第9話

1・夢から覚めて

 夢から、覚めたような気分だ。


 ──「最近の夏樹さん、なんか別人みたいっすね」


 そのとおり、俺は別人だ。お前が好きになった「星井夏樹」じゃない。

 知っていた。

 だから、必死でこっちの俺に成り代わろうとした。青野を好きになってしまったから、せめてお前が好きな「俺」になろうと考えた。


(でも、ダメだ)


 やっぱり、俺は俺でしかない。こっちの世界の俺にはなれやしないんだ。


「……夏樹さん?」


 青野が、困惑したように俺を見ている。


「どうかしましたか?」

「ああ……いや」


 なんでもない、と呟いてもう一度クッキーに手をのばす。

 甘いはずの焼き菓子なのに、驚くほど味がしない。

 一方、頭のなかはひどくクリアだ。先ほどまでの焦りが嘘のように、雑音が消え、冴え冴えとしている。


(今、俺がやらなければいけないこと)


 いくつかある。でも、まずはこれを伝えないと。


「青野ごめん、俺、やっぱり今日は帰る」

「……えっ」

「実は、朝からちょっと体調がいまいちでさ。なんとかなるかなぁって思ってたけど、やっぱり、その……無理っぽい」


 つまらない嘘。でも、青野は信じてくれたようだ。


「だったら看病します」

「いや……」

「うちでゆっくり寝てください。薬くらいありますし」

「いいから。今日はもう家に帰りたい」


 敢えて強い口調でそう返すと、青野の緑色の瞳が不安げに揺れた。

 ごめんな、本当はお前にそんな顔させたくなかったんだけどさ。


「家のほうがゆっくり休めるから。青野がそばにいると、ムラムラしちゃうじゃん?」


 おどけたふりをして、頬を突く。

 青野は、ムッとしたように唇をとがらせた。


「病人に手を出したりしませんよ」

「お前はな。でも、俺がムラッとしちゃうの」

「……」

「だから帰る。ほんとごめんな」


 くせ毛を撫でると、青野はあきらめたようにため息をついた。


「だったら駅まで送ります」

「いいって……」

「それくらいさせてください」


 青野は、俺に背中を向けるとコートに手をのばした。


「あんたともう少しだけ一緒にいたいんです。それも、ダメですか?」

「……ううん」


 じゃあ、送って、と笑いかけて俺もゆっくりと立ちあがる。

 青野の表情が、ようやく緩んだ。自分の要望を受け入れられて、たぶんホッとしたんだろう。

 ごめんな、急に「帰りたい」なんて言われたら不安にもなるよな。

 でも、大丈夫。もう心配をかけるようなことはしないから。今度こそ俺、ちゃんと心を決めたから。

 駅までの道のりは、まあまあ普段どおりに振る舞えていたと思う。

 言葉少なめな青野に自分から話題をふって、できるだけ気まずくならないように配慮して──あとから思えば「体調が良くない」って理由で帰るんだから、無言だったとしてもおかしくはなかったと思う。

 けど、やっぱり怖かった。ふたりの間に沈黙が続いて、空気がどんどん沈んでしまうことが。


「やっぱり、夏樹さんとこの駅まで送っていきます」


 改札前まで来たところで青野はそう申し出てくれたけど、俺は丁重にお断りした。

 正直そろそろひとりになりたかった。朝からずっと感情の浮き沈みが激しすぎて、心がすっかり疲れてしまっていたから。


「帰ったら連絡する」

「とか言って、いつも忘れて寝てしまうくせに」

「今日は忘れねーよ」


 じゃあな、と軽く手をあげて、ひとりぼっちで改札をくぐる。

 ホーム行きの階段をのぼっていると、快速列車到着のアナウンスが流れてきた。いつもの俺なら「ラッキー」とホームまで駆け上がったことだろう。でも、今はどうしてもそんな気になれなくて、結局その1本を見送ってしまった。

 人がまばらなホームはひどく寒くて、首をすくめたまま端っこまで歩く。

 次の快速列車到着は12分後。けっこうあるな、と舌打ちして、俺はぼんやりと夜空を見上げた。

 久しぶりに目にした月は、半分よりもややふくらんでいた。

 満月まであとどれくらいだろう。3日……4日? あとで確認しよう、と考えながら俺はスマホを取りだした。

 メッセージか通話かで迷って、結局通話アイコンをタップした。

 遅い時間だけど、たぶんまだ起きているだろう。

 果たして、コール3回で「おう」と親友の声が聞こえてきた。


「八尾……」

『おう、どうした?』

「俺、帰るよ」


 見上げていた月の輪郭が、じわりと滲んだ。


「俺、元いた世界に、やっぱり帰ろうと思う」

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