第31話 動き出す陰の思惑
── シュトラウス領 ライアット邸 ──
窓辺に立ち、遠く空を見つめる一人の男。
漆黒のローブに身を包み、その腰には蒼水晶が輝く煌びやかな銀色の杖を佩いている。
長い銀髪をかき上げながら、重い溜息をついている彼の名は、
ジェルドマン・ライアット。
爵位ではライアット候として崇められ、現シュトラウス領の領主にして、最強の魔法使いの名を欲しいままとする唯一無二の存在。
彼は唇をぐっと噛み締め、過去から
遡ること10年前──あの日、初めてフィットリア領内で感じた、異質な魔力。
(あれはこの世のものではない……。あの場にいた者達全ての魔力を合わせたとしても、到底及ぶものではなかった。あれこそ、神の力に違いない……)
ジェルドマンは今も変わらず、その存在を信じ続けていた。
外は雨。
降りしきる大粒の雫が、激しく窓に叩きつけている。
窓を打った雨は跡を残して流れ落ち、窓枠にあたって溢れ出す。
まるで、涙のようだ──彼の目にはそう映っていた。
「空が泣いているな……」
ジェルドマンは独り言ち、感傷に浸っていた。
自身の力を完全に否定された過去を思い出し、虚空を見上げたままに奥歯を噛み締め、血が滲むほどに拳を握った。
「だがようやくだ……お前との決着、その因縁も次の魔技大会で確実に終わらせてやる。貴様など、私の足下にも及ばぬことを、今度こそ世界に知らしめてやるのだ。せいぜい指を咥えて待っていろ、赤子のようにな、クククク……ダルヴァンテよ」
彼は確固たる決意を零し、雨粒の表面に愉悦の表情を浮かべた。
だが、その顔にはすぐに暗い影が降り立つ。
「くっ……ダメだ、ダメだダメだダメだ、何故、私が!」
屈辱の敗戦──ジェルドマンのプライドがズタズタに引き裂かれた、フィットリアの反乱事件。
一度は奪ったフィットリア領を、一人の男の反乱によって奪い返された過去──。
いつも頭をよぎるのはこのことばかりだ。
どんなに気分がよくとも、感情を喜びへと振ろうとも、あの呪縛からは逃れられない。
たった一人の名もなき領民だったダルヴァンテ──その奴に、
悔しいとか、そのような生温い思いではない。
(──私の中にあるこれは、怨恨の域)
当然と言えば当然だ。
彼の人生はあの日を境に、大きく狂いだしていた。
……
………
…………
頭は下げるものではなく、下げられるものだ──ジェルドマンは常々こう思っていた。
しかし、先代の頃から長年、同盟を結んでいたヴェゼナ領の領主からは、
『ライアット候、我らとの同盟は一次中断といたしましょう。いえ、ブゥワハハッ……これは失礼。やはり中断は辞め、破棄のほうがよろしいかも知れませぬなぁ~。雷神と恐れられた貴方が、よもやあのような失態を犯されるようでは──同盟領として他領への牽制どころか、顔向けすらも出来ませぬからな』
と、嘲笑うように見下げられ、彼の心は
何一つ言い返せなかった。
敗北は紛れもない事実であり、当時の有様では、他領と事を構えることは得策ではないと判断していた。
彼自身の力はもちろん、領としての力も失われ、戦う余力など微塵も残されてはいなかったからだ。
ダルヴァンテとの戦い一つで、多くの兵を失い、次第に領民達の忠誠心さえも離れていった。
強さこそが、この世界の絶対的
そう信じて疑わなかった己が信念──その中心に君臨していた彼が、たった一人の男の前に屈してしまった。
フィットリアからの撤退以降、周辺領からの度重なる威嚇や言動に晒され、苦悶の日々は続き、挙句の果てには、
『シュトラウス領も落ちたものだ。先代のトラウスラー様の頃はこのようなことは一度もなかった』
『ああ。あのドラ息子。たまたま自身も同じ〝雷〟という最強種の属性を得たからといって、図に乗り過ぎた。魔力量では我らにすら遠く及ばぬと言うのに──』
『フハハ、確かにな。どうだ? ここは一先ず、手を組んでヤツを引きずり降ろさないか? 我らにも領主となる権利がある。恵まれた属性、ただそれだけの男にこれ以上、頭を下げ続けるのは、ワシはもう御免蒙りたい』
『ハハハハ、それは言えてますな』
身内である貴族連中からも陰口を叩かれ、彼らの陰謀めいたことにも頭を悩ませてきた。
──今は、時が来るのを待とう。
