エピローグ 三ヶ月後
先を歩いていた制服の男性が扉の前で立ち止まった。私の方を振り返ると、いくつか注意事項を述べて、扉を解錠した。
「どうぞ」男性は無感情に言って、手の先で扉の向こうの部屋を指した。
私はそれに会釈して部屋に入った。背後で扉の閉まる音がした。壁はむき出しのコンクリートで、床や天井も同じだった。無機質で彩りがない。パイプ椅子とアクリル板が目に入った。それに阻まれた向かいにも、同じような作りの部屋があった。
「座ってよ」向こうの部屋に座る女性が言った。要京子だ。「面会に来てくれるなんて嬉しいな」
「あなたが呼んだんじゃないですか」私はぶっきらぼうに言って椅子に腰掛けた。
彼女は現在、県内の拘置所に拘留されている。家宅捜索によって、要京子の家から被害者のものと思われる財布やスマートフォン、さらには凶器も見つかった。押収された写真はたった数枚で、被害者の亡くなった直後を写したものだったらしい。他の写真は全て食べた、と彼女は裁判で語った。
彼女の異常性が明らかになるに比例して裁判は長引いた。未だに判決は出ていないが、恐らく死刑だろう。精神鑑定で減刑されなければ良いと切に思う。
「だから嬉しいんだよ。まさか応じてくれると思ってなかったから」彼女はそう軽口を叩いてから、「敬語なんてやめてよ。同い年じゃん」と朗らかな笑みを浮かべた。
この笑顔にいったい何人が騙されたのだろう。アクリル板を通しても尚、要京子は普通の女子大生に見えた。
「なんで私を呼び出したんですか。弁護士でも家族でも、他に呼ぶ人はいたでしょう?」
私は敬語を崩さないよう留意しつつ言った。
「弁護士、ね」要京子は鼻で笑った。「心配しなくても、君の後に面会の予定だよ。死刑で良いのに、めんどくさい……。まあ、君が愛してくれるっていうなら話は別だけど」
「あり得ないですね」
私は即座に拒絶した。彼女は、だよね、と眉を上げた。
「だから死刑で良い」彼女はもう一度言った。嘘ではなさそうだった。「それに、家族もね。別にこの歳で会いたいってこともないな。私から来ないようにって口添えしてあるよ」
「あなたの家は裕福で幸せな家庭だと伺いましたけど。一軒家に住んでいて、両親とも健在で、衣食住に困ってもいなさそうで。それに、あなた自身に小説家っていう肩書きもあるじゃないですか」
「羨ましい?」彼女はつまらなさそうな顔で言った。「全部平凡で退屈だよ。両親とは仲が良すぎず険悪でもない。肩書きだって二流程度。それこそ小説にはありふれてる」
そんなもの私はいらなかった。彼女はそう言うと途端に黙り込んだ。
「あなたは一体どうなりたかったんですか?」きっと何回も繰り返されたであろう言葉を口にした。嫌がらせ半分、好奇心半分だった。
彼女は不意に粛然とした態度を取ると、「愛して欲しかった」と零した。まるで子どもがお菓子をねだるような口調に、私は口を噤んだ。それを見た彼女は、満足そうな笑顔を浮かべると、それより本題なんだけど、と切り出した。
「君の真相を教えてくれないかな」
私はその言葉に密かに息を呑んだ。
「拘置所の中でも執筆は許されるんだ。だから今回のことを小説にしようと思ってね。倒叙ミステリもいいし、叙述トリックも使えるといいな。『殺人鬼・新庄要の遺作!』とか銘打ったら結構売れると思うんだ。私の彼女たちへの愛も誇示できる。で、そのために君を取材したい」
「そんなの許されると思うんですか?」声が震えた。唾を飲み込む。「被害者や遺族に……、先輩に申し訳ないとは思わないんですか」
「思ってるよ。だから売り上げは全部、公的機関に寄付する予定だ。あ、なんだったら先輩を受け渡し先にしてもいい。迷惑料にしては結構な額になると思うよ」
「馬鹿馬鹿しい。帰ります」私は椅子を蹴倒すようにして立ち上がった。
「本当に、いいのかな?」しかし要京子の声は落ち着いていた。「もし君がこのまま帰るんだったら、私は警察に全て告発する。君が人殺しである事実をね。それは君も困るんじゃないかな」
「そんなの信用されると思うんですか?」私は顔を背けた。「証拠だってないんですよ。指紋は雨で洗い流されているでしょうし、万が一残っていたとしても、私のサンプルはないはずですから」あの時断ったのは、そのためだった。
しかし彼女は尚も落ち着いた声で、思うね、と言った。
「君だって容疑者の一人だったんだ。少しでも疑問を抱かせれば、興味本位でも動いてくれる人間はいるだろう。っていうか、そうやって反論してる時点で君もバラされたらまずいとは思ってるんでしょ? それなら私に協力して欲しいな」
