殺せないから愛してる

羊ヶ丘鈴音

愛してるから殺せない

 暑い、暑い、熱い。

 部屋一杯に淀んだ空気が漂って、息を吸うほどに喉と肺が蒸されるようだった。

 けれど吸い込まずにはいられない。

 それは最早、呼吸ではなく息継ぎだった。

「待っ……まだッ」

「まだ? なんだ、まだ足りないって?」

「ッ――んぅッ」

 打ち付けられる度に声が漏れそうになる。

 我慢しなくても聞く人なんてもういないのに、なおもこらえるのは僕なりの意思表明だった。

 しかし、それさえも許してはくれないらしい。

「おい、口開けろ」

 上から言われ、首だけを小刻みに振って拒絶する。

 すると――

「じゃあ、いいよ」

 諦めるように言ったかと思いきや、次の瞬間には強い衝撃が突き上げてきた。

 痛い。

 まともな身体であれば激痛に悲鳴を上げていたほどの。

 にもかかわらず、二度三度と続けられただけで身体は慣れてしまう。思い出してしまう。視界がチカチカしてきた。一瞬ごとに思考が霞み、溶けていく。

「んッ、う……」

 息ができない。

 苦しい。

 それでも望まれるままに従うのは嫌で、どうにか我慢していたのに。

 お腹の底から突き上げてくる衝撃が胃や肺までも揺らし、行き場を失った空気が喉の奥を叩いた。

 そして、その瞬間を見逃してくれるほど生易しいわけがない。

「はっ、はぁ……んンッ!?」

 違う、違った。

 喘ぎ声だけは零してなるものかと食い縛ろうとした口の中に、ぬるりとそれが入り込んでくる。強張った舌を舐められ、ほんの数瞬と持たず甘い快楽が脳を貫く。

「んぐッ……!」

 熱い、熱い、熱い。

 べたべたの、汗も唾液も何もかもが混じり合い、体液としか呼びようのなくなったそれが卑猥な音を立てる。ぺちゃぺちゃ、ぬちゃぬちゃ、気持ち悪くて心地良い音。

 強い衝撃に襲われる度に、世界が弾けているのか理性が弾けているのか分からなくなる。

「待っれ、もう……」

「まだ余裕あんじゃねえか、なァ!」

 獣じみた叫び声。

 人間の名残を帯びているのは、その声だけだった。

 また息ができなくなる。酸欠で意識が朦朧となった。酸素を求めて貪るも、熱く柔らかい何かが喉の奥を塞いだ。死ぬ、死んじゃうって。叫ぼうにも声は出せない。必死で叩く。

 それを催促とでも勘違いしたのか、残されていた理性が獣に取って代わられるのを瞳の輝きに見た。

「アァ、ハハ」

 恐ろしい、化け物の眼光。

 意識が途切れる直前、それだけを記憶に焼き付けた。

 熱いのか、冷たいのか、あるいは寒いのか。何もかも溶けてしまった。

 服を脱ぎ去るように、理性も本能も投げ捨てて。

 僕もきっと、獣のように笑っているのだ。



   × × ×



 昔々、まだ奇跡や魔法が当たり前に溢れていた頃。

 全知全能の神様は、いずれ訪れる世界の終焉のために手を打ちました。

 ある人間を天上に招き、使命を授けたのです。

「いずれ世界は滅ぶでしょう。天高く輝く星々が砕け、この地へと降り注ぐのです。大地は割れ、唸り荒れる海に飲み込まれ、命が芽吹き根付く地上そのものが失われてしまうのです。ゆえに、あなたに命じましょう」

 その者は光栄なる使命を胸に、地上へと戻りました。

 しかし人間は、どこまでも人間でしかなかったのです。

 その者が神様から聞かされた言葉を、与えられた使命を、人々は信じようとしませんでした。星とは永遠に輝くべきもので、それが砕けるはずがない。海はどんなに荒れても岬を濡らすことしかできず、大地を飲み込めるはずなどないのだと。