ジェルドマンは消耗しきった魔力が戻るまでの間、誰にも知られぬよう、ただ一人、屋敷の地下やそこから伸びる地下迷宮へとひっそり身を潜めた。
彼が人前から姿を消して幾月。
貴族連中は勿論、多くの領民達も、領主は失踪したと歓喜に満ちていた。
恐怖による圧政が終わりを告げたのだと、毎夜のように街総出の宴会が続いていた。
時の流れは早く、一年ほどの年月が過ぎた頃、屋敷の周囲は大きく様変わりしていたが、ジェルドマンの屋敷だけは何ら変わらず佇んでいた。
ジェルドマン自らが最後の力を振り絞って張り巡らせた魔法結界によって、何人たりとも手を付けることができなくなっていたからだ。
そんな開かずの扉となっていたライアット邸の扉が、「ギィィ―」と重たい音を立てて開くと、街ゆく群衆は驚いたように、その奥へと視線を注いだ。
姿を現したのはジェルドマン・ライアット、その人。
久しぶりに踏み入った我が領内。
今日も街では多くの貴族や領民で賑わい、出店も多くひしめいていた。
彼はゆっくりと歩みを進めた。
喧騒が一瞬にして消え去り、群衆をかき分けるまでもなく、ジェルドマンの前には道が出来ていた。
貴族たちが囲むテーブルへと到着すると、空いている席へ足を組んで着席した。
『ほう、私にも一杯もらおうか』
『ラ、ライアット候……なぜ……』
当時の貴族や領民連中の驚愕ともいえる顔は今でも忘れられない。
凶器に満ちた笑顔を振りまき、勢いよくテーブルを蹴り飛ばすと、ジェルドマンは宙を舞った。
『お前達は何様のつもりだ? 私と同じテーブルにつくなど、あり得ぬ。地に平伏せ』
彼が振り上げた右手を振り下ろすと、全ては一瞬にして、ドゴンッ、と雷鳴の如き轟音に飲まれた。
取り戻した圧倒的な魔力を以て、苛烈な雷撃を数多の星のように次々と降らせていった。
光が迸り、その場に居る人間が黒焦げに染められていく。
香ばしい肉の香りが漂っていた宴会の場に、焼けた人肉の香りが充満し置き換わっていく。
光の煌びやかさに凄惨な悲鳴が混じり合う畏怖なる光景は、領民たちの恐怖心を再び呼び起こすには、十分すぎる惨状だった。
『誰が恵まれた属性だけの男だと? 甚だ深淵なる愚考だ。あれから私がどれだけのダンジョンに潜り、失った魔力を取り戻すための魔物狩りに命を賭してきたか。あの男に勝つためにどれだけの泥水を啜ってきたことか……んぐっ、思い出すだけでも怒りで脳髄が沸き立ちそうだ』
ここに至るまでの苦しみ、憎しみを、僅かな時でも忘れたことはなかった。
ようやく領主として返り咲いたジェルドマンだったが、それ以降も長きに渡る評議会での抗争に、彼の我慢は限界だった。
『評議会など無駄なものだ。ハッキリしない連中など、幾度、この手で屠ってやろうと思ったことか……。まぁよい、そんなことより──』
ジェルドマンはずっと気になっていた。
数年前から度々感知されていた強力な魔力の存在と、魔晶の森に蔓延る異変のことを。
『あの森に、これほどの魔力を持つ者などいないはず──とはいえ、我が足元にも及ばぬほどの微力。警戒するほどでもないが、念には念を……一度は調査しておくべきか。私の知る特異な魔力の手がかりにやるやも知れん』
…………
………
……
そしてつい先刻、状況が一変した。
ジェルドマンは感情を抑えきれず、不敵な笑みを浮かべていた。
「フフフッ、確かに感じたぞ。これだ。これこそが、長年私が追い求めていたものだ。魔力と呼ぶにはあまりにも強大すぎる力……あの時と全く同じだ。森から溢れ出た魔力に呼応でもしたというのか。今の今までどうやって抑え込んでいたかは知らぬがまぁいい、面白くなってきおったわ。おいお前、ヴェルモンドを今すぐに呼べ。今日は記念すべき日だ」
「は、はい! 直ちに呼んでまいります!」
彼の命令を受けた入口の衛兵は、返事と同時に慌てて走り出した。
◇◆◇
── ドーランマクナ領 マクゴナル邸 ──
「ふふっ。クルーセル伯も冗談がお上手にありんすね」
「いえいえ、とんでもございません。マクゴナル伯」
フィットリア領主ダルヴァンテは、妻マリアと次女リアナ、執事のレインとともにドーランマクナ領の社交パーティーに訪れていた。
この場所は屋敷の中のとある一室。
大理石の長いテーブルを挟み、ドーランマクナ領領主であるルゼルアと二人っきりでの歓談を楽しんでいた。