私は一瞬だけ躊躇ったが、結局また椅子に座った。
「大丈夫。小説はあくまでフィクションだ。『この物語はフィクションです』の注意書きで、君の事件は嘘だと思われる。名前も変えるし、不都合なことは全部伏せるから安心してよ」
その言葉を信じたわけではなかったが、私はそれ以上何も言わなかった。どうせもう選択肢はない。協力は強制なのだ。
「よし、それじゃあよろしくね」彼女は勝ち誇った笑みを浮かべた。「まず、どうして殺したか教えてくれるかな。君と彼の間に確執はなかっただろう? それなのにどうして瀬川秀介を殺したんだ?」
「……別に、死んでもいい人間だったからですよ。援交して、ストーカーして、私が殺しても心が痛まなさそうだったので」
少し考えてから、私はとりあえずそういった。しかし彼女はやはり納得いかないようで、不服そうに眉を寄せて抗議の声を上げた。
「そういうのいいから、本当の理由を話してよ。そんな簡単なことじゃないでしょ。それだったら、殺しやすい人間は他にもっといる。わざわざ足のつきやすい上央の教師を殺すわけがない」
どうやら騙すのは無理そうだ。私は深い溜め息をついて口を開いた。
「……よくある話ですよ。男親に育てられていた少女が、ある日を境に親から性行為を迫られるようになりました。それが小学六年生のときです。日に日に行為はエスカレートしていき、何度か孕んだことすらありました。何度も死のうと思いました。なのに最後の一歩が中々踏み出せませんでした。でも、高校三年生のとき、転機が訪れました。父親が殺人罪で捕まったんです。被害者の名前は深見聡一。先輩のお父さんでした。聡一さんは児童相談所の職員で、私の父を何度も咎めに来てくれました。けれど私が高三の冬にとうとう口論になり、怒った父が包丁で聡一さんを……」
「いいね。そういうのが聞きたかったんだ」彼女は楽しそうな声を上げた。「それで、どうしてそれと、君の殺人が繋がるんだろう」
もうここまで言えば分かるだろうに、そんなことをいった。私は不承不承続けた。
「……大学に進学して驚いたのは、先輩が聡一さんの息子であったことです。私は彼にすぐ話しかけて、家に上がり込みました。先輩にならどうされても構いませんでしたし、それが償いだと思ってましたから。でも先輩は何かを察したのか、理由も聞かず私と一緒にいてくれました。合鍵まで渡してくれて、いつでも来て良いと言ってくれました」
ほとんど初対面の私に合鍵を渡す異常さといったらない。
もらったとき、どうして渡してくれたのか聞いたら、先輩は「一人暮らしは寂しい」と笑ってくれた。あの笑顔は私の全てを賭けるに値する。
「私は先輩に、贖罪も恩返しもできていない。先輩のおかげで、私はまた髪を伸ばすことができているのに……。そんなとき、先輩が事件の捜査に協力し始めたんです。でも犯人は先輩のかわいい後輩である要京子です。どうにもならず、他の方法を模索する内に、瀬川秀介にたどり着きました。裏であんな行為をしていたことと、お姉さんの婚約者であることが分かったとき、天啓を得ました。それが、表沙汰になる前に瀬川秀介を殺すことです」
「愛だねえ」要京子は揶揄うようにいった。「でも、君の父親が殺人犯だってよく隠し通したね。私も知らなかった」
見習いたいくらいだよ、と彼女はつまらない冗談を口にした。
「まあ、お姉さんだけは気づいていたみたいですけどね」
「そうか。あの刑事さんは結構な手腕だったんだ。でも、残念。男を見る目はなかったんだな」彼女はニヤリとほくそ笑んだ。「君にとっても僥倖だっただろう? 死人に口なしなんだから」
私はその言葉を無視して続けた。
「殺すのは簡単でした。あれだけの豪雨なら、ちょっと道路に押し出せば呆気なく死んでくれますし」
瀬川秀介の背中を押した瞬間の高揚を思い出した。あの時は上手くいったと喜べていたはずなのに。
「その後はあなたも知ってるとおりですよ。瀬川秀介を殺して、駅に戻ってみればお姉さんは既に亡くなっていて、大した償いになっていなかったという事実だけが残りました」
「じゃあ君はまだその恩返しだか贖罪だかは諦めてないんだ」
「ええ、もちろん」私は毅然として答えた。
それを聞いた要京子は、声を上げて笑いだした。「そんな共依存、よくやるね。正気の沙汰とは思えないよ」目尻に涙を浮かべている。