 それでも折れず諦めず、人々に神様の言葉を説いて協力を募り続けた人間は、けれども人間でしかありません。

 折れずとも諦めずとも、心は疲弊し擦り切れていきます。

 その者は天に向かって祈りました。

「どうかお願いです。私に力をお授けください。私の使命を継いでくれる者をたった一人でも見つけられたなら、その者に主より授かった使命を委ねるだけの力を」

 そして祈りの最後に、堪えきれず吐露してしまうのです。

「……私には、もう時間が残されていないのですから」

 若かったはずの人間はとっくに老いぼれ、杖なしでは歩くことさえできなくなっていました。もう何日もすれば、杖があっても歩けなくなってしまうでしょう。

 全知全能の神様は全てを見ていて、その者の言葉が真実であることを知っていました。

「分かりました。あなたに一つの力を与えましょう」

 もし神が本当に天の上にいて、それが全知全能の存在であるならば――。

 神様の言葉を説いて回ったその者に、少なくない者が投げかけてきた言葉がありました。

 その時、その者は真実を知らされるのです。

「しかし、この力をあなたに与えてしまえば、私の存在は消えてなくなってしまうでしょう。力を得たあなたは、私に代わって生きとし生ける全てのものを導き、世界を救わなければなりません」

 どうして、その神は自分で世界を救わないのか?

 誰もが抱いた疑問の答えは、そこにありました。神様も長くを生き、あるいは生きすぎて、とうに衰えてしまっていたのです。全能を持ちながら、それを自在に振るうだけの力だけは残されていなかったのです。

「嗚呼……。必ず、必ずや成し遂げてみせますとも……!」

 その者は誓いました。

 それまでの働きを見ていた神様は、それゆえにその者を信じ、残された全能を振るって力を与えたのです。

 それは、時間でした。

 その者はそれから何日、何年、何十年と過ぎてなお、杖があれば歩くことができました。

 けれども、杖がなければ歩けないままでした。

 何百年、何千年が過ぎたでしょうか。

 星々は煌めき、時折キラリと一際光って流れることはあれど、降り注いで大地を砕くことはありませんでした。

「神よ……、我らが主よ……。あなたは私を」

 謀ったのですか。

 そう零しかけた時、その者は全てを悟りました。無限の時間を生きる力は与えられても、無限の時間を耐える力は与えられていないのだと。

 神様に疑いを抱いてしまった己に絶望し、失望し、その者は再び歩き出しました。

 そうして次に視界に映った人間に、自分でも気が付かないまま声をかけていたのです。

「それ、そこの者」

「なんだよ、爺さん。金ならくれてやれんぞ」

「力はいらんか」

「だから、金なら俺も持ってねえんだ」

「不老の力だ、無限の時を生き抜く力だ。欲しくはないか」

 老体には似ても似つかない、ギラギラと仄暗く輝く眼差しを、その男は見てしまいました。

「……狂言ならよそでやってくれ。俺は忙しいんだ」

「忙しい? おかしなことを言いなさる。これから無限の時を手に入れるというのに」

 その者は知っていました。

 男は、既に力に魅入られているのだと。

「ここより西に山があるだろう。ほれ、儂がやってきた方角だ」

「……それがどうしたっていうんだ」

「あの向こうにあった里は、もう何十年も前になくなってしまったようだ」

「馬鹿を言うな、そんなのは嘘だ。つい何年か前、その里から来たっていう医者が」

「嘘だと思うなら共に行こうではないか。そして真実を見るがいい。すればお主も、儂の言葉を信じられるであろう」

 その男には、誘惑を振り切るだけの力がありませんでした。

 里から来たという医者を、村は総出で歓迎したのです。男が未来を誓い合った花嫁を前にして、しかし医者は首を横に振りました。他には幾人かの怪我を見て、熱があるという老人に薬を渡し、医者は村を出ていきました。

