藤原行成は見た! 平安京・疫病大流行

クワノフ・クワノビッチ

第1話

 まさか、こんなことになるなんて……!

 皆さんも、そう思いませんでしたか?

 初めの頃は、「えっ、まじか……? 」なんて、思っていたでしょう。

 あれから三年経って、やっとトンネルから抜け出たという感じゃないでしょうか。

 いろいろ、コロナで大変だったけど、やっと普通の生活に戻って落ち着いてきた感じなので、改めて藤原行成ふじわらゆきなりさんの日記である 『権記 』 を通して、平安中期の敏腕官吏・行成さんが見た平安京のバンデミックな世界を描いてみようと思います。



 今も昔も、世の中に流行病が蔓延はびこると、社会全体が停滞するようです。

 今回は、趣向を変えて歴史散歩的なものを書いてみました。

 本当は、今こそ、静かな観光地に行きたいのですが、……まぁ、贅沢はできないので、ちまちまと書いております。

 面白く仕上がっていればよいのですが。


 テーマは、

「よく似てるよね現代と!……仕事ができなくなると、世の中、本当に変わっちゃうみたい」

 って感じかな?


 あの、日本史でも有名な"藤原道長"が平安京で徐々に頭角を顕そうとしていた時、彼を陰で支えた 一人の優秀な公達きんだちがいました。

(一見、支えているように見えるかもしれないが、……実は、陰でかもしれないの貴公子! )

 その人の名は、"藤原行成ゆきなりさんです。

 この人は、藤原北家(藤原氏の中で一番栄えた家系)の血筋の人で、道長のお父さんの兄さん伊尹これまささんの孫にあたります。

 ややこしいですが、もう、どっぷりですよね。

 よく考えると、本当に藤原氏って子沢山で、いつでもスペアになる人材がいて、その中ででもするように、権勢を振るう人が出てきたって感じかもしれない。


 ただ、椅子取りゲームに参加するためには、現役で宮仕えをしている身内の助力が必要なようで、……そういう点では、行成さんは、苦労したようです。

 お爺さんの伊尹さんは、摂政せっしょうまで務めた人なのですが、行成さんが生まれるとすぐに亡くなってしまい。さらに酷いことに、お父さんの義孝よしたかさんにいたっては、そのお兄さんにあたる挙賢たかかたさんとに、二〇歳そこそこで、疱瘡ほうそう(天然痘てんねんとう)で亡くなっているのです。

 因みに、ここで取り上げるのは長徳四年(九九八年)頃に大流行した疫病の話です。

 では、九九八年に流行ったのは天然痘だったのかというと、そうではなく、"赤疱瘡あかもがさ"と呼ばれるものでした。

 これは、麻疹はしかのことで、当時のような医学の発達していなかった時代には、天然痘と同様に、高熱を発する恐ろしい病気で、致死率も相当高かったと思われます。

 そのせいで、当時は流行病が拡がると、コロナが流行った時の現代もそうであったように、政治、人々の生活、経済の動きが滞ってしまうことが何度もあったようです。

 流行病のせいで父親を亡くし、寄る辺のない人生を余儀なくされた行成さんは、母方の祖母や、外祖父の源保光やすみつさんのお世話になりながら成長し、二四歳にして一条天皇時代の蔵人頭兼侍従くろうどがしらじじゅうにまで出世します。

 この職は天皇の秘書兼事務方のトップ的な存在という感じでしょうか……。


 また、一条天皇と言うと、清少納言が仕えたと結婚した人なので、案の定、行成さんのこともネタになっているのです。

 例えば、枕草子の中では、行成さんは"とうべん"という役職名で呼ばれていて、若い女性陣からは、他の男性たちと違って、和歌をうたったり、あまり遊ぼうとしない真面目な人物として見られています。

 しかし、清少納言には、ちょっとなぐらい面白い一面を見せており、それが、また刺激的で良いのです。


 例えば、内裏の中で飼われていた"翁丸おきなまる"という犬の話では、三月三日のの日に、犬の頭に柳や桃を飾ったり、腰に桜を付けさせて歩かせてみたりと、

(ちょっと動物虐待かな…… )

 他にも、清少納言の顔を覗こうとした話などが描かれています。

 これは、ちょっと失礼な話だとも思うのですが、それでも、本来、信頼関係があったせいか、最後に納言は、そういう行成のことを大笑いして済ませており、その後は、遠慮なく納言の部屋を訪ねるようになったと語られています。

 どうやら清少納言は、中宮・定子や一条天皇のプライベートな時のにされていたのではないかと思われますが、それでも、当時の女性としては物おじせず、それでいて度胸があって機転が利く、……そういう清少納言のことを、行成さんは実は好きだったのかもしれませんね。


 そして、そんな行成さんは、とてもとしても有名でした。

 また、当時の貴族は、自分の一族に宮中での儀式やその振る舞い方などを伝えるためにを書く習慣があったのですが、行成さんは、記録書としても優れた日記である"権記ごんき"を書き残しています。

『権記』とは、大納言行成の日ということで、こう呼ばれているのです。

 もともと、この当時の日記は、記録書としての色合いの方が強いはずなのに、そこには今の日記に通じるような、私的な感想や、自らの生活をも描く人もいて、その興味深さゆえに研究されているものがあります。

『権記』は、その代表格であり、当時のことがよく判る作品なのです。


 例えば、長徳四年(九九八年)の夏、平安京の貴族の間で麻疹が流行った時のことですが、この時は、下人(身分の低い人:庶民等)は死なず、身分では四位以下(三位以上の公卿の下の位階、つまり中流ぐらいの貴族 )の役人の妻が最も多かった。……と、伝えられています。

 つまり,市井の人々より、免疫力がない大内裏で働く貴族たちの間で、より強く伝染したのではないかと思われます。


 日記の中の記述を分析すると、その時に起こった出来事が、いろいろと分ってくるので、とても興味深いのです。







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