[2] 退屈
退屈というのは人間にとって、いいものだろうか悪いものだろうか? 僕の場合はどうも悪く作用したものらしい。そんなわけでそれが僕が今ここにいる理由である。生きているということを惰性で進めていくのは思ったよりつらい。何か目標みたいなものを設定しておいたほうが、よっぽど生きていきやすい。だらだらと過ごすことというのは妙にスキルが必要になる。
ああなんだって、どういうことだかわからないって、そりゃそうだろう。肝心なことを言い忘れて適当なことをくっちゃべっていたのだから。なんか退屈だった僕はあの噂のペインターを深夜のビル街に捕まえに来たのである。常になんやかんやと暇している僕はそういううさんくさい話を聞くのが好きで、その真偽が曖昧であったりするととことん調べてみたくなったりするのである。
ペインターがどういってなにでなんなのか、それを確かめるために一番てっとりばやいのは勿論そいつをとっつかまえてみることだ。いやそんな風にちょっと思ったりするんだけど、それって存在する場合は有効だけど、存在しない場合ってつかまえようとしてもどうにもならないんじゃないの? 確かにそうだ。まあ僕というのはそこまで深く考えていないということだ。
とにもかくにもペインター、身体的特徴は一切あきらかでない。裏をかえせばなんらかの怪物であったりしないということは確かということかもしれない。頭にドリルが生えているとか、右腕がマシンガンに変形するとかいう特徴があるなら、そっちのほうが話題にのぼらないほうがおかしいだろう。それならこっちが素手でいってもまあそれなりに安全ってことだ。一方で捕獲しようというときになんの特徴もわからないというのは少し不安。ただまあ現行犯でいけばなんの問題もない。ペインター以外にビルを塗って喜ぶやつはいないだろうから。
そんなこんなのうちに1時間たち2時間がたち、僕はついにここが正念場だとばかりにあきらめかけることにした。だいたいの物語のパターンとして、あきらめかけたところにその目標というのは現れるものだから。一番遭遇確率が高いのはそこだ。深呼吸をすると僕は、そこの角にいなかったらもう帰ることにしようとか思いながら、そこの角というのを曲がってみた。
暗闇の中で僕は一瞬見間違えたかと思った。驚きに僕はまばたきを繰り返す。何度か閉じて開いてをやったところで現実は入れ替わらない。視界の中心にはどでんと真っ赤な塔が立ち上がっていた。鼻腔に漂いこんでくる濃密なシンナー臭。間違いなかった、ペインターが現れた。そう思うと同時に僕はまた発見していた。その赤い塔の根元に、たった1つの人影を。
直線に結ばれた2つの人影、僕とペインター。僕が気づくのと同じようにペインターも僕の存在に気づく。刹那の間だけ2人の体は硬直する。そして同時に動き出す。僕は追うために走り、ペインターは逃げるために走る。いや正確にはペインターは単に高速で移動していた。その影はとても走っているというようには見えなかった。足も手も特に動かした様子はなく、ただペインターの体だけが夜の中を滑ってゆく。理解できない光景だった。けれどもそれがペインターなのだと、深夜の都市怪人なのだと、余計に僕の中では確信が湧き上がった。
僕は今それに接近遭遇しようとしている。その正体を見極めようとしている。血は滾り沸騰する。興奮が抑えきれなくなる。ペインターの速度にあわせて体が無限に加速していく。筋肉がきしむ。骨がたわむ。血液は急速に循環し、エネルギーをそれらに分け与える。心臓はもはや、外の世界の音の一つと化した。とても自分が鳴らしているとは思えないくらいに騒々しく騒ぎ立てる。僕は追いかける。伝説の姿を求めて。
いつしか僕は気づく。夜が終わらないことに。どこまで追いかけてもペインターに追いつく気配がないことに。僕がとっくに限界を飛び越えて、人間には考えられない速度に達していることに。そして、自分の走る場所が地球上ではなくまったくの暗闇、宇宙空間であることに。重力の井戸を抜け出して、まったくの自由に投げ出されていることに。目標としたペインターの姿をなくしてしまったことに。
それでも僕は手を足を動かすことをやめることができないでいる。太陽風の噂に聞いた。宇宙ステーションのステーション伝説にこんなのものがあるという。テキサスの素走り男。走りに走りすぎて宇宙速度すら越えてしまった男。宇宙空間に漂いながらまだ走っている男。それはきっと僕のことだ。ただテキサスというのがなんのことだか、僕にはわからない。
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