 あの医者は、里から来たと言ったのです。

「嘘だ」

「儂には力がある」

「世迷い言を」

「山を越えれば分かる話よ。そこに里があれば、儂のことなど忘れ去ればよい。しかし里がなければ、儂の話に耳を貸すのだ」

 その男は、その者をじっと見据えました。

「儂には力がある」

「……一体、どんな」

「無限の時を生きる力よ。そして、その力をお主に授けることもできる」

「……代わりに、俺は何をすればいいんだ」

「今はなき里に訪れる者など誰もいまい。そこで儂を殺し、埋めてくれればいい」

 杖をついて歩く老人は、気付いてはいけない真実をその目で見てしまったのでした。

「もう疲れたのだよ、儂はな。お主に力をやろう、その力を持つ者であれば儂の無限の時をも終わらせられる。終わりたいのだ、儂は」

 涙はとうに枯れ、零れ落ちることはありません。

 けれど木の虚のように落ち窪んだ眼窩には、その言葉を疑う余地もありません。

「里だな。西の山の向こうにある里に行けば――」

「然り。お主はそこで真実を目にできるであろう」

 全知全能の神様は、衰えたために忘れてしまったのか、あるいは人間というものを信じたかったのか定かではありませんが。

 人間は、どこまでも人間でしかないのです。

 世界を救う使命を授かった人間は、あまりに長すぎる時に疲れ果ててしまいました。

 そして受け入れ難き現実を目の当たりにした人間にとっては、世界の命運など昨日食べた夕食ほどの価値もありはしないのです。

 たとえ里があったとしても、失われた花嫁が戻ってくるわけではありません。

 しかし男は慟哭しました。

 あるいは、あんな余所者など信じず、どんなことでも手を尽くせば可能性は残されていたのではないか。思い返したところで戻ってくることのない日々を、男は最後に胸に抱いて、それから蓋をしました。重く、重く、閉じ込めました。

「あんたを殺せばいいんだったな」

「然り。儂に代わって、世界を――」

 その者が言い終えるより早く、待ち望んだ最期は訪れました。

 山間の、荒れ放題の里の跡地に、男が一人佇んでいました。何時間も、何日も、何週間も。

 男が歩き出したのは、飲まず食わずで何ヶ月も立ち続けてなお、空腹はあっても死ぬ気配はなかった頃のことでした。

 大地に星々が降り注ぐのは、それから更に百年以上が過ぎ去った――。

 けれども、あの者が生きた年月とは比べようもないほどに短い、ほんの明日か明後日かのような、そんなある日のことです。



   × × ×



「師匠、朝ご飯ができましたよ」

 ほんの一時間かそこら寝ただけで痛みが消えるこの身体は、便利ではあるけれど寂しくもある。

 生身、という表現はおかしな気がするけど。

 しかし生身であれば一日や二日は感じていられるはずの師匠の痕跡を、たったの一時間で失ってしまうのだ。これを寂しいと言わず、何を寂しいと言うんだろう。

「腹ぁ減ってない」

「ダメですよ。やらなくても死なないからって何もかもやらないで廃人になりかけたの忘れたんですか? あの時の介護、大変だったんですからね!」

「だったら殺せ。なんのためにお前に力をやったと――」

「嫌ですね、師匠が死んじゃったら」

 あぁ、そうか。

 本当に寂しいというのは、それのことを言うんだった。

「師匠は僕と、ずっと一緒にいるしかないんですよ。だから朝ご飯です」

「日本語喋れよ」

「もう日本なんてなくなってるのに不思議なことを言う人です」

「島国だろ、ここ」

「国じゃないですけど、世界に残された唯一の島ではありますね」

「日出ずる島、つまり日本だ」

「世界中の島国の人たちがご存命なら抗議の電話が鳴り止みませんね」

「もう電話線もネット回線もないがな」

「あはは。それどころか電気がありませんよ。雷はありますけど」

 恐竜絶滅の原因は、一説によると巨大隕石の衝突だという。

 何も衝撃によって恐竜が死に絶えたわけではなく、衝撃で舞い上がった土埃やら何やらが太陽の光を長いこと遮り続けたせいで生態系が狂いに狂ったんだとか。正確なことは確かめようもない。

