夢微睡の逃避行

湯呑ぽかろ

第1話 電車旅

がたんごとん、がたんごとんと、ゆりかごに揺られて僕らはゆく。

 乗客はいない。ただ乱暴な冷気に当てられて、避暑に勤しむ僕らばかり。


 行き先も分からず終わりも分からず、僕らはいったいどこまでゆけるのだろうかと、それすらも分からず。

 ただ終点にたどり着くその時が、一生来なければいいのにと、僕は思う。


「ハルくん。旅をしませんか」


 確か始まりはそんな言葉。


「旅といったって、何処へ?」


 そう、僕は返して。


「そんな何処なんて野暮なこと、聞くものじゃないですよ」


 なんて、そう言われて。


「まあでも、君になら分かるでしょう? 少しの間、一緒に来てくれませんか?」


 そして、駄目押しはそんな言葉。僕には彼女の気持ちが痛いほど分かったし、僕も彼女を否定はできない。


 だから僕は、旅を望んだ。

 そして、望んだ末に今があって、今は楽しい。少なくとも、僕は彼女の隣にいられればいいのだから、この旅を彼女が楽しんでくれればそれで本望。それだけで、それだけでいい。本当にそれだけ。


 でもそれだけのことなのに、それもどうやら難しい。彼女は笑わない。最近彼女が笑っているのを見たことがない。昔はあんなに笑っていたのに、心の底から笑いに溢れていたのに、今の彼女からは消えてしまった。


 だからきっと、この願いは高望みなのだろう。悲しいことではあるけれど、それは事実、分かりきっていたことのはず。

 ただ旅の誘いを受け、微かな希望を見出していただけに、余計に悲しくなるだけ。結局なにも変わりはしない。

 だから、楽しくて悲しい。そんな相反する気持ちの板挟み。


 けれど、そんな気持ちの小競り合いに嫌気が差して、ふと、僕は彼女のほうを見た。

 彼女は綺麗だった。彼女は肘をつき、息を吸って吐いて、流れゆく夜空に身を任せていた。

 肌はつやがあり、けれど病的なまでに色白。怪奇的なコントラストは、絹のような美しさを醸し出す。

 つぶらなその瞳はシャボン玉のように綺麗で、まるで硝子細工のよう。けれどもその奥底に広がる水面が、彼女と僕とを隔てている。


 とても美しい。人間的な可愛らしさというよりも、芸術品のような気高さ、繊細さを持っていて、僕程度では触れられやしない。だからこそ近寄り難くもあり、手にしたくもあり、そんな彼女だからこそ、僕は共にありたい。

 心の奥底で口には出さずとも、激しい気持ちでそう思っている。思えば、出会った頃からその美しさを見ていたのだから、昔から。


「まもなく終点、終点です。お出口は右側です。お降りの際は、足元にご注意ください」


 そうぼんやりとしていると、突然車掌が終わりを告げた。曰く、旅路の果ての到着点は、もう既に目前。静寂に包まれた、海の見えるその町こそが、僕らの目指した場所らしい。


「おや、ハルくん。終点みたいですよ。もう私たちも電車から降りて、どこかへ行かなければいけませんね」


 そう言って、彼女は微笑んだ。人並みにらしくて可愛くて、顔が少し火照ったけれど、彼女の目は笑ってはいなかった。

 それから電車を降りて、海へと向かった。もちろん、僕が言い出して向かったのではなくって、彼女きっての希望からだった。

 古民家沿いの裏道を通り、静まり返った町を抜けて、彼女に手首を掴まれて。その彼女の手は温かくって、柔らかくって、けれどどこか人らしさはやっぱりなくって、そうして歩いていくうち、磯の匂いが鼻を抜けた。

