浮気ごっこ

夢見がち

浮気ごっこ

 浮気がしてみたかった。

 浮気というのだから私は今パートナーがいる身なのだけれど、何故だか最近そういう感情に駆られる。彼には一切の不満はない。本当にいい人だと心から思う。だというのに私はそんな感情を心のうちに抱えてしまった。私自身、何故そんな感情が湧いたのかわからないでいる。今の彼とは真剣に結婚を考えているし、挨拶だって済ませているというのに何だってこんな感情が湧くのだろうか。

 先日、彼とは違う男性と食事をする機会があった。これが仕事相手だったりしたらなんてことない食事だったのだろうが、相手は所謂幼馴染という人で、私に気があるのは明らかであった。向けられる好意は案外悪くもない物だったけれど、食事中はずっと罪悪感が私の舌に膜を張るようにして味が感じられなかった。別に浮気をしていたわけでもないのにその罪悪感は私を包んで離さなかった。

 浮気をしたいと少しでも思ったことが私に罪悪感をもたらしたのであった。その罪悪感に私はハマってしまった。彼への愛を確認できる作業のように思えたから。

 私はその日から頻繁に男性と食事に行くようになった。ルールを決めた。するのは食事だけ、肉体関係は結ばない。そして一人につき一回しか会わないというルールを。

「今日はありがとう、あってくれて」

「いいえ、私もあってお食事してみたかったから」

 私はわざと気のあるような言葉をかけるようにしている。その方が罪悪感は大きいのだ。

 今日の相手はマッチングアプリで知り合った二つ年上の男性。名前はハンドルネームのとしあきとしか知らない。名前は私にとってどうでも良い物だった。どうせこの男性とも今日が最初で最後なのだから。

 集合場所は高価そうなイタリアンのレストランだった。相手の指定だ。この浮気ともつかない行為を始めてからいいことがある。それは様々な場所に食事に行け、それらのほとんどは相手がご馳走してくれるのだ。男が奢るというのは旧時代的な考え方だけれど、数少ないチャンスの中で甲斐性を見せるには男性が奢るというのは殆どお決まりであった。私はそこそこ容姿の良い方であるから(世辞でも今までそう言われて生きてきた)、男性たちは私に格好つけたがった。それにそこがいいお店だったなら彼と行く候補が増えるからリサーチの面でも都合が良かった。

「としあきさんは普段からこういうお店に?」

 上目遣いで問いかける。すると彼は得意満面にワイングラスに注がれた水を傾けて、

「そうだね、ここは月一ぐらいでくるかな。他にも行きつけがあるから今度連れて行ってあげるよ」

 と言った。この人は自分に自信があるようだった。今度があると思っている。確かに容姿はそこそこいいし、体は鍛えているのかがっしりとしているが私の彼には遠く及ばない。初めてのデートでこんなにお金持ちアピールをする時点でなしだ。

「ありがとう。嬉しい」

 私はあくまで気のある女でいなければいけない。でなければこれは浮気ごっこではなくなってしまう。私は罪悪感を欲しているのだ。

 けれど最近、罪悪感は薄れつつあった。この習慣に慣れてしまったのだろうか、免疫がついてしまったらしい。これにはとても困っている。まるで私が彼を好きじゃなくなったみたいに錯覚してしまいそうになるから。そう、私は彼への愛を他の男性への浮気の真似事でしか確かめられなくなっている。彼と過ごす時間ではパートナーへの愛を確認できないのだ。

 湧いてこない罪悪感を奮い立たせようと、精一杯彼に気のあるふりをするけれど、ダメだった。

 食事が運ばれてくる。まずはサラダらしい。ちなみに時刻は正午過ぎ、ランチ時間帯なので恐らくこの食事はそこまで高くはないだろう。ここはペペロンチーノが美味しいんだと相手が自信ありげに言う物だからメニューを見ずに注文したので値段はわからない。大体の男性とのデートでメニューを見ることはない。彼らも値段を見られない方がハッタリが効くと言うものだ。 

「私、彼氏がいるの」

 一つ変化を与えて見ることにした。いつもであればそんなことカミングアウトはしないのだが、今日は刺激が欲しくなってしまった。

「え、そうなの」

「ええ、そうなの」

 一瞬青い顔をするが、徐々に得意げな表情を取り戻していき、

「僕は構わないよ。君は綺麗だから」

 と調子のいい笑みを浮かべる。これで浮気感が増した。彼がいることを知る男が私にいやらしい目を向けてくる。そのことに私の体は罪悪感の皮を被った快感を感じてしまう。こんなことをしていては先に待つのは肉体関係と破滅だけだと言うのに、私はこれでしか彼への愛を確認できない奇特な人間なのだ。