「どうでも良いんですよ。そんなこと。先輩が私から離れていかないのなら、些細なことです」私は抱腹している彼女を横目に言った。「もういいですか? この後お墓参りがあるんですよ」
「うん。ありがとう。面白い話を聞けて良かったよ。あ、ちゃんと秘密は守るから安心してね」
彼女は一頻り笑ったあと、息を整えながらそう言った。私は、そうですか、とだけ返してドアノブに手を掛けた。
「あ、ちょっと、最後に良いかな」彼女は私を呼び止めた。真剣な声だった。「先輩に伝えておいて欲しいことがあるんだ」
私は数秒迷ってから振り返った。「なんですか」
「謝っておいて欲しいんだ。私、ずっと先輩に嘘をついてたんだよね。間違った推理に、創作の事件で彼を騙していた」そこで彼女は耐えきれなくなったのか、吹き出してまた笑い出した。「ごめん、ごめんね。だって、何でも簡単に信じてくれるからおかしくてさ」
彼女は狂ったように哄笑しながら、君たちがどこまで続くか見物だな、と言った。
私は彼女に中指を突き立てると、すぐ部屋を出た。扉が閉まるまで不愉快な笑い声は聞こえ続けた。
*
「お待たせしました」
拘置所から出ると、外で待たせていた先輩に声をかけた。先輩は開いていた文庫本を閉じて、鞄にしまった。私はそれが新庄要のものであることを知っていた。一緒に行かなくて良かったと心の底から思った。
「うん、大丈夫」先輩は寂しそうに相好を崩した。「それより要はどうだった? 元気そうだったか?」
「ええ。先輩によろしく伝えてくれと言われました」私は適当に言い繕った。
「そうか……」先輩は沈んだ声を出した。「要は大切な後輩だからな。もう少し気持ちの整理がついたら、俺も面会に行くよ」
先輩は要京子の話をするとき、『大切な後輩』という言葉をよく使う。きっとそうして自分の気持ちに折り合いを付けているのだろう。
私は彼が要京子に恋情を抱いていたことも知っていた。
「そうですね。要さんも喜びますよ」
しかし私は反駁もせずにそう言った。まだ好きなのかなんて野暮なことは聞けない。
やはり先輩に要京子を殺させておくべきだったと後悔した。
「そうだ、それより渡すものがあったんだ」
先輩は私の気持ちを知るよしもなく、ポケットから一本の鍵を取りだした。彼の手首で壊れた腕時計が光った。
「これは……」受け取った鍵の先で、猫のストラップが揺れている。「私の合鍵ですか」
「返すって約束だっただろ? ずっと忘れてて、昨日思い出したんだ。遅くなってごめんな」
「最近忙しかったから仕方ないですよ」私は鍵を鞄の奥底に仕舞った。今はこれで良しとしよう。「それより今日のお墓参りは警察の人も来るんですよね」
「うん。確かその予定だったよ」
「あの横柄な人も来るんですか?」自分の鼻に皺が寄るのが分かった。
「横柄な人?」
「逮捕のとき、要さんを取り押さえてた人です」
「ああ、日下部さんのことか」先輩の声のトーンが落ちた。「どうだろう。あの人は姉さんのこと嫌ってたし、来ないんじゃないかな」
「でも、葬式には来たじゃないですか」泣くのを我慢していた先輩に嫌みを言っていた姿を思い出した。「先輩はあの人のこと嫌いですか?」
先輩は少し考えてから、そうだね、とどっちつかずの回答をした。
「私は嫌いです」だから殺しますね、とは続けなかった。代わりに、「あんな人、死んじゃえば良いんですよ」と言った。
「……ありがとな」先輩は私の言葉にはにかんだ。
それはきっと何の含みもない言葉だったのだろう。本当に死を願っているわけでもない、純粋な謝意だったはずだ。けれどそれだけで、私は全ての行為を赦された気分だった。
私はもう一度、絶対に殺しますね、と内心で唱えた。
そのとき、雨が降り出した。小雨が徐々に本降りになっていく。
「天気予報では曇りのはずだったんだけどな」先輩はそうぼやいて折りたたみ傘を取りだした。
「どうせ通り雨ですよ」私はそういいつつも、彼から傘を受け取って開いた。雨が苦手なことを覚えていてくれたのが嬉しかった。
一人用の傘に、二人で肩を寄せ合う。これが共依存だというのなら、私はそれで構わなかった。肩に掛かる温みはきっと裏切らないから。
ふと空を見上げると、重たい灰の雲が淀んでいた。雨脚が強まっていく。
晴れる見込みは、まだない。
〈了〉
アイのために 冬場蚕〈とうば かいこ〉 @Toba-kaiko
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