベージュのロングスカートを履いた、見知らぬ女性がいた。それが、彼女だった。私は父に倣って片手を軽くあげた。


「待った?」


 父の言葉に「全然」と答える。父は「とりあえず入ろう」と、店員に声をかける。父が店員に案内される背中を眺めていると、「お先にどうぞ」と彼女から声がかかった。その声は思ったより低かった。私は、あ、はい、と反射的に返事をして父の後を追う。彼女の目の前を通ると、柔らかな柑橘系のコロンの香りがした。


 四人がけの個室からは、駅の周りに並んでいるビルの灯りが眼下に広がっていた。私の向かいに、父が座る。そしてその隣に、彼女が座った。彼女は額の汗をレースがついたハンカチで拭いている。


 父はまずスパークリングワインを注文した。いつも家ではビールを飲んでいたから、すこし驚いた。店員は持ってきたワインボトルを傾け、無駄のない所作で私、父、彼女の順にその爽やかな色をグラスに注いでいく。店員が個室から出ると、父はグラスを掲げた。


「紹介するよ。彼女が、森下祥さん。こっちが、娘の綾香。今日は顔合わせってことで、まあ楽しくごはんを食べよう」


 父は緊張した面持ちの彼女を、私よりも先に紹介した。就職活動中のゼミの先輩が、「初対面の人がいたら、まずは身内から紹介して、あとで目上の人の紹介するらしいよ。どっちでもいいよね、こんなの」と笑っていたことを思い出す。父にとっては、私より彼女の方がもう身内なのだろうか、と思った。乾杯し、私は薄いワイングラスに口をつける。ブドウとアルコールでできた上品な液体はやけに舌に絡まった。彼女がワイングラスを置いてから口をひらく。


「はじめまして。今日はお時間とってくれてありがとう。綾香ちゃん、って呼んでいいかな?」


 チークのせいか暑さのせいか、彼女の頬が赤かった。パーマをかけた短い前髪が、汗で額にはりついていた。私は、はい、とだけ答えた。


 人生で何回目かのワインをちびちび飲みながら、慣れないフレンチのフルコースを出されるがまま食べる。父の顔はみるみる真っ赤になっていった。いつもよりお酒を飲むペースが早かったせいだろう、店の雰囲気にそぐわない大きな声をあげて笑っている。


 私は彼女と何を話していいのかわからず、彼女に質問されるがまま順番に答えていた。大学では言語学ゼミに入っているとか、テニスサークルをこのあいだ辞めたとか、家庭教師のバイトが忙しいとか。当たり障りのない話を、彼女はうんうん、と頷きながら聞いてくれた。だからか、彼女の料理の進みがいちばん遅かった。


「祥さんはおいくつなんですか?」


 会話の流れで、私は唯一気になったことを彼女に聞いてみた。


「今年、三十五になるの」


 私が二十歳、父が今年で四十八歳。私と父の分水嶺は三十四歳。一つだけ父に近い、これから私の義母になる彼女。単純にそれを確認したかっただけで、若すぎるとか文句をつけたいわけじゃない。私は心の中で彼女に言い訳しておいた。


「綾香。お父さんな、祥さんと来年の春に籍を入れたいと思ってる。認めてくれるか?」


 メインの肉料理を食べている最中、突然、顔を真っ赤にした限界一歩手前の父がそう言った。彼女の転職や引越を終えて環境が整ってから籍を入れようとしているのだという。父は真剣な目をしていた。認めるも何も、母が亡くなって以来、自身を犠牲にしながら私を育ててくれた父が新しい幸せを見つけたというのに、祝わない話があるだろうか?


「祥さん、こんな父ですけど、よろしくお願いします」


 今朝から何度も、この言葉を伝える練習をしていた。無事に言えたことにほっとしていると、彼女は「こちらこそよろしくね」とハンカチで目元を拭っていた。綺麗に引かれていたブラウンのアイラインがすこし滲んでいた。父はそんな彼女の背中をさすりながら「ありがとう」と呟いた。


 会食はお開きになり、二人とはホテルのロビーで別れた。夜遅くなることを見越してこのホテルに部屋をとっていたのだと言う。足元がおぼつかない父の腕を、彼女はしっかりと支えてくれていた。


 私はロビーを後にし、大学近くの自分の部屋に戻る帰路へとついた。電車に乗り、すこし酔いを感じながら、右から左へ流れていく車窓からの景色を眺める。瞼を閉じると、父を支える彼女の手に光るゴールドの指輪が思い出された。

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