「そう、嬉しい」

 それから暫くして運ばれてきたペペロンチーノはかなりのおいしさだった。ここは彼とも来よう。


「美味しいね、久美子いつもおしゃれな店を知っているよね」

「リサーチ力が高いのよ」

 彼とペペロンチーノの美味しい店に来た。値段はやはりリーズナブルだ。

 今この瞬間にも罪悪感をひしひしと感じている。違う男性と来た店に彼と来ている事実が私を興奮させ、同時に彼への愛を確認させた。ああ、彼が好き。

「久美子、それで考えてくれたかな、同居のこと」

「もう少し待ってね、今調整中だから」

「そうか、うん。まあ焦ってはいないからゆっくり決めてよ」

 彼の表情が曇る。私は同居の誘いを保留し続けていた。理由は一つ、一緒に住めばこれまでのように浮気ごっこができなくなるからだ。私の関心事はもう常にそれになってしまった。私は彼への愛を確かめるために彼からの愛を無下にしている。最低だ。

「ごめんね」

 私は本当に申し訳なく思う。私はジャンキーになってしまったのだ。浮気ごっこから抜け出せなくなっている。今もこの罪悪感が私は快感となってしまっている。どうしようもない人間だ。

「いいんだ、君が僕を好きでいてくれているのはわかるから」

 良かった、私は彼が好きなんだ。この罪悪感はやはり好意からくる物なんだと確信する。なら大丈夫だ。私は今日も芸能人の不倫のニュースを見て不快な気分になれるし、マッチングアプリで相手を取っ替え引っ替えしている人間を蔑める。私がしているのは浮気ではなく愛の確認なのだと。究極の愛なのだと。私は彼を愛しているのだ。


「気持ちよかった?」

「うん。よかった」

 そんな生活も一年が経った時、ついにルールを破った。色々趣向を凝らしたけれど、結局行き着くところまで来てしまった。知らない男と寝たのだ。彼よりも容姿が良く、優しく、上手い男と。もう、罪悪感なのか快感なのか分からなくなっているこの人間から出たヘドロのような感情で私は彼が好きなのだと確認した。

 私は彼への罪悪感から彼を好きでいることを続けていられる。彼を好きでいなくては私は私を保てなくなる。


 私と彼は大室山に来ていた。伊豆にある観光スポットだ。プリンのような形をした綺麗な緑色をした山だ。背の低い植物しか生えていないのでその表面は芝生のように滑らかに見える。リフトで頂上に登ると円形に火口のようになった頂上を歩くことができる。一周約一キロある山道を歩く。

「綺麗だね」

「うん」

 伊豆の山々と海を三六〇度に望むことができる山頂はとても気持ちのいい場所だ。だけど私は今も彼への罪悪感に苛まれている。彼は知らない私の裏側。その部分がすでにもう表になっているようで、吐き気がする。

「どうしたの? 気分悪い?」

「ううん。平気」

 彼にはバレているはずだ。私が浮気ごっこ、いや浮気をしていることに。彼は何も言わないけれど、最近の私の節操のなさといえば酷かった。バレていないはずがない。なのに彼は何も言わない。彼は私のことが好きなのだ。彼は私が好きだから何も言えないのだ。言ってしまったら関係が終わると思っている。それは私も同じだ。私が一言謝ることができたなら、この汚い習慣から抜け出せる気がする。けれどそうしないのは出来ないのはそうする事で私が彼を愛していなかったとなることが恐ろしいのだ。

 中間地点に差し掛かった時、雷がなった。一瞬で雷雲が辺りを囲む。リフトの方から引き返せと怒号にも似た声が飛ぶ。中間にいた私たちは人の波に従って残りの半分を駆け足で歩み始める。

「大丈夫かな」

 彼は心配そうに雲を見る。すでに雲の中だ。四方から雷鳴が轟き、リフトからの呼びかけは必死さが増す。背の低い草たちは強くなる風に生き物みたいに揺れて、この山一つが生き物のようだ。

 私は目の前に広がる光景を見てどうしようもない焦りと、情けなさと、そして本物の罪悪感が湧いてくる。

 お前は一体何をしているのかと胸ぐらを掴まれているみたいな錯覚が襲う。雷が私に今にも落ちてくるのではにかと思う。この感情のわかりやすい表現を私は知っている。

「ばちが当たる」

 そうどうしようもなく思う。自分のこれまでの行いをこの雷は断罪しに来たのではないかと。

 私には雷が落ちるだけの理由がある。私は自分のことを棚に上げてニュースを笑い、人を蔑み、男性を傷つけ、彼を裏切った。もういっその事雷が私に当たってしまえばいいと思った。願った。このまま雷に打たれてしまえば私の罪ごと焼き尽くしてもらえるんじゃないか。ポケットに入ったスマホのマッチングアプリも、浮気相手とのメールも何もかもを焼き切ってしまえるんじゃないかと。

「良かった、セーフ」

 彼の安堵する声で私は目を瞑っていまっていたことに気づく。彼に手を引かれていた。

「いやあ、危なかったね」

 私たちはすでにリフトまで戻ってきていた。ここまでくれば安心、と言うわけではないのだろうけど、避雷針のある場所にいるのはなんとなく確かに安心感があった。

 山は今もまだ揺れてる。ザワザワと自然の強さと恐ろしさを見せつけたままだ。

 私は彼を見つめる。せっかくセットした髪が風に煽られてボサボサだ。彼と最初にあった時も強風でこんな具合になっていた。

「浩介くん」

「なに?」

 彼は、浩介くんはいつもの調子で首を傾ける。

「ごめんなさい」

 私は浩介くんが好きだと確信した。



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