 そうして、波の音も微かに聴こえてきて、そこにはやはり、さざなみ湧き立つ水面があった。


 海はとても静かに。

 潮が岸辺に打ちつけられ、たびたび波音が聞こえるばかりで、魚の声も、人の声も、生き物の声も聞こえない場所で、満点の星空を背景に、僕らはただ立ちつくすばかり。

 水平線は、僕らの手には届かないような遠くにあって、何もかも、人間なんかでは到底かなわない。明滅するさまざまの光が、空を埋め尽くすばかりだ。


 彼女も、彼方へと手を伸ばしたけれど、すぐに手をすくめた。きっと、彼女も分かるのだろう。

 これほどまでに大きくて、雄大なこの世界において、僕らという存在がどれほどちっぽけなのか。僕らの持っていた感情、それらも無意味で、どれだけくだらないものだったのか。

 きっとそう考えて、こんな世界がばかばかしくって、心がふっと消えてしまって、いつか終わるはずのこの夜を謳う。当てのない逃避行に、意味を見出したくって。


「とても、とても綺麗です。あまりに広くて、全てが美しくて、なんだか言葉に詰まりますね。力強く、けれど優しい。そして強大で、荒々しい。なぜかはわからないですけど、果てしない、自然というやつの力なのでしょうね。力を、自信をもらえます」


 彼女は空を見上げたまま、僕の方へと一歩、横に寄った。


「確かに、とても綺麗です」


 僕も一歩。横に歩もうとしたけれど、恥じてやめた。


「でも、これからどうしようか?」

「どうしようか、ですか。そんなことを聞くなんて、意地悪ですね」

「じゃあ、決まってるんです?」

「さあ、どうでしょう」


 さすがに少し戸惑った。


「でも、こんな美しい場所で、ハルくんと私でお話できているんですから、それだけでいいとは思いませんか」


 けれどそう、僕を茶化すようなことを言うものだから、ぐっと身体が引っ張られるような思いがして、それもまた、どうでもよくなった。


「まあまあ、冗談ですが。他愛もない、ちょっとしたただの冗談です。でも本当のところは、ハルくんも鈍い人じゃありませんから、全部わかっているんじゃありませんか」


 どうやら彼女は、僕をからかっているのかなんなんなのか、そう呟いた。ただ、僕は彼女にわかっているのかと聞かれて、黙った。首を横に振ることも、縦に振ることも、決してできはしなかった。

 ただ、黙りこくるだけ。沈黙を貫いて、イエスともノーとも言うことができずに、なんだか気まずいような気がした。


「それにきっと。きっとの話ですが、悩んでいたでしょう? だから、私が強要することはできないんですよ、ハルくん。ハルくんのことはハルくんが決める。私のことは私が決める。ハルくんがどんな答えを出したとしても、私に止める権利はありませんし、止める気もさらさらないですよ。それに、どんな結果になったとしても、私はハルくんのことを恨んだりはしません。だって、それが君の選択なんですから、私がどうこう思うのは、だいたい道理からしておかしい話なんですよ」


 彼女はつらつらと自論を述べた。そんな彼女に対して僕は、目を見開いて、少し気持ちを整理する。


「……そうですか」

「ええ」

「話したことってありましたっけ」

「ないですよ」

「じゃあ何故、そんな?」


 僕は首を傾げた。


「それは、ほら。ハルくんからは、私と同じ匂いがしましたから。私、鼻が利くんですよ」


 彼女は、鼻頭をとんとんと叩いた。


「それじゃあなんですが、この町には綺麗な日の出の見える崖があるそうなんです。そこで日の出までお話をして、一緒に今までできなかったことをして、一緒に日の出を見ましょう。それからでいいじゃありませんか」

 そして突然、彼女にまた手首を握られた。


「さあ、ハルくん。考えるのは、楽しいことのあとです。それからでもいいじゃありませんか」


 そして、彼女は走り出した。僕も遅れて走り出した。

 この夢現もじき終わる。二人で駆けて、走って、走って……

 その後のことは、きっと誰も知らない。

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夢微睡の逃避行 湯呑ぽかろ @yunomi_064

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