 なにせ人類の叡智が詰まったインターネットは海に沈んだ。

 これで何をどうやって確かめればいいというのか。

「つうか、なんだよこれ」

「魚ですよ、見て分かりませんか」

 豚も牛も育ててくれる農家さんがいるから好き放題食べられたのだ。

 地球上の陸地の九十九パーセントだか、九十九・九パーセントだかが海に沈んだ今の時代、農家さんどころか豚や牛の一頭でさえ生き残ってはいない。懐かしい味は、記憶を辿って味わうしかないのだ。

「……悪い、何度見ても魚に見えないんだが」

 ぬるりとした尾、その先や胴体の横や上や下に生えたヒレ。

 うん、魚だろう。

「魚ですね」

「魚に足ってあったか?」

「ウーパールーパーなんじゃないですかね」

「ウーパールーパーは魚じゃねえだろ」

「でも海から捕れましたよ。泳いでましたし」

 なんなら口に入れると手足がぴちゃぴちゃ舌の上で泳ぐ。いや、踊り食いというくらいだし、泳ぐではなく踊ると表現すべきか。

「……せめて調理しろよ」

「すみません。新鮮なうちに締めた方がいいと思って包丁持ってってたんですけど、波に浚われてなくしちゃいました」

「石器時代の方がまだお前より賢いな」

「自分で漁も調理もしない師匠に言われたくありません」

「……お前も調理はしてないがな」

 師匠は言いながら、汚いものを触るかのように親指と人差し指だけでウパ魚の尻尾をつまむ。

 それを、やはり嫌そうに丸呑みにした。頭から。コキ、ピギャ、ゴギリと咀嚼音が聞こえる。途中のは断末魔の叫びだったかもしれない。

「こいつ頭蓋骨あるんだけど」

「そりゃ脳は守らないと」

「口の中切れた」

 あー、と傷口を見せてくる師匠はとんでもなく愛くるしい。

「なに笑ってんだよ、お前のせいだぞ」

「じゃあ、ちょっとこっち来てください」

 なんの疑いも持たず、ボロボロのテーブルを回り込んでくる師匠。

 はい口開けてー、と歯医者さんの真似をするまでもなく、また口を開けてくれる。確かに左上の奥の歯茎が切れていた。暗くてよく見えないけど、血が出ている様子。

「で、これどうす、んっ」

 そっと唇を重ねたのは一瞬。

 すぐに舌を伸ばして、歯の形まで覚えてしまった師匠の口の中を舐めていく。口一杯に師匠の血の味が広がる。美味しい。ウパ魚なんかよりずっと。世界で二番目に美味しい味だ。三番目は師匠の汗。一番は言うまでもない。

「んッ……ふ、んん……」

「むぐ、……んんんっ!」

 師匠が抵抗してくる。でも本気じゃない。嫌がる師匠を追いかけるように、無理やり舌と舌を絡ませていく。噛み千切りたい。いいかな、いいよね。

「――ッ!?」

 濃密な、新鮮な、喉を濡らせるほどの血が溢れ出す。

 もっと欲しい。もっと、もっともっともっと――その時だった。

「ふぐッ」

 胃に、硬いものが突き刺さる。

 喉から食道を通るそれではなく、肋骨の隙間を縫って貫く激痛。飲み下したばかりのウパ魚が逆流し、折角の師匠の血と一緒に口から溢れ出た。

 えほっえほっ、と嘔吐く僕を尻目に、師匠もまた自分の口に手をやっている。

「おまっ、くそ、ふざけんじゃねえぞ」

 口の端から血を滲ませた師匠は、僕の腹を殴ったまま拳を握り締めていた。

「師匠」

「あ?」

「勿体ないよ」

「何が――」

 血が垂れちゃう。そんなの勿体ない。

 また師匠に顔を寄せる。本気で嫌な顔をされた。けど、抵抗はしない。顎にまで垂れかけていた血を舌で舐め取り、そこから唇へ伸ばしていく。と、唇が触れ合ったところで邪魔された。どうして。嫌なの?

