ひとでなし
魚崎 依知子
第1話
頭を深々と下げて診察室のドアを閉め、閑散とした午後の廊下をロビーへと向かう。高揚で胸は早鐘を打ち、バッグから携帯を取り出す手が震えていた。
――お一人だけ、適合者がいらっしゃいました。ドナーになっていただければ、移植は可能です。
ああ、助かる。助かるんだ。気づくと滲む視界に目元を拭いながら、スキップしたい足を落ち着かせて薄暗いロビーの隅に落ち着く。手汗で滑る携帯の画面に表示される14:40を確かめて、着信履歴を開いた。
仕事中だが、今日結果が出るのは夫も知っている。きっとそわそわしながら待っているはずだ。逸る胸を押さえながら通話ボタンを押し、深呼吸をする。ガラス越しに眩しい夏の光景を流しながら、呼び出し音が途切れるのを待った。
もしもし、と馴染んだ声が聞こえた瞬間、ふっと何か押し寄せて涙が溢れる。
「えっと、あのね」
「……ああ、そうか。分かった、一人でつらかったな」
「ううん、違うの、そうじゃない」
涙声で察した夫に慌てて答え、洟を啜る。大きく深呼吸をして胸を軽く叩いた。
「
待ち望んだ結果に、熱い涙が頬を伝い落ちる。ああ、と短く答えて黙った夫も、きっと向こうで喜びを噛み締めているのだろう。
「良かった、本当に。
「まだ。今お医者さんから教えてもらったとこなの。咲和子にちゃんと頼んでからにしようと思って。電話で言うようなことじゃないから、一旦お店に戻るよ」
咲和子が適合したと知れば、希和子はきっと喜ぶだろう。先の見えない闘病生活の中で、初めて見えた光だ。ただ、だからといって咲和子を置いてけぼりにして進めて良い話ではない。適合したんだから当然、にはしたくなかった。
「そうか。俺も改めて話をするけど、ひとまずよろしく言っといてくれ」
「分かった。じゃあまた、あとで」
答えて小さく笑い、安堵の息を吐く。
「……これで、助かるのね」
「そうだといいな。もう十分に苦しんだから」
もちろん、どうなるかは実際に移植を終えてからでなければ分からない。それでも今は、願うのを止められなかった。
希和子が発熱と倦怠感を訴えたのは昨年、高校一年生の冬だった。時節柄まっさきに疑われたのは流行りの感染症だったが結果は陰性で、次に受けた血液検査のあと総合病院へ送られた。そして詳細な検査を重ねた結果、言い渡されたのは病名としては馴染みのある白血病だった。でも私の周りでは、希和子が初めてだ。
「そんなわけで、あなたにドナーをお願いしたいの。大変な役目だけど、引き受けてもらえないかな」
今日の結果を報告した私に、テーブル向かいの咲和子はシザーをチェックしながら頷く。明るいアッシュブラウンのぱっつんボブが、顎先で軽やかに揺れた。新しいカラー剤の実験台になってもらったが、なかなか発色がいい。モード系を好む咲和子にもよく似合っている。
「いいよ。検査の時にお医者さんも兄弟姉妹が一番合いますって言ってたから、私なんじゃないかなーって思ってたし」
あっさりと受け入れた咲和子に、湧いたのは親としての深い安堵だった。
もう二十二歳、か。
よその店をいやがりうちで働き始めて約二年、最初は何かとはらはらする場面が多かった。でも根気よく下積みを続け、そろそろスタイリストとしてデビューさせてもいいところまで来ている。まさか咲和子と二人で店を切り盛りする日が来るとは思わなかった。本当に、よくがんばっている。
「ありがとう、咲和子。本当に感謝してるし、あなたの成長ぶりが嬉しいわ。仕事もがんばってくれて、すごく助かってる。お父さんも、よくがんばっててえらいなあって言ってたよ」
「やめてよ、恥ずかしいじゃん。じゃあこっちは、メンテナンスに出すからね」
赤い顔で苦笑し、咲和子はメンテナンスへ出すシザーを持ってバックヤードへ向かう。
「希和子も御礼を言いたいと思うから、今度オンラインお見舞いする時に参加して」
エプロン紐の捻れた背に投げると、手が応える。ふふ、と笑う私を残して、咲和子はドアの向こうへ消えた。
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