白い闇

冬場蚕〈とうば かいこ〉

白い闇

〈十一月十一日〉






〈十一月十二日〉






〈十一月十三日〉






〈十一月十四日〉





    ・

    ・

    ・

〈十二月二十四日〉







〈十二月二十五日〉







 患者が持ってきた新品同様の日記帳を見て、私は首を捻った。メンタルクリニックに勤めてもう四年になるが、なかなか奇特な相談だ。だってこれの何が問題なのか分からない。

 だが患者は生気のない顔に焦りを滲ませ、

「これ、昨日までの弟の日記です。先生、弟はどうしたら治りますか」

 先生も難しい顔で顎を撫でていた。事情を飲み込めていないのはどうやら私だけらしい。

「……とりあえず経過を見ましょう。今の時点で打てる手はありません」

 不安な顔をした患者が口を開く前に、「次は一週間後に来てください」先生は私に扉を開けるよう言った。患者は逡巡したが諦めたように立ち上がり、足音を鳴らして出て行った。私が扉を閉めるのを待ってから、先生は深い溜め息をついた。

「キツいな……」

 私は患者が忘れていった日記帳を再度見返した。見れば見るほど分からない。

「先生、これの何が問題なんですか?」

 先生は困った顔のまま、

「それは彼の弟さんの日記なんだ。弟さんは明るく社交的で、友達も多いらしい。学生時代には生徒会長も務めていたとか。でも最近様子がおかしかったそうで、試しに日記をつけさせたんだって。大学時代に心理学をかじっていたらしくてね。治療法としては正しいよ。さて、それを見てどう思う?」

「どうって……」

 変哲のない日記帳だ。あらかじめ日付が書き込んであって、その下に余白がある。横書きのものだ。それに何も書かれていないということは――

「弟さんはものぐさなんですね」

 だがその答えは外れだったらしい。先生は苦笑して、

「じゃあこう付け加えよう。弟さんは明るく社交的で友達も多く、もの凄く真面目なんだ。学生時代には生徒会長も務めていた。その前には会計や書記の経験もある。この日記をお兄さんから渡されたときもしっかり書くことを約束した。でも書かない……いや、書けないそうなんだ」

 そこまで言われてようやく理解する。

「日記に何も書けないことが問題……」

 先生は頷いた。

「この一ヶ月あまり、弟さんは机に広げた日記帳と毎日何時間も向き合っていたそうだ。ちゃんとペンを握ってね。ときには過去の日付のページを開いていたこともあるらしい。でも日記帳には空白しか書かれていない」

 その声は暗い。

「たまにいるんだよ。その日の楽しかったことも、悲しかったことも、何も書けない人が。文字に起こせないわけじゃない。何も感じられていないんだ。受容体がないと言えば分かりやすいかな。それがあるべき所にはただ空白が広がってるだけ。日記帳に書かれたのと同じ空白が……そういう意味では胸中を如実に著してはいるね」

 日記帳を閉じ、封印するように棚にしまった。

「感情豊かで愛嬌のある人だと聞いている。でも日記を見る限り、本当は何も感じていないんだろう。豊かな感情も誰かの模倣に過ぎないんだ。気がついたとき、お兄さんはさぞびっくりしただろうね。なにせお兄さんも感情豊かで愛嬌のある人なんだから」

「そうだったんですか……」

 目の前で笑っている人が本当は何も感じておらず、ただ自分の感情を真似ているだけだとしたら。想像すると気持ちが重たく沈んだ。

「暗い話になっちゃったね」

 察した先生が無理に明るい声で席を立ち、

「さっきのでようやく最後だ」

 私を背後から抱きすくめ、頭を肩に擦り付けてきた。先生……彼はこういう話にとことん弱い。いつも誰かが悲しむ姿を見ては、自分も悲しい顔をする。人の痛みを自分の痛みとして感じられる優しい人だ。そんな温かいところに私は惹かれたのだった。

 私を抱く手を弱めたり強めたりを繰り返していた彼はおもむろに顔を上げると、よし、と小さく気合いを入れるように呟いた。

「書き物だけ終わらせるから、カナは閉院作業をお願い。一日遅れだけどクリスマスケーキも買ったし、家でゆっくりしよう」

「そうね。すぐ終わらせてくるわ」

 幸せそうな笑顔に見送られ、私は診察室を出た。顔が緩んでいるのが自分でも分かった。

 一時間後、雑務を終わらせて、診察室に戻ると彼はペンを握ったまま眠ってしまっていた。きっと神経を使って疲れたのだろう。そう思い机を覗き込んだところで私は息を呑んだ。

 日記帳が開かれていた。横書きのものだ。今日の日付にはこう書かれていた。

〈十二月二十六日〉









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白い闇 冬場蚕〈とうば かいこ〉 @Toba-kaiko

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