 そんなはずないでしょ、と笑おうとしたら、僕の口の中に舌が伸びてきた。そういうことか。それなら構わない。好きにしていいよ、さっきのお詫びだ。

 別に、そんなのなくても師匠の好きにしていいんだけど。

 お腹に熱いものが触れる。いつもより少し早い。大量の血を流して、本能が力を増したか。どうせ死にはしないのに。

 師匠は死ねない。

 そういう呪いを受けている。

 僕も死ねない。師匠から呪いを受け継いだから。師匠は言った。俺を殺せ、と。いいよ、と言って呪いを貰った。だけど師匠は、まだ生きている。

 だから師匠は、僕の言うことを聞くしかない。

 流星群が大地ごと文明を破壊し尽くし、荒れ狂う海が地球を支配しようとしている。あと何十年か、もしかしたら何年もしないうちに、この島も海に沈むだろう。

 そんな小さな島には最早、僕と師匠しか残されてはいなかった。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類も絶滅したのだ。呪いを持っていた僕と師匠だけが、最早まともな人間とは呼べない僕たちだけが生き残っている。

 このまま島が沈めば、僕たちは死ねないまま海に沈むだろう。

 地獄だ。

 考えただけで発狂しそうになる。

 どんなに強がっていても、師匠はそれを受け入れられない。

 だから。

 師匠は自分を殺せる唯一の存在を、どうやっても拒絶できないのだ。

「あはっ。ねぇ師匠?」

「喋るんじゃねえ、舌噛むぞ」

「僕の血は美味しくない?」

「俺に食人の趣味はねえんだよ」

 僕は師匠のこと、食べてみたいけど。

 どんな味がするんだろう。咥える度に、思わず噛み千切ってしまいたくなる。しないけど。口を利いてくれなくなったら嫌だ。殴られるのは我慢できても、ていうか楽しくても、無視されるのは我慢できそうにない。そんなの辛すぎる。

 どんなに嫌でも、師匠は僕を拒絶できない。

 分かっていても、やはり嫌われるのは怖かった。

「でも、僕のことは食べるんだ」

 代わりに紡いだ誤魔化しの言葉に、師匠は嫌そうな顔をした。

 嫌そうってだけで、心の底から嫌がっているわけじゃないことは、数えきれないほどの長い年月を重ねていれば分からないはずがない。

「そういうのはやめろ」

「どうして?」

「好きじゃない」

 そう来たか。

 じゃあ。

「師匠は、どんなのが好き?」

 お前だと、そう言ってくれたらどんなに嬉しいか。想像するだけで果ててしまいそうだった。

 けれど師匠は、そんな風には答えてくれない。

 嫌だな。

 それは寂しい。

 ほんの少しの悪戯心が芽生える。口の中には、もう血の味は残っていない。寂しいよ、僕は。もっと欲しい。どくどくと流れる血のように、狂おしいほどに熱い師匠を見てみたい。味わいたい。