フィットリアから持参した土産の紅茶を啜り、茶菓子とともに舌鼓を打つ二人。
紫色の長い髪をポニーテールのように赤いリボンで結いまとめ、豪奢なドレスに身を包んだうら若き領主ルゼルア。
胸元に掛けてあったナプキンを手に取り、優しく口元を拭う。
髪色と同じ、深い紫色の瞳孔がキラキラと輝き、満面の笑みを浮かべた。
「クルーセル伯、先ほども申し上げたとおり、
「おお、そうでありましたな。では失礼してルゼルア様」
「ええ、そのほうがよきにありんすね。それでご令嬢はどちらに?」
現在、マリアは社交パーティーのダンスに夢中であり、リアナとレインは屋敷から離れた別の場所へと滞在していた。
ダルヴァンテは啜っていた紅茶をテーブルに置きつつ、苦笑いで頬を緩ませた。
軽く口を拭うと彼女の問いに答える。
「ああそれが……。落ち着きがなく、大変申し訳ない。娘は秘書とこちらの魔闘館に出かけているようです。まだ幼年ゆえ、ご容赦いただければ──」
彼の返事に、ルゼルアは首を静かに横に振った。
「いえいえ、そうではありんせん。リアナ嬢であれば、先ほど魔闘館を使わせてくださいましと丁寧な申し出がありんしたし、既知のことにござりんす。妾が知りたいのは、貴方の長女のことにございますれば」
「……長女のこと、にございますか」
ダルヴァンテは一瞬、言葉に詰まった。
その様子に彼女は口を押えて、上品に笑う。
「フフフ。何を口籠る必要がありんすえ? また御冗談でも?」
「いえ、以前にもお話ししたとおり、長女のアーリナは外交には不向きのため同行はさせておりません。それに生まれながらに魔力を失い、魔物も多い道中では危険もありますゆえ──」
ダルヴァンテの返事にルゼルアは目を細くした。
ゆっくりと席を立ち、彼に背を向け歩き出す。
扉のように大きな窓の前に立つと、勢いよく両手で押し開いた。
吹き込んでくる風に両手を広げたルゼルア。
背筋を伸ばし、何のけない雰囲気で話を繋ぐ。
「ん~、いい空気でありんすね。場が淀んでいては、いい話も聞けそうにありんせん。ところで、貴方は妾に嘘をついてはおりんせんか?」
空を見上げ、照らす斜影に頬を染めながら、ルゼルアはダルヴァンテに言葉の刃を突き刺した。
彼は内心、その言葉によろめいた。
だが感情は表に出さず、冷静という名の装束を纏って彼女を見た。
それから、にっこりと口を開く。
「今度はルゼルア様からご冗談ですか。長女の件に関して、私が嘘をつくメリットなど何一つございません。全て真実を話しております。前々からお伝えのとおり、アーリナには家督は譲りません。クルーセル家当主としてフィットリアを継ぐのは次女のリアナ。魔力感知に優れた貴方ならお気づきのはずです。彼女は私を超える逸材だと」
ダルヴァンテの真摯な答えに、ルゼルアもまたその表情で喜びを示した。
「フフフ、そうでありんすね。確かにあの子は末恐ろしい魔力を秘めておりんす。ふぅ~。妾もこんな晴れやかな空を見ていたら、体を動かしたくなりんすなぁ。少し、外に出てまいりんす。貴方も奥方のところへ行かれてはいかがかや?」
「ハハハ、そうですね。妻も最近はダンスに熱が入りっぱなしで困りものですよ。では、また後程」
ルゼルアの提案に彼はホッと胸を撫でおろした。
フィットリアとドーランマクナ領は隣接した立地であり、例え小さな亀裂であろうと、避けなければならない。
ダルヴァンテ自身もルゼルアの強大な魔力には常に警戒心を抱いていた。
──まだ、若干20歳だと聞く。どれ程の鍛練を積めばあれほど……末恐ろしいものだ。
扉のドアノブに手をかけ、静かに回す。
部屋を出た彼は、彼女の背に一礼をした。
ガチャッ。
扉が閉められた音がルゼルアの耳に届く。
その瞬間、彼女の目は「あの戯けが!」と鋭く吊り上がった。
「妾の目を節穴とでも思っておりんすか!それとも彼の者は魔力感知というものが、全て同列とお思いかや? 妾の力を以てすれば、ネズミ一匹に至るまでその行方を追えるでありんす。アーリナ、貴方は素晴らしいわ。あの力は妾の傍でこそ光るというもの。断じて、ライアット家になど、渡してなるものか……吸収など、妾がさせぬえ」
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