「言い方を変えますね。師匠は、どんな人が好きですか?」

 表情を歪ませるのは、怒りか悲しみか、あるいは他の何かか。

「教えてください、師匠の好きだった人のこと。今でも好きな人のこと。教えてくれたら――」

 もっと見せてよ、味わわせてよ。

「精一杯、真似してあげますから」

「お前――」

「あはっ。怖い顔ですね、そんな顔で毎晩抱いてたんですか?」

 最早、言葉はなかった。

 飛んでくるかと思った拳もなく、へし折れそうなくらいの痛みが喉を、首を襲う。息ができない。掠れた、声とも呼べない音が漏れ出る。

 我に返った顔で手を離した師匠には、だから教えてあげなくちゃいけない。

「ねぇ、もっと。もっとしてよ、昨日みたいに。ねぇ、――」

 聞いたこともない声を、真似なんてできない。

 だけど真似するように囁いてみせるだけで、理性が音を立てて崩れるのが見て取れた。

「調子乗んじゃねえぞ、クソガキが」

「あははっ、もうガキなんて歳じゃないけどね」

「俺に比べりゃ、何歳も何十歳も何百歳もガキなんだよ」

「そんなガキに恋人重ねて毎晩喘ぐ気分はどう? 楽しい? 最高? アハッ」

 どんなに痛くても。

 どんなに苦しくても。

 僕は死なないし、

「師匠には殺せないんだから。代わりにいじめてよ。ほら、不出来な弟子をさ」

「なら、まずは口の利き方から思い出させてやるよッ」

 今日も始まる。

 朝から。

 いつものことだ。

 たった二人だけ。

 互いに黙ってしまえば、聞こえてくるのは荒れ狂う風や波の音ばかり。その先に待つ不可避の終焉を思い描けば、ほんの五分と待たずに気が狂ってしまうだろう。

 けれども。

 獣のように求め合い、傷付け合う僕たちが、未だに正気かと言えば笑って誤魔化すしかないわけで。

 まぁ、でも――。

「鳴けよ、おい、鳴いてみせろよ、退屈なんだ」

「や、だッ」

「もう忘れたのかよ、アァっ!?」

 殴られ、蹴られ、組み敷かれて。

 そんな姿でさえも、誤魔化すべき相手なんてどこにもいやしないのだ。

「お前が望んだことだろう? ほら、早く口の利き方思い出せよ!」

「やァ……ッ。まだ、もっと――あっ、おッ」

「もっと? もっとなんだよ、鳴いてねえで喋れよ分かんねえだろうが」

 だけど、まだだよ、全然足りない。

「まだッ。し、しょの――」

 痛みはある。

 恐怖もある。

 だけど麻痺し、鈍感になってしまったそれを、また呼び起こすように師匠が吠えた。

「まッだ、足りな、いんですよ」

 獣じみた――否。

 獣ですら、きっとこんな風には交わらない。だって、これは。

「もっと、もっと痛ぐして。苦じく」

 じゃないと。

「ししょのこと、ぎらいに、なれ――あっ、や、そこッ」

 ダメだ。

 また頭が真っ白になる。脳が師匠で満たされてしまう。

 痛くされて、苦しくされて、決して愛してはもらえなくて。

 なのに一人は寂しくて、一人になるのは怖くて、求めてしまう。喜んでしまう。

 ダメなのに。

 あと何十年? 何年? 何日?

 全てが海に沈んでしまう前に、師匠を嫌いにならなくちゃいけないのに。

 でなきゃ、本当に終わりのない苦しみに連れていってしまうのに。

 なのに。

「ね、ぇッ、ししょ……」

「あァ? んだよ、クソが。いい加減喋る余裕も――」

「行こ?」

「は?」

「一緒に。僕と。師匠と。一緒に、二人で」

 地獄の外まで。

 後悔と絶望の果てまで。

 二人きりで、永遠に。

「なんだよ、まだそんなこと言ってる余裕あんのか?」

 壊れた笑い声が響く。

 知っているとも。

 とっくの昔に、壊れてしまっていることくらい。

 僕と出会う、それよりも前に。大切な人を失って、絶望や何もかもに潰されて。

 だからせめて楽にしてあげたいと思うのに。

 あぁ、どうしてだろう。

 声も出せない苦しみと喜びの中で、壊れた彼をずっと見ていたいと思ってしまう。彼が僕をそうしたように、僕もまた彼を道連れにしたい。永遠の苦しみを、僕だけが彼に与えられる。

「アハハハ――ッ」

「誰の許しがあって壊れてやがる!」

「こわれて、なんか、ないんだから」

 僕が壊れるのは。

 きっとあなたを殺してしまった時だけだ。

「だったら、」

 汗か、涙か、それ以外の何かなのか。

 あるいは、幻に過ぎないのかもしれない。

 師匠が泣いているように見えたのは。

「壊してやるよ、今度こそ」

「アハッ」

 もし本当に壊してくれるなら、それはそれで楽しみだ。

 海の底でも地獄の果てでも、どこにだって一緒に行くよ。

 あなたの、

 その絶望に溺れさせてくれるのなら――

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